“而(しかう)” の例文
司馬穰苴(しばじやうしよ)は田完(でんくわん)の(一)苗裔(べうえい)也(なり)。齊(せい)の景公(けいこう)の時(とき)、晉(しん)は(二)阿(あ)・甄(けん)を伐(う)ち、而(しかう)して燕(えん)は(三)河上(かじやう)を侵(をか)し、齊(せい)の師(し)敗績(はいせき)せり。景公(けいこう)之(これ)を患(うれ)ふ。
婦人の婚姻に因りて得(う)る処のものは概(おほむ)ね斯の如し。而(しかう)して男子もまた、先人曰(いは)く、「妻なければ楽(たのしみ)少く、妻ある身には悲(かなしみ)多し」
愛と婚姻 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
而(しかう)して今茲に有生十五億を眩目(げんもく)せしむるの巨光、而(しかう)して又、世界第二の文明を経営すべき参天の巨柱は建設せられたる也。
閑天地 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
かゝる敵(かたき)が、植物界(しょくぶつかい)にも、人間界(にんげんかい)にも、常(つね)に陣(ぢん)どって相鬪(あひたゝか)ふ……仁心(じんしん)と害心(がいしん)とが……而(しかう)して惡(あ)しい方(かた)が勝(か)つときは、忽(たちま)ち毒蟲(どくむし)に取附(とりつ)かれて、其(その)植物(しょくぶつ)は枯果(かれは)つる。
「凡そこの——と來たか。その次は然り而(しかう)してと來るだらう、煙草と一緒に學まで仕入れて來やがつた」
而(しかう)してその隆盛(りうせい)に至りし所以(ゆゑん)のものは、有名の学士羅希(らき)に出(いで)て、之れが改良を謀(はか)るに由(よ)る。然るに吾邦(わがくに)の学者は夙(つと)に李園(りゑん)(原)を鄙(いやし)み、措(おい)て顧(かへり)みざるを以て、之を記するの書、未嘗(いまだかつて)多しとせず。
本の事 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
木を運ばしむ、而(しかう)してメーリオネース、剛勇の
イーリアス:03 イーリアス (旧字旧仮名) / ホーマー(著)
説(と)く所(ところ)、(六一)名高(めいかう)を爲(な)すに出(い)づる者(もの)なるに、之(これ)に説(と)くに厚利(こうり)を以(もつ)てせば、則(すはな)ち(六二)下節(かせつ)とせられ、而(しかう)して卑賤(ひせん)とせられ、必(かなら)ず棄遠(きゑん)せられん。
然(しか)り而(しかう)して、おの/\の腹(はら)の冷(つめた)く次第(しだい)に寒(さむ)く成(な)つた處(ところ)へ、ぶつ切(きり)、大掴(おほづかみ)の坊主(ばうず)しやも、相撲(すまふ)が食(く)つても腹(はら)がくちく成(な)るのを、赫(かつ)と煮(に)ようと云(い)ふ腹案(ふくあん)。
九九九会小記 (旧字旧仮名) / 泉鏡花、泉鏡太郎(著)
蓋(けだ)しこの古帽先生も亦、得意と失意との聯鎖の上に一歩一歩を進めて、内に満懐の不平と野心と、思郷病(ホームシツク)と、屈しがたき傲慢(がうまん)とを包んで、而(しかう)して外は人並に戯れもし、笑ひもしつゝ
閑天地 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
軍馬を解きて而(しかう)してこゝに食事を共にせむ。
イーリアス:03 イーリアス (旧字旧仮名) / ホーマー(著)
賈(か)は素(もと)(一〇)驕貴(けうき)にして、以爲(おも)へらく、將(しやう)、已(すで)に軍(ぐん)に之(ゆ)く、而(しかう)して己(おのれ)は監(かん)たり、(一一)甚(はなは)だ急(きふ)にせずと。親戚左右(しんせきさいう)、之(これ)を送(おく)つて留飮(りういん)す。日中(につちう)にして賈(か)至(いた)らず。
