“俯(ふ)” の例文
内儀は賊の姿を見るより、ペったりと膝(ひざ)を折り敷き、その場に打ち俯(ふ)して、がたがたと慄(ふる)いぬ。白糸の度胸はすでに十分定まりたり。
義血侠血 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「はあ実は」又四郎は眼を俯(ふ)せた、「——実はですね、あの方と、お二人きりで、その、折入ったお話が、その、したいのですが」
百足ちがい (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
折々、水道栓でぶつかる初々(ういうい)しい娘があった。紙人形のように薄手で弱そうな子であった。露地で逢っても俯(ふ)し眼に過ぎるだけだった。
吾人、仰いで観(み)、俯(ふ)して察するときは、自然に一種高遠玄妙の感想を喚起す。これすなわち、理想の大怪物の光景に感接したるときなり。
妖怪学講義:02 緒言 (新字新仮名) / 井上円了(著)
荘田は、恥しそうに顔を俯(ふ)している瑠璃子の、薄暗の中でも、くっきりと白い襟足を、貪(むさぼ)るように見詰めながら、有頂天になって云った。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
繊(ほそ)い指を反(そら)して穿(は)めている指環を見た。それから、手帛(ハンケチ)を丸めて、又袂へ入れた。代助は眼を俯(ふ)せた女の額の、髪に連なる所を眺めていた。
それから (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
混再拝シテ白(もう)ス。書並(ならび)ニ詩話ヲ辱(かたじけなく)ス。厳粛ノ候尊体福履、家ヲ挙ゲテ慰浣(いかん)セリ。俯(ふ)シテ賜フ所ノ詩話ヲ読ム。巻ヲ開イテ咫尺(しせき)ニシテ飢涎(きぜん)忽(たちま)チ流ル。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
深井は耳の根元まで真紅に染めて羞恥のためか顔面を俯(ふ)せてしまった。動機に平一郎自身深い因縁と責任のあることは平一郎も思い及ばなかった。
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
久しく頭を俯(ふ)した後虚空(こくう)に昇り、自分で火を出し身を焚(や)いて遺骸地に堕ちたのを、王が収めてこの塔を立てたと見ゆ。
演壇の右側には一警視の剣を杖(つ)きて、弁士の横顔穴も穿(あ)けよと睨(にら)みつゝあり、三名の巡査は俯(ふ)して速記に忙殺(ばうさつ)せらる
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
アカシアがまだ対(つい)の葉を俯(ふ)せて睡っている、——そうした朝早く、不眠に悩まされた彼は、早起きの子供らを伴れて、小さなのは褞袍(どてら)の中に負(お)ぶって
贋物 (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
息巻くお峯の前に彼は面(おもて)を俯(ふ)して言はず、静に思廻(おもひめぐ)らすなるべし。お峯は心着きて栗を剥き始めつ。その一つを終ふるまで言(ことば)を継がざりしが、さて徐(おもむろ)に
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
お静は黙って立ち上がると、箪笥(たんす)から羽織を出して、涙ぐましい目を俯(ふ)せたまま、後ろから着せてやりました。
孔子もさすがに不愉快になり、冷やかに公の様子を窺(うかが)う。霊公は面目無げに目を俯(ふ)せ、しかし南子には何事も言えない。黙(だま)って孔子のために次の車を指(ゆび)さす。
弟子 (新字新仮名) / 中島敦(著)
そは兎(と)まれ角(かく)まれ、昧者初心ものといはるゝ人にも俯(ふ)して教を受くるものと、仰いで言を立つるものとあり。
柵草紙の山房論文 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
復(ふたた)びかしこに行きて念比(ねんごろ)にとぶらひ給へとて、杖を曳(ひ)きて前(さき)に立ち、相ともに壠(つか)のまへに俯(ふ)して声を放(あ)げて嘆きつつも、其の夜はそこに念仏して明かしける。
われは日ごとに公苑に往き戲園(しばゐ)に入り、又心安からぬまゝに寺院を尋ねて、聖母(マドンナ)の足の下に俯(ふ)することあり。
庭下の坂が直ぐ湖氷に落ちてゐるのであるから、一列の人々を見るには、可なり俯(ふ)し目(め)にならねばならぬ。
諏訪湖畔冬の生活 (新字旧仮名) / 島木赤彦(著)
