むか)” の例文
旧字:
だが、自分よりずっと上脊丈うわぜいのある三方の大人にむかって、彼がやった一瞬の身の動かし方は、同時に平等な打撃を相手に加えていた。
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一つの堂を中にし、庭を隔ててむかいの楼上の燈を見るに、折から霧濃く立迷いたれば、海に泊まれる船の燈をくがより遥に望むが如し。
知々夫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
筒井自身はときどきほうきを持ったままふすまむかって、じっと、或る考えごとにとらわれ、はっとして仕事にかかることがたびたびだった。
津の国人 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
ある日、岸本は三人の子供を学校へ送り出して置いて、独りで自分の部屋の机にむかって居ると、思い掛けない時に節子が訪ねて来た。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
源氏は恋人とその継娘ままむすめが碁盤を中にしてむかい合っているのをのぞいて見ようと思って開いた口からはいって、妻戸と御簾みすの間へ立った。
源氏物語:03 空蝉 (新字新仮名) / 紫式部(著)
きん黝朱うるみの羽根の色をしたとびの子が、ちょうどこのむかいのかど棒杭ぼうぐいとまっていたのをた七、八年前のことをおもい出したのである。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
そこで雲や石や竹とむかひあつて修練する処世術を古人が考へたのだ。——君は中国の事を報知する役目なのだからよく覚えて置きたまへ
南京六月祭 (新字旧仮名) / 犬養健(著)
“……わが隊は、アメ山より、むかいのヒイラギ山のかげに火星人の乗物があるのを発見せり。火星人隊の総勢は約十名かとおもわれる。
大宇宙遠征隊 (新字新仮名) / 海野十三(著)
生花の日は花や実をつけた灌木かんぼくの枝で家の中がしげった。縫台の上の竹筒に挿した枝にむかい、それをり落す木鋏きばさみの鳴る音が一日していた。
洋灯 (新字新仮名) / 横光利一(著)
酔漢よっぱらいは耳にも懸けずたけり狂って、なおも中間をなぐりるを、侍はト見れば家来の藤助だから驚きまして、酔漢にむか会釈えしゃくをなし
掌馬人うまかいかの馬決して病まずと答え、厩へ往きて馬にむかい、汝は瓦師方にありて碌に食料をくれず骨と皮ばかりにせて困苦労働したるに
右から盾を見るときは右に向って呪い、左から盾をのぞくときは左に向って呪い、正面から盾にむかう敵にはもとより正面を見て呪う。
幻影の盾 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
これも調子が狂っているにちがいない。下駄ばきの足をひどくらした老人が、連れの老人にむかって何か力なく話しかけていた。
廃墟から (新字新仮名) / 原民喜(著)
そのたびに、私は振り向いて、その高慢そうな少女にむかって、なぜかしら、それまでは誰にもしたことのないような反抗の様子を示した。
幼年時代 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
あらゆることが、あのつい二三ヶ月前に鬼倉とむかひ合つた晩のことさへ、まるで他愛のない、夢の中の出来事としか思へないのであつた。
医師高間房一氏 (新字旧仮名) / 田畑修一郎(著)
此男やがてひざをすゝめ娘の母にむかこゑをひそめていふやう、今はなにをかつゝみ申さん、われ娘御むすめごと二世の約束やくそくをしたるもの也。
向こうの方に葉のついた無花果いちじくのあるのを見つけて、そばに寄って見られたが、葉だけではなかったので、その樹にむか
……一度は金沢のやぶの内と言う処——城の大手前とむかい合った、土塀の裏を、かぎ手形てなり。名の通りで、竹藪の中を石垣にいて曲る小路こうじ
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
初は面白半分に目をねむって之にむかっているうちに、いつしかたましい藻脱もぬけて其中へ紛れ込んだように、恍惚うっとりとして暫く夢現ゆめうつつの境を迷っていると
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
内村鑑三先生はある時私にむかって『日曜日だけは商売を休んで、教会で一日を清く過ごすことは出来ませんか』と勧められた。
針にのった静かな心が、枠にむかうと自然に滑り出す。出しぬけに、烈しいものがこの針を衝き進め、寿女はまごつく時がある。
痀女抄録 (新字新仮名) / 矢田津世子(著)
「おとぼけ召さるなッ。尊公に用あればこそ尊公にむかって物を申しているのじゃ。何がおかしゅうて無遠慮な高笑い召さった」
その一つのテーブルに、おとこが、さけっていい気持きもちでいました。むかってこしをかけている、白粉おしろいったおんなも、すこしはっていました。
あらしの前の木と鳥の会話 (新字新仮名) / 小川未明(著)
これとむかい合ッているのは四十前後の老女で、これも着物は葛だが柿染めの古ぼけたので、どうしたのか砥粉とのこまみれている。
武蔵野 (新字新仮名) / 山田美妙(著)
典獄は夫人にむかって、もし一度び獄内に入るときは、再び外に出ることが出来ず、また一度び獄舎を出るときは再び帰獄することが出来ない。
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
そして、かの橋下の瀬のはやい事が話の起因おこりで、吉野にむかつてしきりに水泳に行く事を慫慂すすめた。昌作の吉野に対する尊敬が此時からまた加つた。
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
いてみるさ。そして、あの猛獣を手馴てなずけてもらいましょう。息子と父親とむかい合って、あたしのいないところで、なんとか話をつけてごらん
