いま)” の例文
るとぞつとする。こけのある鉛色なまりいろ生物いきもののやうに、まへにそれがうごいてゐる。あゝつてしまひたい。此手このてさはつたところいまはしい。
ということは、おそるべきいまわしき妖毒ようどくが、今や金博士の性格を見事に切りくずしたその証左しょうさと見てもさしつかえないであろうと思う。
それでも夫はいまわしそうに、わたしを見つめているばかりなのです。わたしはけそうな胸を抑えながら、夫の太刀たちを探しました。
藪の中 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
名を蔵人くらんど蔵人といって、酒屋の御用の胸板を仰反のけぞらせ、豆腐屋の遁腰にげごしおびやかしたのが、焼ける前から宵啼よいなきといういまわしいことをした。
式部小路 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
顔を近づけてきてつばまじりにいうではないか。玉日は、いまわしさに、体がふるえた。息までが臭い気のする作法知らずの山法師である。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
箱を流しに往った者は、いまいましいので竹竿で突いて流そうとしたが、突いた時はすこし流れるが、直ぐ又元の処へ戻って来た。
偶人物語 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
しかしながら彼のために不幸なことには、一旦癒えていた彼のいまわしい性癖に油を注ぐ一人の女性がこゝに登場して来るのである。
二つのいまわしい事件が、渦をいて起った日から、瑠璃子の家は、暴風雨の吹き過ぎた後のような寂しさに、包まれてしまった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
たといいまわしききずななりとも、この縄の切れて二人離れ離れにおらんよりはとは、その時苦しきわが胸の奥なる心遣こころやりなりき。
薤露行 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それが道ならぬ、いまわしい事と知りつつも私は、校長先生をお怨み申し上げる気持に、どうしてもなり得なかったのでした。
少女地獄 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
ここにはたくさんの花があって、あまりにけばけばしいので、それを見るとわたくしはなんだかいまいましくなって来ます。
なにかいまわしいうわさがお耳にはいるかもしれません、あなたがびっくりするような、不愉快な評判がたつかもしれません。
おばな沢 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
酒に狂暴性を煽られた人間の野獣性と、それに憎悪と、制裁を感じ得ない、麻痺した貞操心! いまわしいものの極みだ。
大菩薩峠:29 年魚市の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
それを知った後でも、私はややもすればこのいまわしい袋小路につきあたって、すごすごと引き返さねばならなかった。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
件の僧は暫したゝずみて訝しげに見送れば、焚きこめし異香いきやう、吹きる風に時ならぬ春を匂はするに、俄にいまはしげにかほそむけて小走こばしりに立ち去りぬ。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
人手に掛し抔といまはしき儀を訴出る者の有べきことには九助が申上る事而已のみ御取上に相成只々私しを御しかりおそれながら御奉行樣の依怙贔屓えこひいきと申ものと云を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
平次の顏を見ると、三人の女はいまはしい物でも避けるやうに、靜かに滑り出て、要領よく姿を隱してしまひました。
もうけしこゝろまへさま大切たいせつなほどおあんじ申さずにはりませぬをいまはしやなにごとぞ一生いつしやう一人ひとりおくるのんでおもひを
五月雨 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
自分は屡々初見の人に紹介される時「例の廢嫡問題の」といふ聞くもいまはしい言葉を自分の姓名の上に附加された。
さういたしますと、過ぎ去つたあの出来事を、一生のうちの、いまはしい記憶にしたくないと思ふやうになりました。
(新字旧仮名) / 岸田国士(著)
一々でもりたいほどに氣遣きづかはれる母心はゝごゝろが、いまはしい汚點しみ回想くわいさうによつて、そのくちはれてしまふのである。
(旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
乱倫なる婚姻の行われるところにはいまわしき花柳病かりゅうびょうが多く、しかして花柳病ほどに人間の血を悪化するものは無い。
現代の婦人に告ぐ (新字新仮名) / 大隈重信(著)
と、闇太郎は、先き程までの、夜の巷での、悪戦苦闘の、いまわしい追憶は、とうに忘れてしまったように、美酒の酔いに、陶然とうぜんと頬を、ほてらせながら
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
遠くの父母や兄弟の顔が、これまでになくいまわしい陰を帯びて、彼の心をみだした。電報配達夫が恐ろしかった。
過古 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
下世話げせわに謂う探偵、世に是ほどいまわしき職務は無く又之れほど立派なる職務は無し、忌わしき所を言えば我身の鬼々おに/\しき心を隠し友達顔を作りて人に交り
無惨 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
京子は、次第に露骨に、いまわしいそぶりを見せ、つるを離れた矢のように、源吉の胸から、飛び出して行った。
鉄路 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
