煤煙ばいえん)” の例文
近き頃森田草平もりたそうへいが『煤煙ばいえん小粟風葉おぐりふうようが『耽溺たんでき』なぞ殊の外世に迎へられしよりこのていを取れる名篇佳什かじゅう漸く数ふるにいとまなからんとす。
矢はずぐさ (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
煤煙ばいえん」が朝日新聞に出て有名になつてからのち間もなくの話であるが、著者はそれを単行本として再び世間に公けにする計画をした。
『煤煙』の序 (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
戦いのあとで、日本軍の爆弾や砲弾を浴びた石油タンクが何日も燃えつづけ、煤煙ばいえんを吸ったスコールに打たれて、すすけてしまったのだ。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
煙筒は、真黒な煤煙ばいえんに混じえて、火焔を吐き出しはじめた。船体が、ビリビリ震動して、闇に迫る怪艇の眼からのがれようとした。
潜航艇「鷹の城」 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
老衰して黒っぽくなりその上に煤煙ばいえんによごれた古葉のかたまり合った樹冠の中から、浅緑色の新生のが点々としてともっているのである。
破片 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
三角なり行燈あんどんにかんてらの煤煙ばいえん黒く、水菓子と朱の筆もて書いたる下に、栗をうずたかく、蜜柑みかん、柿の実など三ツ五ツずつ並べたり。
照葉狂言 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
連絡船の影だの起重機の鉄骨だの、雑多な船舶だの、そして陽がさしても、重工業のうす黒い煤煙ばいえんがどことはなく一面に朝をつつんでいる。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
松薪はヤニの多いものだから火力が一気に上がるし、煤煙ばいえんもきつくて、飯を炊くのには適しないように思う。多分くぬぎ薪のまちがいだろう。
西園寺公の食道楽 (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
そして煤煙ばいえん防止に大わらわである。まことに結構な話で、札幌から煤煙が駆逐くちくされたら、冬の札幌の生活は、よほど快適になることであろう。
黒い月の世界 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
あらゆるいまわしい想像が、工場の煙突から吐き出される煤煙ばいえんのように、むらむらととぐろを巻いて、彼の意識全体にひろがってゆくのであった。
犠牲者 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
煤煙ばいえんでまっ黒にすすけた煉瓦れんが壁の陰に汽車がまると、中からいちばん先に出て来たのは、右手にかのオリーヴ色の包み物を持った古藤だった。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
汽車がなつかしい王子あたりの、煤煙ばいえんくすんだ夏木立ちの下蔭へ来たころまでも、水の音がまだ耳に着いていたり、山の形が目に消えなかったりした。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
白いペンキ塗りの汚れた通運丸つううんまるが、煙筒えんとつからは煤煙ばいえんをみなぎらし、推進器すいしんきからは水を切る白い波を立てて川をくだって行くのが手にとるように見えた。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
ちょうははなにとまって、はねやすめたかとおもうと、またがって、煤煙ばいえん物音ものおとで、かきにごされているそらを、どこともなくんでえてしまいました。
青い草 (新字新仮名) / 小川未明(著)
煤煙ばいえん臥床ふしどに熟睡していたグレート大阪おおさかが、ある寒い冬の朝を迎えて間もないころ、突如として或る区画に住む市民たちの鼻を刺戟した淡いいやな臭気こそ
蠅男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
そして現在では煤煙ばいえんで痛めつけられた木の葉や草の葉に生色がなくほこりまびれにれた大木が殺風景さっぷうけいな感じを
春琴抄 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
帆柱山ほばしらやまの麓の高台にある藤本家からは、八幡製鉄所が眼下に望まれる。囂々ごうごうたる音響と、濛々たる煤煙ばいえん
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
大空くまなく晴れ都の空は煤煙ばいえんたなびき、沖には真帆まほ片帆かたほ白く、房総の陸地くがじあざやかに見ゆ、す日影、そよぐ潮風、げに春ゆきて夏来たりぬ、楽しかるべき夏来たりぬ
おとずれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
もう煤煙ばいえんがどこからか入って来て障子のさんなどをよごす大阪の町々のことを考え、それらの町のどこか奥ふかく脈々と動いているであろう不屈の意志を感じ——すると
(新字新仮名) / 島木健作(著)
と、自分は、はなの頭に、煤煙ばいえんであろう、黒いものがべっとりとついているのを見つけて苦笑くしょうした。
くまと車掌 (新字新仮名) / 木内高音(著)
ドールとポンタルリエとの間の蒼茫そうぼうたる平野の上の赤いあけぼの眼覚めざめくる田野の光景、大地から上ってくる太陽——パリーの街路とほこりだらけの人家と濃い煤煙ばいえんとの牢獄ろうごくから
その姿を煤煙ばいえんと電燈の光との中に眺めた時、もう窓の外が見る見る明くなつて、そこから土の匂や枯草の匂や水の匂がひややかに流れこんで来なかつたなら、やうやく咳きやんだ私は
蜜柑 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
前を近在の百姓が車を曳いて通り、後ろを丹波鉄道が煤煙ばいえんを浴びせて過ぐる、その間にやっと滅び行く運命を死守して半身不随の身を支えおるというみじめな有様であります。
川口界隈かわぐちかいわい煤煙ばいえんにくすんだ空の色が、重くこの橋の上に垂れている。川の水もにごっている。