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
その主義を確実に実行するためにどのような山の中に居っても、それは必ず一月一日になれば東方にむかい読経礼拝して祝願するのでございます。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
彼にむかふと何か彼の材料になりさうなことを、斯んな生活に入らなかつた頃の経験から見つけ出して水を向けたりした。
西瓜喰ふ人 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
ある日、博士は私にむかって「実は今度自分でこれこれの出版をすることになったから、以後、学校の標品や書物を見ることは遠慮してもらいたい」
かれ微笑びしょうもっくるしみむかわなかった、軽蔑けいべつしませんでした、かえって「このさかずきわれよりらしめよ」とうて、ゲフシマニヤのその祈祷きとうしました。
六号室 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
麻苧あさおの糸を娘がんでいるのにむかって男がいいかける趣の歌で、「ら」は添えたものである。「ふすさに」は沢山たくさんの意。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
此祭りは、少年を成年とする儀式で、昔は二色人ニイルピトが少年にむかつて色々の難題を吹きかけたり、踊らしたりしたといふ。
琉球の宗教 (新字旧仮名) / 折口信夫(著)
烈しい風雨の音の中にむかひ合って話し合ってる中に、二人は今迄よりは一層強い愛着を感じた。二人はもう一日でも離れては居られない気持がした。
奥間巡査 (新字旧仮名) / 池宮城積宝(著)
頬杖をつき、読みさしの新聞にむかひしが、対手酒のほろ酔と、日当りの暖か過ぐると、新聞の記事の閑文字かんもんじばかりなるにて、ついうと/\睡気を催しぬ。
元日の釣 (新字旧仮名) / 石井研堂(著)
比翼蓙ひよくござを敷いた蚊帳の中には、新三郎が壮い女とむかいあって坐っていた。伴蔵は目を睜った。と、其の時女の声で
円朝の牡丹灯籠 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
彼等四十に近い家族のすべての者が熊にむかって怒鳴り、叫び、闘うのだった。彼等の団結力が、この時ほど真剣に構成されて行動することはなかった。
熊の出る開墾地 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
安行は我子にむかっても、何時いつも平気で冗談を云うのだ。市郎も笑って聞いていたが、やがて例の一件を思い出した。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
……ポチが私にむかうと……犬でなくなる。それとも私が人間でなくなるのか?……どっちだかそれは解らんが、とにかく相互の熱情熱愛に人畜の差別を
二葉亭余談 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
そこは外科の三等室で、白いベッドが五台二列にむかひ合つて並んでゐた。私はその一方の端の方のベッドの上にそれから七十日以上も横たはつて居た。
世の中へ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
父親の自分とむかひ合つて、ゆつくりその時間を愉しむといふ風はさらになかつた。そればかりではない。てんで、うちなどは見向きもしないやうに見えた。
荒天吉日 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
人間には他の人間の群れにむかって呼びかけたい願いがある。いま私はそのねがいが熱と潤いとを帯びて心のなかに高まるのを感ずる。私は話しかけたい。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
ウイルソン大統領といへば米国でも聞えた雄弁家であるが、先日こなひだの事、仲のいある友達が、大統領にむかつて
しばらく沈黙ちんもくが続いた。復一は黙って真佐子にむかっていると、真佐子の人生に無計算な美が絶え間なく空間へただいたずらに燃え費されて行くように感じられた。
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
小鼓こつゞみは己巳席順の「十人扶持、御足五人扶持、鼓菊庵、五十四」で、同席順の「十人扶持、御足十人扶持、鼓泰安、五十九」の大鼓おほつゞみむかへて言ふのであらうか。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
さればと言って、時雄はわざとそういう態度にするのではない、女にむかっている刹那せつな——その愛した女の歓心を得るには、いかなる犠牲も甚だ高価に過ぎなかった。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
おりから夕餉ゆうげぜんむかおうとしていたおれんは、突然とつぜんにしたはし取落とりおとすと、そのまま狂気きょうきしたように、ふらふらッと立上たちあがって、跣足はだしのまま庭先にわさきへとりてった。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
奥山は「ここを折れるのです」と言い、M公の邸のむかい合う竹藪をO子爵の邸だと教えた。春の日も杉林と竹藪に囲まれたその路上には射さず、寒い程に寂しかった。
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
小万はすでに裲襠しかけを着、鏡台へむかって身繕いしているところへ、お梅があわただしく駈けて来て
今戸心中 (新字新仮名) / 広津柳浪(著)
ところが余が帰路女のいる「江戸川亭」に寄ったらば、彼は女や周囲の誰彼に面とむかって軽蔑され乍ら、宜い気になって酒を呑んでいた。気の毒な、むしろ哀れむ可き男よ。