たた)” の例文
彼が死に到るまで、その父母に対してはもとより、その兄妹に対して、きくすべき友愛の深情をたたえたるは、ひとりその天稟てんぴんのみにあらず。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
と答へたが、其顔に言ふ許りなき感謝のこころたたへて、『一寸。』と智恵子に会釈して立つ。いそがしく涙を拭つて、隔ての障子を開けた。
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
冬子の瞳はうるんで涙をたたえていた。彼は首を垂れて沈黙した。冬子も黙ってしまった。静けさが二人には恐ろしく感じられて来た。
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
「いいえ違います。あなたは何にも御存知ないのです」と太子は静かに、しかしあきらめ切ったように淋しい微笑をたたえて頭を振られた。
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
天幕の隙間から春の陽が、黄金の征矢そやを投げかけた。紅巾は燦然さんぜんと輝いた。底に一抹の黒味をたたえ、表面は紅玉のように光っていた。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
ものいう目にも、見えぬ目にも、二人ひとしく涙をたたえて、差俯向さしうつむいて黙然とした。人はかかる時、世に我あることを忘るるのである。
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
雪が少く、空気が乾いて、空に透明に過ぎるほどの碧さをたたへる。皮膚に響くが如き寒さを感ずるのは、空気が乾いてゐるためである。
諏訪湖畔冬の生活 (新字旧仮名) / 島木赤彦(著)
西の屋根がわらの並びの上に、ひと幅日没後の青みを置き残しただけで、満天は、しゃのやうな黒味の奥に浅い紺碧こんぺきのいろをたたへ、夏の星が
蝙蝠 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
二十日の後、いっぱいに水をたたえたさかずきを右ひじの上にせて剛弓ごうきゅうを引くに、ねらいにくるいの無いのはもとより、杯中の水も微動だにしない。
名人伝 (新字新仮名) / 中島敦(著)
暗道ポテルンの光沢のある橄欖石の側壁が、そこだけ花のうてなのようなかたちに穿れ、その中にあふれるばかりの水をひっそりとたたえていた。水。
地底獣国 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
実際、康子は下腹の方が出張って、顔はいつのまにか二十代のつやたたえていた。だが、週に一度位は五日市町の方から嫂が戻って来た。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
彼の瞳は、まるで斥候せっこうに出された兵のように、冷たい光をたたえて周囲を見廻し、癖のある例の肩をひいて油断のない身構えをしている。
雲南守備兵 (新字新仮名) / 木村荘十(著)
婆やは腰をかがめながら入ってきた。その手には、白樺しらかばの皮を握っていた。二人の目は驚異の表情をたたえて、その自樺の皮の上に走った。
恐怖城 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
声のないかなしみをたたえた君のこの頃に心を引かれないものが有ろうか。君の周囲にあるものは何事なんにも知らないものばかりだと君は思うか。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
さる人はかしこくとも、さるわざは賢からじ。こがね六三ななのたからのつかさなり。土にうもれては霊泉れいせんたたへ、不浄を除き、たへなるこゑかくせり。
古い掘割りはさらえられ、新しい川になっていた。透明な水をたっぷりたたえて、高い秋の空をまッ蒼に、底なしの深さに映していた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
マーメイド・タバンだなどとび慣れて、うつつを抜かしていた詩人のお目出たさにはあきれたものだ——と僕は苦笑をたたえながら
吊籠と月光と (新字新仮名) / 牧野信一(著)
大人か小児こどもに物を言うような口吻こうふんである。美しい目は軽侮、憐憫れんみん嘲罵ちょうば翻弄ほんろうと云うような、あらゆる感情をたたえて、異様にかがやいている。
余興 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
ニコニコへりくだった微笑をたたえながら、そっと小屋の横から、施米の忙しさや、手摺の外の群衆などを満ち足りた様子で眺めているのでした。
山西はまた逃げられてはならないとおもったので、あとからいて往った。石垣の下にはもう満ちきった河水かわみずが満満とたたえていた。
水魔 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
彼の眼は子供のように、純粋な感情をたたえていた、若者は彼と眼を合わすと、あわててその視線を避けながら、ことさらに馬の足掻あがくのを叱って
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
卯平うへいもとより親方おやかたからうち容子ようすやおつぎの成人せいじんしたことや、隣近所となりきんじよのこともちくかされた。卯平うへいくぼんだ茶色ちやいろあたゝかなひかりたたへた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
剣大刀つるぎたちいよよぐべし」や、「丈夫ますらをは名をし立つべし」の方が、同じく発奮でも内省的なところがあり、従って慈味がたたえられている。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
そのときの上野介は宗匠頭巾そうしょうずきんをかぶった好々爺こうこうやで彼は道で、すれちがう誰彼の差別もなく、和やかな微笑をたたえて話しかけた。
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
しかるをなお強いて「戯れに」と題せざるべからざるもの、その裏面には実に万斛ばんこく涕涙ているいたたうるを見るなり。ああこの不遇の人、不遇の歌。
