はるか)” の例文
「市郎、大分寒くなったな。」と、父の安行やすゆき背後うしろから声をかけた。安行は今年六十歳の筈であるが、年齢としよりもはるかに若く見られた。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
殊に歳暮さいぼの夜景の如き橋上けうじやうを往来する車のは沿岸の燈火とうくわと相乱れて徹宵てつせう水の上にゆらめき動く有様ありさま銀座街頭の燈火とうくわよりはるかに美麗である。
水 附渡船 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
彼等には彼の後で飛んだ——彼よりも幅の狭い所を彼よりも楽に飛び越えた、せいの高い美貌びぼうの若者の方が、はるかに人気があるらしかった。
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
一たび二たび三たびして、こたえやすると耳をすませば、はるかに滝の音聞えたり。どうどうと響くなかに、いと高くえたる声のかすか
竜潭譚 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
開戦の劈頭へきとうから首都巴里パリーおびやかされやうとした仏蘭西フランス人の脳裏には英国民よりもはるかに深くこの軍国主義の影響が刻み付けられたに違ない。
点頭録 (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
片帆に片明りするのはるかに印象的なるにかぬ。山焼と舟というやや変った配合も、元禄の作家が早く先鞭を著けていたことになる。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
それでも料理屋へって高価な不味まずいものを食べたり、飲酒会さけのみかいへ往って高い割前を取られるよりもはるかに廉く上って家内一同で楽しめる。
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
しかしてこの精神は遂に発して南洋との貿易となり、山原やんばる船ははるかにスマトラの東岸まで航行して葡萄牙ポルトガルの冒険家ピントを驚かしたのである。
琉球史の趨勢 (新字新仮名) / 伊波普猷(著)
北には仙丈岳が大きくわだかまって、大仙丈沢のカール状の窪が正面に巨口を開いている。その左には槍穂高の連嶂がはるかの空際から銀箭を射出す。
かつこの歌の姿、見ゆる限りは桜なりけりなどいへるも極めてつたな野卑やひなり、前の千里ちさとの歌は理窟こそあしけれ姿ははるかに立ちまさりをり候。
歌よみに与ふる書 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
鏡子は弟の様に思つて居る京都の信田しのだと云ふ高等学校の先生が、自分は一人子ひとりごむすめよりも他人の子の方をはるかに遥に可愛く思ふ事
帰つてから (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
しかしここが面白いのである、出来た人でなければ出来ない真の楽みを取っているところである。貞徳は公よりはるかに年下である。
魔法修行者 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
彼女は、ふとホテルの裏庭へ、出て見ようと思った。其処そこは可なり広い庭園で、昼ならば、はるか相模灘さがみなだを見渡す美しい眺望ちょうぼうを持っていた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
行かよふ人の顔小さく小さく擦れ違ふ人の顔さへもはるかとほくに見るやう思はれて、我が踏む土のみ一丈も上にあがりゐるごと
にごりえ (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
仮りにもレディーを気取っていながら、あの云い草はほとんど聞くに堪えないじゃないか、菊子嬢や綺羅子の方がはるかにたしなみがあるじゃないか
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
この表現上の差別という厄介千万なものをなくすためには、知性の改造という非常にはるかなイメージを描かなければならない。
翻訳の生理・心理 (新字新仮名) / 神西清(著)
湖のへりはそこから左にひらけて人家がなくなり、傾斜のある畑が丘の方へ続いていた。黒いその丘ははるかの前にくずれて湖の中へ出っぱって見えた。
水郷異聞 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
花車ははるかに此の様子を聞いて、惣次郎とはもとより馴染なり兄弟分の契約かためを致した花車でございますから心配しておりまする。
真景累ヶ淵 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
温室の花は虫に弱い、野の花はこれに比べてはるかすこやかである。私は今も咲くその健かな花を見るために旅立ったのである。
北九州の窯 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
西には養老の山脈、はるかには伊吹山、北には鉄橋を越えて、岐阜の金華山、かすかに御岳。つい水のむこうが四季の里の百日紅さるすべり
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
青い岩床の凹みに波がよせてはいあがるようにはるか白根しらねの山の峡に灰色の雲が打ちつけている。暮れてきたので実をとりあげて燈明に火をともす。
島守 (新字新仮名) / 中勘助(著)
彼女が続いて見ていると、それは非常に滑らかな青い竹で、その頂に二筋の黒い細い点があり、それはかしの樹の葉の上にある黒点よりも、はるかに小さい。
不周山 (新字新仮名) / 魯迅(著)
足寄橋にて別れて餘作が後貌うしろすがたはるかに眺めて一層の脱力を覚えたるも、しいて歩行し、漸く西村氏に泊す。此際に近藤味之助こんどうあじのすけ氏は学校に在勤して慰めくれたり。
関牧塲創業記事 (新字新仮名) / 関寛(著)
紅葉がトルストイやドストエフスキーのような最大作家であったか否かは別問題であるが、普遍の興味を持つ点でははるかに今日の新らしい作家にまさっておる。
このまま死んでしもうても、今わが胸に充ちたものは、今までの色ももない生活にははるかまさっているに違いない。己は己の存在を死んで初めて知るのであろう。
はるかに思いもよらぬ後方のぐんを抜いた空に、ぽっかり浮んでいるのは祖母そぼの頂である。離れて久住くじゅうの頂が、やや低いところに見える。英彦えひこが見える、市房いちふさが見える。
