“陽（ひ）” の例文
おのづから智慧（ちゑ）も力（ちから）も備（そな）はつて、陽（ひ）の面（おもて）に、隱形（おんぎやう）陰體（いんたい）の魔法（まはふ）を使（つか）つて、人目（ひとめ）にかくれ忍（しの）びつゝ、何處（いづこ）へか通（とほ）つて行（ゆ）くかとも想（おも）はれた。
番茶話 (旧字旧仮名) ／ 泉鏡花、泉鏡太郎(著)
今（いま）まで流（なが）し元（もと）で頻（しき）りに鳴（な）いていた虫（むし）の音（ね）が、絶（た）えがちに細（ほそ）ったのは、雨戸（あまど）から差（さ）す陽（ひ）の光（ひか）りに、おのずと怯（おび）えてしまったに相違（そうい）ない。
おせん (新字新仮名) ／ 邦枝完二(著)
順一が事務室に現れたのは、朝の陽（ひ）も大分高くなっていた頃であったが、ここにも茫とした顔つきの睡（ねむ）そうな人々ばかりと出逢（であ）った。
壊滅の序曲 (新字新仮名) ／ 原民喜(著)
せんだって迄、半瓦の部屋の飯食い者、再度悪事のかど之有（これあ）り候につき、雨ざらし陽（ひ）ざらし、七日七晩きゅうめいさせ置候（おきそうろう）ものなり。
宮本武蔵：06 空の巻 (新字新仮名) ／ 吉川英治(著)
千代田の大奥には、硝子（びいどろ）を透かして見るような、澄明な秋の陽（ひ）がにおって、お長廊下（ながろうか）の隅すみに、水のような大気が凝（こ）って動かない。
魔像：新版大岡政談 (新字新仮名) ／ 林不忘(著)
私が、亡き父に伴われては河原の陽（ひ）に照らされていた年頃である。子供が次第に大きく育っていくのを見るのは、何事にもかえがたい。
小伜の釣り (新字新仮名) ／ 佐藤垢石(著)
暑い陽（ひ）を吸うていた磧（かわら）の沙（すな）は鬼魅（きみ）悪くほかほかしていた。その時莚包（むしろづつみ）と焼明（たいまつ）を持って背の高い男が、鵜（う）を持った角顔の男のほうを見て
赤い土の壺 (新字新仮名) ／ 田中貢太郎(著)
シグナルは高く叫（さけ）びました。しかしシグナルも、もうだまってしまいました。雲がだんだん薄（うす）くなって柔（やわ）らかな陽（ひ）が射（さ）して参（まい）りました。
シグナルとシグナレス (新字新仮名) ／ 宮沢賢治(著)
いつも、暮（く）れ方（がた）の陽（ひ）が、斜（なな）めにここへ射（さ）すころ、淡紅色（たんこうしょく）の小（ちい）さなちょうがどこからともなく飛（と）んできて、花（はな）の上（うえ）へ止（と）まるのでした。
戦友 (新字新仮名) ／ 小川未明(著)
人間は目的のない仕事、陽（ひ）の目（め）を仰ぐ筈がないと分りきった仕事をすることが如何に不可能なものであるか、厭というほど思い知った。
魔の退屈 (新字新仮名) ／ 坂口安吾(著)
陽（ひ）も上るに及んで、愈々合戦の開かれんとする時、幸村は一子大助を呼んで、「汝は城に還りて、君が御生害（ごしょうがい）を見届け後果つべし」
真田幸村 (新字新仮名) ／ 菊池寛(著)
ワイシャツ一枚では陽（ひ）が通して暑い。このゴザを背負うと、風通しはよいし、実に涼しい。行き帰りには釣り竿を巻いて持ち歩く。
江戸前の釣り (新字新仮名) ／ 三遊亭金馬(著)
初秋の空は晴れわたって、午後の陽（ひ）ざしはこの幼（おさな）い一団（いちだん）を、白くかわいた道のまん中に、異様さをみせてうしろから照（て）らしていた。
二十四の瞳 (新字新仮名) ／ 壺井栄(著)
豊年坊主は、二つ、三つ、火鉢の角にまでお辭儀をして、秋の陽（ひ）によく禿（は）げた頭を光らせながら、あたふたと外へ出て行きました。
銭形平次捕物控：310 闇に飛ぶ箭 (旧字旧仮名) ／ 野村胡堂(著)
当地では陽（ひ）のさす日が寔（まこと）に少く、太陽は十一月以来顔を見せてくれませぬが、もう近いうちに早春が訪れて来るでございましょう。
細雪：03 下巻 (新字新仮名) ／ 谷崎潤一郎(著)
曇ってはいるけれども、陽（ひ）が高くなったためだろう、道の雪が溶けはじめたので、ぬかるみを拾って歩かなければならなかった。
ばちあたり (新字新仮名) ／ 山本周五郎(著)