仰いで見たところで、岩石の落ち来るべきところではない、俯(ふ)して見たところで、人の気配のないところ。
大菩薩峠:23 他生の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
バッタリ床上に身を俯(ふ)せる刹那、三発の銃声、薄黒い室の片隅にパッと火花が散る。間もあらばこそ、書記の身体がドッと倒れた。ルパンが早くも足を掬ったのだ。
水晶の栓 (新字新仮名) / モーリス・ルブラン(著)
友野は一寸眼を俯(ふ)せると、すぐすらすらと出し物をいった。しかし、その中にはネネの名はなかった。
腐った蜉蝣 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
落(おと)し忽ち産後(さんご)の血(ち)上(あが)り是も其夜の明方(あけがた)に相果(あひはて)ければ跡(あと)に殘(のこり)しお三婆は兩人(ふたり)の死骸(しがい)に取付天を仰(あふ)ぎ地に俯(ふ)し泣悲(なきかな)しむより外なきは見るも哀(あは)れの次第なり近邊(きんぺん)の者ども婆(ばゝ)が泣聲(なきごゑ)を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
我はこれを受くる時、画工の手の氷の如く冷(ひややか)になりて、いたく震ひたるに心づきぬ。……さて俯(ふ)してあまたゝび我に接吻し、かはゆき子なり。そちも聖母に願へ、といひき。
孤島の鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
ミチミはそれを鼻にかかった甘ったるい声でいって、眼を下に俯(ふ)せた。そこには単衣をとおして、香りの高いはち切れるような女の肉体が感ぜられる、丸々とした膝があった。
棺桶の花嫁 (新字新仮名) / 海野十三(著)
仮令(たとえ)数ありとするも、測り難きは数なり。測り難きの数を畏(おそ)れて、巫覡卜相(ふげきぼくそう)の徒の前に首(こうべ)を俯(ふ)せんよりは、知る可きの道に従いて、古聖前賢の教(おしえ)の下(もと)に心を安くせんには如(し)かじ。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
其処には二十歳位の女の半身がある。代助は眼を俯(ふ)せて凝(ぢつ)と女の顔を見詰めてゐた。——
そう云って彼女は子供をつき退(の)けた。ぴたりと正座して、その窓に対(むか)って低頭した。子供も母親に見ならうのだ。親たちの気持を素直に反射して、そこに手をついて眼を俯(ふ)せた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
而れども俯(ふ)して熟考すれば之れ最終(さいしう)の露宿(ろしゆく)にして、前日来の露宿中は雨(あめ)殆(ほと)んどなく、熟睡(じゆくすい)以て白日の労(らう)を慰(ゐ)せし為め、探検(たんけん)の目的(もくてき)を遂(と)ぐるを得せしめしは、実(じつ)に天恩無量と云つべし
利根水源探検紀行 (新字旧仮名) / 渡辺千吉郎(著)
障子をあけて見ますと、庭さきの物置小屋の軒下に、白手拭(しろてぬぐひ)を姉さんかぶりにしたお母さんの姿が見えました。足もとに何か居ると見えて、お母さんは俯(ふ)し目にして立つて居られます。
身代り (新字旧仮名) / 土田耕平(著)
重景は愧(はづか)しげに首(かうべ)を俯(ふ)し、『如何でかは』と答へしまゝ、はか/″\しく應(いらへ)せず。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
僕はステツキも持たずに、かうべを俯(ふ)して歩いてゐる。街道が大きいので、人どほりがさう繁くないやうに思はれる。平坦な街道がいつの間にか少し低くなつて、そこを暫く歩いてゐる。
接吻 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
是(こ)の故(ゆえ)に明君は民の産を制し、必ず仰いでは以(もっ)て父母に事(つこ)うまつるに足り、俯(ふ)してはもって妻子を畜(やしな)うに足り、楽歳には終身飽き、凶年には死亡を免れしめ、然(しか)る後駆(か)って善に之(ゆ)かしむ。
貧乏物語 (新字新仮名) / 河上肇(著)
今まで胸を張って堂々と歩みし者が、胸を狭くし下を俯(ふ)して悄然(しょうぜん)として歩むようになる。そして自己の計画が自己を滅ぼす結果となりて、自分の張った網に自分が捕えらるるようになる。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
首(こうべ)を俯(ふ)してこちらの様子を窺っているらしいので、下役人は更に二の矢を射かけると、今度はその胸に命中したので、さすがの怪物も驚いたらしく、遂にうしろを見せておめおめと立ち去った。