而(しかう)して、而(しか)してである。件(くだん)の牛切(ぎうきり)、朝(あさ)から閉籠(とぢこも)つて、友達(ともだち)づきあひも碌(ろく)にせぬ。
鑑定 (旧字旧仮名) / 泉鏡花、泉鏡太郎(著)
彼らに運ぶ、而(しかう)して主人はひとり默然と
イーリアス:03 イーリアス (旧字旧仮名) / ホーマー(著)
凡(およ)そ説(ぜい)の務(つと)め、説(と)く所(ところ)の敬(けい)する所(ところ)を飾(かざ)り・而(しかう)して其(そ)の醜(にく)む所(ところ)を(八五)滅(めつ)するを知(し)るに在(あ)り。彼(かれ)自(みづか)ら其計(そのけい)を知(ち)とせば、則(すなは)ち其失(そのしつ)を以(もつ)て之(これ)を(八六)窮(きは)むる無(な)かれ。
鮑叔(はうしゆく)、我(われ)を以(もつ)て貪(たん)と爲(な)さず、我(わ)が貧(まづ)しきを知(し)れば也(なり)。吾(われ)嘗(かつ)て鮑叔(はうしゆく)の爲(た)めに事(こと)を謀(はか)り、而(しかう)して更(さら)に窮困(きうこん)す。鮑叔(はうしゆく)、我(われ)を以(もつ)て愚(ぐ)と爲(な)さず、時(とき)に利(り)と不利(ふり)と有(あ)るを知(し)れば也(なり)。
反(かへ)つて(四八)浮淫(ふいん)の蠧(と)を擧(あ)げて・之(これ)を(四九)功實(こうじつ)の上(うへ)に加(くは)ふるを疾(うれ)へ、以爲(おも)へらく、(五〇)儒者(じゆしや)は文(ぶん)を用(もつ)て法(はふ)を亂(みだ)し、而(しかう)して(五一)侠者(けふしや)は武(ぶ)を以(もつ)て禁(きん)を犯(をか)す。
而(しかう)して諸矦(しよこう)、齊(せい)に朝(てう)す。齊(せい)の威王(ゐわう)、大夫(たいふ)をして古者(いにしへ)の司馬(しば)の兵法(へいはふ)を(三五)追論(つゐろん)せしめ、而(しかう)して穰苴(じやうしよ)((ノ兵法))を其中(そのうち)に附(つ)け、因(よ)つて號(がう)して司馬穰苴(しばじやうしよ)の兵法(へいはふ)と曰(い)ふ。
呉起(ごき)は衞人也(ゑいひとなり)。好(この)んで兵(へい)を用(もち)ふ。嘗(かつ)て曾子(そうし)に學(まな)び、魯君(ろくん)に事(つか)ふ。齊人(せいひと)、魯(ろ)を攻(せ)む。魯(ろ)、呉起(ごき)を將(しやう)とせんと欲(ほつ)す。呉起(ごき)、齊(せい)の女(ぢよ)を取(めと)つて妻(つま)と爲(な)し、而(しかう)して魯(ろ)、之(これ)を疑(うたが)へり。
且(か)つ(四四)七十子(し)の徒(と)、(四五)仲尼(ちうぢ)獨(ひと)り顏淵(がんえん)を(四六)薦(すす)め、學(がく)を好(この)むと爲(な)す。然(しか)れども(四七)回(くわい)や屡〻(しばしば)空(むな)しく、糟糠(さうかう)にだも厭(あ)かず、而(しかう)して卒(つひ)に(四八)蚤夭(さうえう)せり。
田文(でんぶん)既(すで)に死(し)して、公叔(こうしゆく)、相(しやう)と爲(な)る。((公叔))(九三)魏(ぎ)の公主(こうしゆ)に(九四)尚(しやう)し、而(しかう)して呉起(ごき)を害(い)む。公叔(こうしゆく)の僕(ぼく)曰(いは)く、『起(き)は(九五)去(さ)り易(やす)し』と、公叔(こうしゆく)曰(いは)く、『奈何(いかん)せん』と。
夫(そ)れ呉起(ごき)は賢人也(けんじんなり)。而(しかう)して矦(こう)の國(くに)は小(せう)にして、又(また)彊秦(きやうしん)と(九八)界(さかひ)を壤(じやう)す。
(二七)桓公(くわんこう)實(じつ)は少姫(せうき)を怒(いか)つて、南(みなみ)のかた蔡(さい)を襲(おそ)ふ。管仲(くわんちう)因(よ)つて楚(そ)を伐(う)ち、(二八)包茅(はうばう)の・周室(しうしつ)に入貢(にふこう)せざるを責(せ)む。桓公(くわんこう)實(じつ)は北(きた)のかた山戎(さんじう)を征(せい)す、而(しかう)して管仲(くわんちう)因(よ)つて燕(えん)をして召公(せうこう)の政(まつりごと)を修(をさ)めしむ。