昼間、藁部屋（わらべや）の陽南（ひなた）で猫（ねこ）といっしょに陽（ひ）にぬくとまりながら、鳴らしているときは、木之さんも年を喰ったと村人が見て通った。
最後の胡弓弾き (新字新仮名) ／ 新美南吉(著)
長屋の中央にある井戸端で、かんかんと照りつける秋の陽（ひ）を浴びながら、マンと、兄林助（りんすけ）の女房チヱとが、二人、話をしている。
花と龍 (新字新仮名) ／ 火野葦平(著)
陽（ひ）がかげる頃に彼れは居酒屋を出て反物屋（たんものや）によって華手（はで）なモスリンの端切（はぎ）れを買った。またビールの小瓶（こびん）を三本と油糟（あぶらかす）とを馬車に積んだ。
カインの末裔 (新字新仮名) ／ 有島武郎(著)
それに代って、樹々の梢（こずえ）に、うつくしい若葉が萌（も）え出（い）で、高き香（か）を放ちはじめた。陽（ひ）の光が若葉を透（とお）して、あざやかな緑色の中空をつくる。
二、〇〇〇年戦争 (新字新仮名) ／ 海野十三(著)
顔も手も足も、煎（い）りあげるように熱い南の陽（ひ）が、照っていて、ゆるやかな、ひだをたたんだ波の上を、生あたたかい微風（そよかぜ）がかよって行った。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) ／ 蘭郁二郎(著)
陽（ひ）が輝きだすとガラス屑（くず）のような霜柱がかさかさと崩れて、黒土がべたべたと濡（ぬ）れていった。陽がその上にぎらぎらと映った。
恐怖城 (新字新仮名) ／ 佐左木俊郎(著)
そう心を決めて、陽（ひ）も大分傾いてきましたから、私は初めて来た時にスパセニアから教えられた、水の尾という村へ向って歩き出しました。
墓が呼んでいる (新字新仮名) ／ 橘外男(著)
ジギタリス、アネモネ、グラジオラス、サフラン、そんな花々につつまれて、一日中、陽（ひ）があたっている明るさ暖かさでした。
オリンポスの果実 (新字新仮名) ／ 田中英光(著)
またぐずぐずしていると、まわりの麻に被われて陽（ひ）を受けることができなくなるから、どんどんわれおくれじと伸びてゆく。
この子を残して (新字新仮名) ／ 永井隆(著)
「夏は涼しいが、冬は北向きで陽（ひ）がささんので、引越しすると家主さんに云うと、一円位はお前すぐまけてくれるそうだよ」
落合町山川記 (新字新仮名) ／ 林芙美子(著)
で、明るい陽（ひ）の中に、顔にかけられた布ばかりが、変に気味悪く白々と浮き出し、妖怪画にあるのっぺら坊のように見えた。
あさひの鎧 (新字新仮名) ／ 国枝史郎(著)
松岡長吉は腫（は）れた瞼（まぶた）をおしあけた。あたりを見ようとして目のたまを少し動かした。天井のない屋根裏に白い陽（ひ）の光が斜めに流れこんでいた。
石狩川 (新字新仮名) ／ 本庄陸男(著)
空林庵の朝倉先生の書斎（しょさい）は、深く陽（ひ）がさしこんで温室のようにあたたかだった。二人がはいって来ると、先生はすぐ言った。
次郎物語：05 第五部 (新字新仮名) ／ 下村湖人(著)
さびしいが陽（ひ）はあたつてゐる。すべてが穏かな秋の半（なか）ばの明（あか）るさだ。輝（かがや）きの無い輝（かがや）き。物音の無い、人の気（け）も無い庭、森閑とした庭、幽かな庭。
観相の秋 (新字旧仮名) ／ 北原白秋(著)
蕗（ふき）の葉ほどもあるひまわりが陽（ひ）に顔を向けていたことなぞであるが、こんなことは自分の生まれた家を捜すためには役に立つことではなかった。
抱茗荷の説 (新字新仮名) ／ 山本禾太郎(著)
八月の陽（ひ）は草を焼いた。そうかといって、納屋に入れてある秣（まぐさ）を、今、家畜にやることはできない。冬になったらどうすることもできなくなる。
ぶどう畑のぶどう作り (新字新仮名) ／ ジュール・ルナール(著)
これだけの緒口（いとぐち）を考えつくと僕は、急に愉快になって寝台から飛び降りた。僕の頭は梅雨期を過ぎて初夏の陽（ひ）が輝いたかのように爽々（すがすが）しくなった。
吊籠と月光と (新字新仮名) ／ 牧野信一(著)
低い街々の陽（ひ）のあたらぬ屋根裏や塵埃溜（ごみため）や、それともまたは、歯車の噛（か）み合（あ）う機械や飲食店の積み重なった器物の中へ、胞子を無数に撒（ま）きながら