我が車の隙をうかゞひて走りぬけんとしたる時「ボン、ジヨオルノオ、アントニオ」(吉日よきひをこそ、アントニオ)と呼ぶは、むかし聞き慣れたるいまはしき聲なり。
私につきまとってるこの固定観念は、各時間に、各瞬間に、新たな形で、期限が迫るにつれてますますいまわしい血まみれの形で、私に現われてくるではないか。
死刑囚最後の日 (新字新仮名) / ヴィクトル・ユゴー(著)
くまでも昨日きのふしき懊惱なやみ自分じぶんからはなれぬとしてれば、なにわけがあるのである、さなくていまはしいかんがへ這麼こんな執念しふね自分じぶん着纒つきまとふてゐるわけいと。
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
掘出し物という言葉は元来がいまわしい言葉で、最初は土中どちゅう冢中ちょうちゅうなどから掘出した物ということに違いない。
骨董 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
まるで別人のようにいまわしい気立てになった大次郎ではあったけれど、あれは果して良人の本心だったろうかと、今にして千浪は、疑わざるを得ないのだった。
煩悩秘文書 (新字新仮名) / 林不忘(著)
いまはしい予感を、ひやと覚えたとき、どやどやと背広服着た紳士が六人、さちよの病室へはひつて来た。
火の鳥 (新字旧仮名) / 太宰治(著)
暗いいまわしい束縛——その生活のうちに、自分がはいっていったということがわかるようになりました。
枝葉の事を弥聒やかましくいわれるよりは、いまわしい離婚沙汰などをいださぬように今の教育を根本から改めて、おのずから夫婦相和して行かれる完全な人格を作る事を心掛け
離婚について (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
春から夏の初へかけていまわしい凶事が続くと、早々その年をおしまいにするために、流行正月はやりしょうがつと名づけて六月の朔日ついたちに、もう一度餅をき正月の形をする風習は
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
おれは今朝、あるいまわしい場面を、この船の事務員が見たとか、いう話をきいたときは、初めは話のほうが信用できなかった。いや、今でも、そんな話は信用しとらん。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
十九から中間ちゆうかんの六年間と云ふものを、不思議な世界の空気にひたつて、何か特殊ないまはしい痕迹こんせきが顔や挙動に染込しみこんででもゐるやうに、自分では気がさすのであつたが
或売笑婦の話 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
そして時々、窓掛のひだの中に動いてるものを見るために、ちらりとあたりを見回した。——解剖学の書物の中にある剥皮体はくひたいの図は、なおいっそういまわしいものだった。
又一人、又一人、遂にいまはしきやまひが全村に蔓延した。恐しい不安は、常でさへ巫女いたこを信じ狐を信ずる住民ひとびとの迷信をあふり立てた。御供水おそなへみづは酒屋の酒の様に需要が多くなつた。
赤痢 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
お花はいづれも木綿のそろひの中に、おのひといまはしき紀念かたみの絹物まとふを省みて、身を縮めてうつむけり
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
彼によれば、人民からいまわしく思われ、軽侮けいぶされ、不平不満を持たれることが、政治家として最も避けねばならぬことである。人民にきらわれないことが最良の城壁である。
政治学入門 (新字新仮名) / 矢部貞治(著)
近来諸方の寺院頻々ひんぴんとして死体発掘の厄に逢うも未だ該犯人の捕縛を見るに至らざるは時節がら誠になげかわしき次第なるがここにまたもやいまわしき死体盗難事件ありその次第を
百面相役者 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
そしてそれを借りたもので失敗しないものはないと云ふいまはしい評判まで立つてゐる家だ。
泡鳴五部作:04 断橋 (旧字旧仮名) / 岩野泡鳴(著)
又はかの「天才」かの「英雄」或は大人たいじん超人てうじん、すべていまはしき異形いぎやうのものを敬せむや。
頌歌 (旧字旧仮名) / ポール・クローデル(著)
彼は齒噛はがみして沈默した。彼は歩みを止めて固い地面を長靴で蹴りつけた。あのいまはしい想念が彼を掴んで、一足も前に進めない程、彼をしつかりと引留めてゐるやうに見えた。
とHさんは長談義をやうやく結びながら、ニッと冷やかな微笑を浮べて、またもやあのいまはしい病気の名を口にするのでした。……風が出て、一しきり松原を鳴らして過ぎました。
死児変相 (新字旧仮名) / 神西清(著)
いや、待て、私は自分が雅子をザギ……こんないまわしい言葉は使いたくない。なんと言ったらいいか、——雅子をなんとかしようと思っていたのか。そんな気持ではなかったはずだ。
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
かれが蒐集しゅうしゅうしたところのあらゆる婦人雑誌や活動写真の絵葉書、ことにいまわしげな桃色をした紙の種類、それからタオルや石鹸や石鹸入れなどが、みんな押入れのなかにしまわれてあった。
幻影の都市 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
「こなたには面白き話一つする人なし。この様子にては骨牌カルタのが球突たまつきに走るなど、いまはしき事を見むも知られず。おん連れの方と共に、こなたへ来たまはずや。」と笑みつつすすむる
うたかたの記 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
毎日毎日、そのいまわしい奇怪の事実が、執拗にウォーソン夫人を苦しめた。彼女はすっかりヒステリカルになってしまい、白昼事務室の卓の上にも、猫の幻影を見るようになってしまった。
ウォーソン夫人の黒猫 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)