龍(りよう)首(こうべ)を俯(ふ)し尾を垂(た)れて、遁(のが)る。
母となる (新字旧仮名) / 福田英子(著)
稲荷の祠と、背なか合せに、木洩(こも)れ陽(び)を浴び、落葉をしいて、乳ぶさのうちに寝入った子を、俯(ふ)しのぞいている若い母があった。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と後(うしろ)へ反(そ)り前へ俯(ふ)し、悶(もだ)え苦しみのりあがり、紅(くれない)蹴返す白脛(しらはぎ)はたわけき心を乱すになむ、高田駄平は酔えるがごとく、酒打ち飲みていたりけり。
活人形 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
彼女は眼を俯(ふ)せて、自分の傍(そば)を擦(す)り抜けた。その時自分は彼女の瞼(まぶた)に涙の宿った痕迹(こんせき)をたしかに認めたような気がした。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
いつもうつ向けにして、俯(ふ)し眼づかいで、立ち居もおっとりとしなやかで、大助になにか云うにもあまったるい、蚊の鳴くような声をだしていたのにな
改訂御定法 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
彼等はその無分別を慙(は)ぢたりとよりは、この死失(しにぞこな)ひし見苦しさを、天にも地にも曝(さら)しかねて、俯(ふ)しも仰ぎも得ざる項(うなじ)を竦(すく)め、尚(なほ)も為ん方無さの目を閉ぢたり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
地に俯(ふ)して亡き袖のいる冥土を慕ってみたが、死者の霊をこの世によびもどす招魂の法をもとめるすべもなく、さればとて天を仰いで捨ててきた故郷のことを思うと
都の巷(ちまた)には影を没せる円太郎馬車の、寂然(せきぜん)と大道に傾きて、痩(や)せたる馬の寒天(さむぞら)に俯(ふ)して藁(わら)を食(は)めり
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
我は頭を傾けて姫の面を俯(ふ)し視たるに、姫はそのそこひ知られぬ目(ま)なざしもて打ち仰ぎ、そのめでくつがへられたるをさな子は、父もなく母もなきあはれなる身となりぬ
こんな日に鼹鼠(もぐらもち)のようになって、内に引っ込んで、本を読んでいるのは、世界は広いが、先ず君位なものだろう。それでも机の上に俯(ふ)さっていなかっただけを、僕は褒(ほ)めて置くね。
かのように (新字新仮名) / 森鴎外(著)
仰いで天文を望めば、日月星辰、秩然(ちつぜん)として羅列するもの、一つとして妖怪ならざるはなし。俯(ふ)して地理を察するに、山川草木、鬱然(うつぜん)として森立するもの、またことごとく妖怪なり。
妖怪学講義:02 緒言 (新字新仮名) / 井上円了(著)
そうしてテントから二間(けん)ほど離れた所に、月に照らされた真白な砂原の上に、ポツンと黒く、小さな犬か何かのように一人の少年がしゃがんだまま、じっと顔を俯(ふ)せて動かないでいる。
虎狩 (新字新仮名) / 中島敦(著)
当時崛強(くつきやう)の男で天下の実勢を洞察するの明のあつた者は、君臣の大義、順逆の至理を気にせぬ限り、何ぞ首を俯(ふ)して生白い公卿の下(もと)に付かうやと、勝手理屈で暴れさうな情態もあつたのである。
平将門 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
夜半(やはん)眼覚め、防寒(ばうかん)の為炉中に薪(たきぎ)を投(とう)ぜんとすれば、月光清輝幽谷中に冴(さ)へ渡(わた)り、両岸の森中(しんちう)には高調凄音群猿の叫(さけ)ぶを聞(き)く、俯(ふ)して水源未知の利根を見(み)れば、水流(すゐりう)混々(こん/\)、河幅猶ほ広(ひろ)く水量甚多(おほ)し
利根水源探検紀行 (新字旧仮名) / 渡辺千吉郎(著)
彦根に対して俯(ふ)して敵を射るの好地にあるではござらぬか、加賀と尾張の二大藩を腹背に受けているようではござるが、一方は馬も越せぬ山つづき、一方は大河と平野によって別天地をなしてござる
大菩薩峠:23 他生の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「最善の努力をいたして参ります」と、阿賀妻は目を俯(ふ)せた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)