花園の思想 (新字新仮名) ／ 横光利一(著)
その翌日——フローラがすがすがしい陽（ひ）の光に眼覚めたとき、浜辺のほうから、異様な喚声が近づいてくるのを聴いた。
紅毛傾城 (新字新仮名) ／ 小栗虫太郎(著)
或年の秋の大掃除の時分、めつきり陽（ひ）の光も弱り、蝉（せみ）の声も弱つた日、私は門前で尻を端折り手拭で頬冠りして、竹のステッキで畳を叩いてゐた。
途上 (新字旧仮名) ／ 嘉村礒多(著)
そして呆然（ぼうぜん）と立った外国人の前で、くるりと背を見せて何やらまた楽しげに笑い興じながら、麗（うら）らかな陽（ひ）のさんさんと降りそそぐ道を歩んで行った。
如何なる星の下に (新字新仮名) ／ 高見順(著)
秋の陽（ひ）を浴びて美しく光り、近親の人たちに守られながら、旧館を出て松林の中の細い坂路（さかみち）を、アスファルトの県道の方へ、ゆるゆると降りて行った。
パンドラの匣 (新字新仮名) ／ 太宰治(著)
それで土器の形の数学的考察という一風変ったこの研究は、とうとう陽（ひ）の目を見ずにそれ切りになってしまった。
茶碗の曲線：――茶道精進の或る友人に―― (新字新仮名) ／ 中谷宇吉郎(著)
どこへ行くのか知らん、机竜之助は七ツさがりの陽（ひ）を背に浴びて、神田の御成街道（おなりかいどう）を上野の方へと歩いて行きます。小笠原左京太夫（さきょうだゆう）の邸の角まで来ると
大菩薩峠：02 鈴鹿山の巻 (新字新仮名) ／ 中里介山(著)
陽（ひ）というものがまるで失（な）くなってしまったのではないというしるしに、時どきうすい影を投げることもあるが、それは忽ち暗い雲の袖に隠れてしまった。
箕輪心中 (新字新仮名) ／ 岡本綺堂(著)
また氷をとかす春の陽（ひ）のようにユダの心をつつんで、その悪しき考えを思いとどまらせようとしたのであります。
イエス伝：マルコ伝による (新字新仮名) ／ 矢内原忠雄(著)
漸（ようや）く恢復したこととて、美しかった黒い毛並も色（つや）を失って、紅梅を洩れる春の陽（ひ）に当った由紀子の白いきめを見た拍子に、一層やつれて見えるのであった。
鼻に基く殺人 (新字新仮名) ／ 小酒井不木(著)
砂地の灼（や）けつくような陽（ひ）の直射や、木蔭（こかげ）の微風（びふう）のそよぎや、氾濫（はんらん）のあとの泥（どろ）のにおいや、繁華（はんか）な大通（おおどおり）を行交う白衣の人々の姿や、沐浴（もくよく）のあとの香油（こうゆ）の匂（におい）や
木乃伊 (新字新仮名) ／ 中島敦(著)
それにエプロンを外すと、お太鼓の帯も妙にぺったりして、模様の金魚もなにか貧弱だ。かんかんと照っている陽（ひ）が鼻の横の白粉を脂にして浮かせていた。
青春の逆説 (新字新仮名) ／ 織田作之助(著)
英国種の芝生が、絨氈（じゅうたん）を敷いたようにひろがって、そのうえに、暖い陽（ひ）ざしがさんさんとふりそそいでいる。
キャラコさん：01 社交室 (新字新仮名) ／ 久生十蘭(著)
宿の前には、一昨日の晩から昨日へかけて降つた雪が、根雪になつたまま陽（ひ）を受けて弱々しく光つてゐた。私は飲み過ぎと寝不足とで頭がクラクラしてゐた。
イボタの虫 (新字旧仮名) ／ 中戸川吉二(著)
窒息しそうな濃いけむりのなかに、海の陽（ひ）やけで茶褐に着色された無数の顔が、呶鳴（どな）って笑って呪語していた。鋼鉄の指金具（ナックル）とあき壜は星形の傷痕をのこす。
踊る地平線：08　しっぷ・あほうい！ (新字新仮名) ／ 谷譲次(著)
さて、かめが卵を生みつけた砂の表面は、日中はよく陽（ひ）があたって、砂の中は、ほどよい温度度をたもっているので、卵があたためられて、かえるのである。
無人島に生きる十六人 (新字新仮名) ／ 須川邦彦(著)
またちょうど生みたての玉子を女中頭が浅黒い手で陽（ひ）に透かして検査する時にキラキラ光る太陽の光線にほんのりとそれが透けて見えるような白さであった。
死せる魂：01 または　チチコフの遍歴　第一部　第一分冊 (新字新仮名) ／ ニコライ・ゴーゴリ(著)