苦悶くもん)” の例文
死を宣告された人間の心理的苦悶くもんがどんなものか、科学者の眼をもって冷静に記録してみたい、そういう意味のことを書いていった。
四年間 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
あれを読むと自分は妙に滑稽こっけいを感じる。絶体絶命の苦悶くもんでついに自殺を思うまでに立ち至る記事が何ゆえにおかしいのか不思議である。
備忘録 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
稚児輪ちごわ姿すがたの牛若丸が笛にしめりを与えると同時に、突然苦悶くもんのさまを現わして、水あわを吹きながら、その場に悶絶もんぜついたしました。
然し苦悶くもんの様相のうちのたぶん極限のものだろうから、ここへたとえば毒殺という外からの手段が加えられても見分けはつかない。
不連続殺人事件 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
そして嫁の寝ている胸の真上とおぼしきところまで、その足音が来たかと思う時、その死にひんした病人がはねえるように苦悶くもんし始めた。
白い光と上野の鐘 (新字新仮名) / 沼田一雅(著)
夫の苦悶くもん煩悶には全く風馬牛で、子供さえ満足に育てれば好いという自分の細君に対すると、どうしても孤独を叫ばざるを得なかった。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
……悪? それは一つの悪だろうか? 倦怠けんたい、陶酔、快い苦悶くもんが、彼のうちにしみ込んでいた。もはや自分が自分のものではなかった。
心臓を一えぐりにやられたということであったが、顔には苦悶くもんあともなく、微笑しているのかと思われる程、なごやかな表情をしていた。
孤島の鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
その土煙のむこうには、何があるのかわからないが、そこからは、たえず、人々の苦悶くもんのうめき声と、わめきさけぶ声が聞こえた。
海底大陸 (新字新仮名) / 海野十三(著)
最期の時には、臨終の苦悶くもんのうちに、百日(訳者注 ナポレオン再挙の百日間)の将校らから贈られた一本の剣を胸に抱きしめていた。
月明りのわずかに残る欄干にもたれたまま、徳之助は苦悶くもんに打ちひしがれて、れでもしたように、しょんぼりと語り続けました。
わらごとではい、なにてもころだと、心中しんちういろ/\苦悶くもんしてるが如何どうない、破片はへん獸骨じうこつ、そんなところしか見出みいたさぬ。
がしかし清二は彼の顔に漾う苦悶くもんの表情をみてとって、「なあに、どっちみち、今となっては、内地勤務だ、大したことないさ」
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
あらゆるものが次から次へと勃興ぼっこうした事は、一つには退屈と衰亡に際する一種の死の苦悶くもんから湧き上った処の大革命であったに違いない。
油絵新技法 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
けれども血色にも表情にも苦悶くもんあとはほとんど見えなかった。自分は最初その横顔を見た時、これが病人の顔だろうかと疑った。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
驚愕と喪神は去り、苦悶くもんと死闘はおさまり、心おごらずまた沈まず、嵐の後の富士のごとくに、ひときわ気高く、完き自由人でありました。
このごろの源氏はある発展を遂げた初恋のその続きの苦悶くもんの中にいて、自然左大臣家へ通うことも途絶えがちになって恨めしがられていた。
源氏物語:04 夕顔 (新字新仮名) / 紫式部(著)
だが深い苦悶くもんのために何度も長く立ち止ったのち、とうとう河の縁に着き、その気味悪い荷物を始末する、——おそらくはボートを使って。
そういう時は自分自身の苦悶くもんの声に目ざめるのであった。太田は死の迫り来る影に直面して、思いの外平気でおれる自分を不思議に思った。
(新字新仮名) / 島木健作(著)
この水戸の苦悶くもんは一方に誠党と称する勤王派の人たちを生み、一方に奸党かんとうと呼ばるる佐幕派の人たちを生んだ。一つの藩は裂けてたたかった。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
父は、心のうち苦悶くもんを、此の来客にって、少しは紛ぎらされたように、さびしい微笑を、浮べながら応接室へ入って行った。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
六千四百とん巨船きよせんもすでになかばかたむき、二本にほん煙筒えんとうから眞黒まつくろ吐出はきだけぶりは、あたか斷末魔だんまつま苦悶くもんうつたへてるかのやうである。
そう私の前もなく掻口説かきくどいてのお嘆きでした。ほんとに前に坐しているに耐えないようなご苦悶くもんに見えました。よくよくなお覚悟と思われまする
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
私たちは常に絶えざる苦悶くもん懊悩おうのうとを免かれない。しかも君に対する恋の執着はどうすることも出来なくなっている——
遠藤(岩野)清子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
「道阿弥話」には、それから以後の少年の苦悶くもんが刻明に書いてあるが、彼はそのゝち続けて三晩と云うもの、夜になると天井裏へ出かけて行った。
実は死そのものよりもいとうべき、苦悶くもんの期間に過ぎない。どうも今になって見れば小さい時から、自分で自分を観察する癖を付けたのが悪かった。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
それはかく、あのときわたくしはは断末魔だんまつま苦悶くもんさまるに見兼みかねて、一しょう懸命けんめいははからだでてやったのをおぼえています。