馬地獄 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
その遙かの末に新嘉坡の白亜の塔と高楼と煤煙ばいえんを望ましている海の景色に眼を慰めていた。
河明り (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
空には煤煙ばいえんかすかに浮び、子供の群集する遠い声が、夢のやうに聞えて来る。広いがらんとした広間ホールの隅で、小鳥が時時さえずつて居た。ヱビス橋の側に近く、晩秋の日の午後三時。
田舎の時計他十二篇 (新字旧仮名) / 萩原朔太郎(著)
その地平線は白の地に、黄と少量の朱と、あいと黒とを交ぜた雲とかすみとであった。その雲と霞は数条の太い煤煙ばいえんで掻き乱されている。鮮麗せんれいな電光飾の輝く二時間ぜんの名古屋市である。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
大部分だいぶぶんひと生活せいかつしてゐる都會とかいは、せま土地とち大勢おほぜいひとみ、石炭せきたん煤煙ばいえんや、そのほか塵埃じんあいでもって空氣くうきがおそろしくにごつてをり、また各種かくしゆ交通機關こうつうきかん發達はつたつして晝夜ちゆうやわかちなく
森林と樹木と動物 (旧字旧仮名) / 本多静六(著)
「やっぱり空気がいゝのですね。東京の空と違って、塵埃じんあい煤煙ばいえんがないのですね。」
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
威勢よく空一面にみなぎつてゐる焦茶色の煤煙ばいえん、その下に鉄とエンヂンとのどよめき渡る工場の彼方かなたを汽船の甲板から眺めた時、彼は云ひやうのない心強さと讃美の気持でいつぱいだつた。
煤煙の匂ひ (新字旧仮名) / 宮地嘉六(著)
外には薄暗い小さな裏庭があって、高い塀にかこまれている。この庭の敷石はひどくしめっているので、その湿気とほこりと煤煙ばいえんとのために、わたしたちが歩くたびに薄い足跡が残った。
この向島も全く昔のおもかげは失われて、西洋人が讃美し憧憬する広重の錦絵にしきえに見る、隅田の美しい流れも、現実には煤煙ばいえんに汚れたり、自動車のあお黄塵こうじんまみれ、殊に震災の蹂躙じゅうりんに全く荒れ果て
亡び行く江戸趣味 (新字新仮名) / 淡島寒月(著)
不気味に地上から突出した暗黒の洞穴ほらあなをめぐり、円周は幅二十センチほどであった。いちめんのほこり煤煙ばいえんとで、ぼくらのは、まるで黒人兵のように指の間だけをのこして真黒に染まった。
煙突 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
夜汽車の煤煙ばいえんですすけた顔を洗いもせずに、閑子は腹立たしそうにいう。
妻の座 (新字新仮名) / 壺井栄(著)
黙示録に「天は巻物をくが如く去り行く」と歌うたも無理はない。青空は今南の一軸に巻きちぢめられ、煤煙ばいえんの色をした雲の大軍は、其青空をすらあまさじものをと南を指してヒタ押しに押寄おしよせて居る。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
初冬のロンドンには、煤煙ばいえんを交えた霧の日がしきりにつづく。
女肉を料理する男 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
森田草平の煤煙ばいえんのような小説を書いてみたい。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
天と地の間に煤煙ばいえんの雲がうずをいていた。
煤煙ばいえんの空に響いている。
沙漠の古都 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
濛濛もうもうと渦巻く煤煙ばいえん
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
煤煙ばいえんが流れていた
安い頭 (新字新仮名) / 小山清(著)
煤煙ばいえんのせいであろう。赤坂へ越して来たら、赤坂の雀はまだ少しはきりょうがいい。奥多摩を考えたら、奥多摩の雀はほんとの雀色をしていた。
随筆 私本太平記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
糠粒ぬかつぶを針の目からこぼすような細かいのが満都の紅塵こうじん煤煙ばいえんかして濛々もうもうと天地をとざうちに地獄の影のようにぬっと見上げられたのは倫敦塔であった。
倫敦塔 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
煤煙ばいえんにとざされた大都市の空に銀河は見えない代わりに、地上には金色の光の飛瀑ひばくが空中に倒懸していた。
試験管 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
シヤトルの町並みがあると思われるあたりからは——船のつながれている所から市街は見えなかった——急に煤煙ばいえんが立ち増さって、せわしく冬じたくを整えながら
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
私はしばらく大阪の町の煤煙ばいえんを浴びつつ、落ち着きのない日を送っていたが、京都を初めとして附近の名勝で、かねがね行ってみたいと思っていた場所を三四箇所見舞って
蒼白い月 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
その姿すがた煤煙ばいえん電燈でんとうひかりとのなかながめたとき、もうまどそとあかるくなつて、そこからつちにほひ枯草かれくさにほひみづにほひひややかにながれこんでなかつたなら、やうやきやんだわたくし
蜜柑 (旧字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
前の例に於て、阿弗利加の内地や熱帯の孤島を詩的と考えるのは、煩瑣はんさな社会制度に悩まされて、機械や煤煙ばいえんやのために神経衰弱となってるところの、一般文明人の主観である。
詩の原理 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
煤煙ばいえんのよごれがみんなられて、きよらかにされるからであり、また、いつても気持きもちのわるくなるくされかかったブリキの、いぼれた看板かんばんが、一のうちに、どこへかんでしまい、そして
台風の子 (新字新仮名) / 小川未明(著)
列車の窓から、マンチェスター市の空をおお煤煙ばいえんが、そろそろ見えてきた。
英本土上陸戦の前夜 (新字新仮名) / 海野十三(著)