雲仙岳 (新字新仮名) / 菊池幽芳(著)
根本のいわゆる常道は決して失わせることなく広く施されて万民これを行えばこれが少数の武士階級に行わるるよりはるかに有力な、かつ有益な道徳となるに違いはない。
平民道 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
今は三七二老いてむろにも出でずと聞けど、我が為には三七三いかにもいかにも捨て給はじとて、馬にていそぎ出でたちぬ。道はるかなれば夜なかばかりに蘭若てらに到る。
海上から望んだ新嘉坡シンガポオル香港ホンコン上海シヤンハイに比してはるかに風致に富んで居る。ゴシツクの層楼の多いのは早く出来た市街だけに保守的な英国風が余計に保存されて居るのかも知れない。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
何卒なにとぞ御示下され度希上候。土山の下の終に、深山にわびしくくらし居り候老僧にかしづきゐる婦人の京の客の帰り行くをたゝずみてはるかに見送る心情、いかにも思ひやられ候。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
直下せずして、曲折するが、日光の華厳けごん滝よりははるかに高き也。この滝の水、落ちて間もなく、忠別川に入る。川に沿い、数町下りて、松山温泉に投ず。忠別峡中の一軒屋也。
層雲峡より大雪山へ (新字新仮名) / 大町桂月(著)
予はこの文の局を結ぶに当って、今の文壇の諸家が地方新聞を読むや否やは知らぬながら、はるかに諸家に寄語する。諸家は予などと違って、皆春秋に富んで居られるではないか。
鴎外漁史とは誰ぞ (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「わが祖国」というよりは「マイン・ファーターランド」といった方がはるかに荘重に響く。
外来語所感 (新字新仮名) / 九鬼周造(著)
到底吾人味噌粕輩みそかすはいは申すに及ばず、斯道五流の大家と雖も倒退三千里で、畢竟ひっきょう百説ひゃくせつ不会ふえただ識者しきしゃの知に任せ、達者の用にまかして、はるかに三拝九拝して退くより他にみちはないのである。
謡曲黒白談 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
云い換えると私よりもイサクの方がはるかに私を憎んでいたとういうことになるのです……
死の復讐 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
加ふるに石南しやくなん蟠屈ばんくつ黄楊つけ繁茂はんもとを以てし、難いよ/\難を増す、俯視ふしして水をもとめんとすれば、両側断崖絶壁だんがいぜつぺき、水流ははるかに数百尺のふもとるのみ、いうしてはやく山頂にいたらんか
利根水源探検紀行 (新字旧仮名) / 渡辺千吉郎(著)
九歳にもなれば是非ぜひとも外国にらなければならぬが、さきだつものは金だ、どうかしてその金を造り出したいと思えども、前途はなははるかなり、二人ふたりやって何年間の学費は中々の大金
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
くつわを並べて遠乗をして、美しい谷間から、はるかにアルピイの青い山を望んだこともある。
ダンスホールは東山の中腹にあって、人里を離れ、東京の踊り場よりははるかに綺麗だ。
日本文化私観 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
うま穿うがっているという点からいえば、この蕪村の句よりも前の蓼太の句の方がはるかに上かも知れぬけれども、春水しゅんすいというものの趣——春水満四沢というような趣——を味って
俳句はかく解しかく味う (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
一体何者だろう? 俺のように年寄としとった母親があろうもしれぬが、さぞ夕暮ごとにいぶせき埴生はにゅう小舎こやの戸口にたたずみ、はるかの空をながめては、命の綱の掙人かせぎにんは戻らぬか、いとし我子の姿は見えぬかと
先年のM商店の出品物をはるか凌駕りょうがする壮麗な真珠塔を出陳したのである。
真珠塔の秘密 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
両人ふたりの話している所を聞けば、何か、談話はなしの筋の外に、男女交際、婦人矯風きょうふうの議論よりは、はるかまさりて面白い所が有ッて、それを眼顔めかおで話合ッてたのしんでいるらしいが、お勢にはさっぱり解らん。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
僕らはしばし休んで合羽かっぱを身につけはじめた。その時はるか向うの峠を人が一人のぼって行くのが見える。やはり此方こっちの道は今でも通る者がいるらしいなどと話合いながら息を切らし切らし上って行った。
遍路 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
乏しい煙草をがつがつ吸うよりもはるかに増しだと思っているのである。
五一 山にはさまざまの鳥めど、最もさびしき声の鳥はオット鳥なり。夏の夜中よなかく。浜の大槌おおづちより駄賃附だちんづけの者など峠を越え来たれば、はるかに谷底にてその声を聞くといえり。昔ある長者の娘あり。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
けだし「仏法はるかにあらず」です。「心中にしてすなわち近し」です。「真如しんにょほかあらず」です。「身を捨て何処いずこにか求めん」です。少なくとも、私ども人間の生活を無視して、どこに宗教がありましょうか。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
殊に歳暮さいぼの夜景の如き橋上きょうじょうを往来する車のは沿岸の燈火と相乱れて徹宵てっしょう水の上にゆらめき動く有様銀座街頭の燈火よりはるかに美麗である。
こずえに響く波の音、吹当つる浜風は、むぐらを渦に廻わして東西を失わす。この坂、いかばかり遠く続くぞ。谿たに深く、峰はるかならんと思わせる。
貝の穴に河童の居る事 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
また実際仲間の若者たちも彼の秘密をぎつけるには、余りに平生へいぜい素戔嗚すさのおが、恋愛とははるかに縁の遠い、野蛮やばんな生活を送り過ぎていた。
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)