曙覧の歌 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
藤尾と呼ばれる娘は十七八でもあろうか、眉のきわだって美しい、陶器のような冷たい白さの肌をした、どこか憂いをたたえた顔つきである。
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
目の前に湖水が濃い藍色あいいろたたえられている。そこにあったベンチに腰を掛けて、い心持ちになって、鏡のように平かな水のおもてを見渡した。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
よほどふかいものとえまして、たたえたみずあいながしたように蒼味あおみび、水面すいめんには対岸たいがん鬱蒼うっそうたる森林しんりんかげが、くろぐろとうつってました。
「あら、いらっしゃい!」たちまち、美和子は何事もなかったような朗らかさに返って、明るい双眸そうぼうに一杯の微笑みをたたえて
貞操問答 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
濃紺のうこん濃紫のうしの神秘な色をたたえて梢をる五尺の空に唯一つ明星をきらめかしたり、彼の杉の森は彼に尽きざる趣味を与えてくれる。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
何か、わけも分らぬうなずきをくり返した。勝家のひとみは、文字を辿たどり出すと、なおさら心理の変化を、露骨にまで、顔じゅうにたたえ出した。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
山岸の一方がふちになって蒼々あおあおたたえ、こちらは浅く瀬になっていますから、私どもはその瀬に立って糸を淵に投げ込んで釣るのでございます。
女難 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
伯爵は其箱を見、この答えを聴くより、たちまち露子の腕を取って、其腕に玉村たまむら侯爵から贈って来た腕環うでわめ満面にあふるるばかりのえみたたえて
黄金の腕環:流星奇談 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
憂愁をたたえた清らかな眼差まなざしは、細く耀かがやきを帯びて空中を見ていたが、栖方を見ると、つと美しい視線をさけて外方そっぽを向いたまま動かなかった。
微笑 (新字新仮名) / 横光利一(著)
カークは、いつもとちがって底気味悪さをたたえている座間を景気づけるように言った。すると、座間はいきなりふり向いて
人外魔境:01 有尾人 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
悠々たる態度の裡に無限の愁いを含ませ、怒気満面の中に万斛ばんこくの涙をたたえ、ニコニコイソイソとしているうちに腹一パイの不平をほのめかす。
鼻の表現 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
ミチミは寝棺のなかに入って、これから旅立つ華やかなお嫁入りを悦ぶものの如く、口辺に薄笑うすえみさえたたえているのであった。
棺桶の花嫁 (新字新仮名) / 海野十三(著)
自分の前に寒さと一種の畏敬の念にふるえて立っている子供を見下した——その眼には涙がたたえられて、顔には神々こうごうしい柔和な光りが輝いていた。
(新字新仮名) / 小川未明(著)
農夫は、ここに至って始めて氏の妙計を覚り、小躍こおどりして出て行ったが、やがて満面に笑をたたえて、ポケットも重げに二百磅の金を携え帰った。
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
方二間位のプウルには、青々と水がたたえられ、船の動揺どうようにしたがって、れています。周囲にベンチが二つ、置かれてあるだけのせまい甲板です。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
そして其れは氏の根強い安住の場所であつた。其処では氏は何物も恐れなかつた。其処に氏の情熱はたたえられてあつた。
平塚明子論 (新字旧仮名) / 伊藤野枝(著)
ゆえに戦い敗れて彼の同僚が絶望に圧せられてその故国に帰りきたりしときに、ダルガス一人はそのおも微笑えみたたえそのこうべに希望の春をいただきました。
絶えず美しい水をたたえているのも、また信飛地方の峡谷の水が、純美であるのも、雪から無尽蔵に供給するからである。
高山の雪 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
その時セエラは、眼にいつもの輝きをたたえながら、辛かった一日のあとに、ふいにこんな愉快なことが起ったのを、不思議に思い返していました。
「溜り江」という言葉はいささか耳慣れぬようであるが、水のあまり動かぬ、じっとたたえている場所らしく想像される。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
こう云った時、お延は出来得る限りの愛嬌あいきょうをその細い眼にたたえて、お秀を見た。しかし異性に対する場合の効果を予想したこの所作しょさは全くはずれた。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
永遠なるものの希求に殆んど無意識に悩んでいる彼の意志は限りない闇と憂鬱ゆううつとの海を彼の性格の奥底にたたえておる。
語られざる哲学 (新字新仮名) / 三木清(著)
大水は久しくたたえて終に落ちた。万作夫婦も仮小屋を出て、水余すいよの家に帰った。併しお光は帰って来ない。帰らぬ、帰らぬ、今日までもまだ帰らぬ。
漁師の娘 (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
くちびると、眼とに、無限の愛敬あいきょうたたえて、黒いろの、無地の夏コートを着て、ゆかしい印象を残してその女は去った。
一世お鯉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
その古い物語を読んだのは、深く基督教の匂いをたたえた或る中学校を終える頃であったが、その頃でもまだ/\東京のこがらしは烈しいものであった。