水夫らは帰って来て、この苦悶くもんのさまを見ると「あまりあばれると、かえって傷が悪くなるから、じっと我慢しておれ」
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
彼の学びてこれを忍得るの故は、爾来じらい終天の失望と恨との一日いちじつも忘るるあたはざるが為に、その苦悶くもんの余勢を駆りて他の方面に注がしむるに過ぎず。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
そこに彼の第一の苦悶くもんが生まれる。神と悪魔との戦いである。苦悶のうちに少年ジェルヴェーについての試練がきた。
レ・ミゼラブル:01 序 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
かれ青年時代せいねんじだいは、ゆめおおかったかわりに、また、反面はんめんあまりにみにくかった現実げんじつのために、焦燥しょうそう苦悶くもんをきわめたのです。
風はささやく (新字新仮名) / 小川未明(著)
苦悶くもんの表情よろしく首をそらして左右にうごかし、よたよたよたと走って局の前まで来て、ううんと一声うなって倒れ
トカトントン (新字新仮名) / 太宰治(著)
それが結局はことごとく魂の苦悶くもんであり、あの世の音信であるということに帰著きちゃくするのは、単独に幼ない者だけの経験ではなかった証拠ではないか。
一声鋭どい苦悶くもんの声が、みしめた歯の間をれたが、その声がかすかに消えると、その後へ限りない静けさが来ました。
艶容万年若衆 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
猪熊いのくまおじは、やみにおびえて泣く赤子の声の中に、かすかな苦悶くもんをつづけながら、消えかかる松明たいまつの火のように、静かに息をひきとったのである。……
偸盗 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
面変おもかわりしたような顔にも苦悶くもんあとが見えて、話しているうちに、時々意識がぼんやりして来るようなことがあった。起き直るのも大儀そうであった。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
と七兵衛が、ここまで語りきたって駒井の様子をうかがうと、駒井のおもてに、言わん方なき苦悶くもんの色が表われたのは事実です。
大菩薩峠:29 年魚市の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
天性てんせい陰気いんきなこの人は、人の目にたつほど、愚痴ぐちやみもいわなかったものの、内心ないしんにはじつに長いあいだの、苦悶くもん悔恨かいこんとをつづけてきたのである。
老獣医 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
そこで鼈四郎は檜垣の病主人に苦悶くもんが始まる、と、すーっと病居を抜け出て、茶を飲んで来るか、しゃべって来るのであった。だが病友は許さなくなった。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
もし犠牲を不憫ふびんだと思ったら、勝手に苦しむのがいいのさ……全体に苦悶くもんと悩みは、遠大な自覚と深い心情の持主にとって、常に必然的なものなんだ。
それはしかし、朝倉夫人に対する抗議こうぎではむろんなかった。また、かれの深い苦悶くもんの表白であるとも言えなかった。
次郎物語:05 第五部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
わたしは意外なる変化を見るものです——梅子さん、貴嬢あなたの信仰は今ま実に恐るべき危機に臨むで居なさいます——何か非常なる苦悶くもんの針が今ま貴嬢の精神を
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
光子は苦悶くもんして悲鳴を揚げ、右に左に枕を代えて、長き黒髪地を掃きしが、最後の一撃は手元狂いて打処うちどころしかりけむ、うむとのけぞりてかれは絶せり。
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
羞悪しゅうお懺悔ざんげ、次ぐに苦悶くもん懊悩おうのうもってす、しょうが、回顧をたすものはただただこれのみ、ああ実にただこれのみなり
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
物価の昂騰こうとうにつれて右翼の非常手段がいつ爆発するか分らぬ恐れがあった。つまり、梶の眼に映った一同の不安は思想と現実とののっぴきならぬ苦悶くもんである。
厨房日記 (新字新仮名) / 横光利一(著)
苦悶くもん)グツ/\/\。主「おや/\うかなすツたか。幸「(苦悶くもん)グツ/\/\……モヽヽヽもちが……。 ...
政宗の毒味番が毒にあたって苦悶くもん即死したから事あらわれて、政宗は無事であったが、其為に政宗は手ずから小次郎季氏をり、小次郎のもり小原縫殿助おばらぬいのすけちゅう
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
主人公の心の苦悶くもんに對する作者の感情輸入アインヒウルングふかさは、張り切つたゆづるのやうに緊張きんぢやうした表現へうげんと相俟つて、作の缺點けつてんかんじる前に、それに對して感嘆かんたんしてしまひます。
三作家に就ての感想 (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
碩学せきがく大家どもと、彼らの白髪しらが白髯しらひげは、豪雨と、暴風の、鳥獣の苦悶くもんと、人民の失望と、日光の動揺と植物の戦慄せんりつと、鉱石の平伏といっしょに、宇宙へ四散した。
ヤトラカン・サミ博士の椅子 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
り向くと、唇の間からたらんと舌を垂れ、ウオーウオーとけだもののような声を出して苦悶くもんしていた。
競馬 (新字新仮名) / 織田作之助(著)