おも)” の例文
高くて暑い空を、恐る恐る仰いで暮らした大阪の病院をおもい起すと、当時の彼と今の自分とは、ほとんど地を換えたと一般であった。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
きん黝朱うるみの羽根の色をしたとびの子が、ちょうどこのむかいのかど棒杭ぼうぐいとまっていたのをた七、八年前のことをおもい出したのである。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
「灯台技師の家」の材料をいじっている中に、何時かスティヴンスンは、一万マイル彼方のエディンバラの美しい街をおもい出していた。
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
表口までまわるわずかの間に、彼は玉目三郎をおもいだした。今朝がた狂乱の姿を見せたその若い妻が、暗い負担となって感じられて来る。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
静かな観照、素材の純化、孤独な地域、この様な作品を長年おもっています。そして私の反省は死ぬまで私を苦しめることでしょう。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
ここにペテロ、主の「今日にわとり鳴く前に、なんじ三度みたびわれをいなまん」と言い給いし御言みことばおもいだし、外に出でていたく泣けり。
雪の上の足跡 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
「伝十郎」とまるで人間の名のように呼ばれるこれの桃の名をおもい出して可笑おかしくなった。私は、あはあは声を立てて笑った。
桃のある風景 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
次の覇権をめぐって、あしたも知れぬ風雲をはらんでいるが——おもえば、世の中は、建武、正平のむかしと、どれほどな相違があろう
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
おもへ、憶へ……ジェーリオンに乘れる時さへ我汝を安らかに導けるに、神にいよいよ近き今、しかするをえざることあらんや 二二—二四
神曲:02 浄火 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
今日は夏をおもい出す様な日だった。午後寒暖計が六十八度に上った。白いちょうが出て舞う。はえが活動する。せみさえ一しきり鳴いた。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
これを手に入れたはすでに八年前のこと、忘れもせぬ九月二十一日のであった。ああ八年の歳月! おもえば夢のようである。
小春 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
自分等が一瞥いちべつしている関東東部の近世初期の開発地などには、以前の垣内制をおもわしめるような屋敷地取りの方式がなお折々は見出される。
垣内の話 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
銀子のある瞬間が世にありし日の懐かしい夫人の感じをおもい起こさせるのて、座敷へ姿を現わした刹那せつなの印象が心に留まった。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
さてある時端なく一の思想の浮び出づるに逢ひて、これとともに曾て聞ける歌、曾て聞ける韻語をおもひ得給ひしことはあらずや。
そんな話を聞いたあとで、つくづく眺めたうすぐらい六畳の煤け障子にさして居る夕日の寂しい寂しい光を今も時々おもい出す。
地蔵尊 (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
そのようないろいろの情景がふっとおもい出され、そうした情景のどこかにひょっこりとかの男の顔が出て来そうな気が太田にはするのである。
(新字新仮名) / 島木健作(著)
しみじみと虱を見てゐると、過去つた旅の十年間がおもはれるのであつた。もとは清潔な着物を着て、よい生活くらしを送つてゐた。
良寛物語 手毬と鉢の子 (新字旧仮名) / 新美南吉(著)
主人窓外有芭蕉。これ人口に膾炙かいしゃする少杜しょうとの詩なり。またおも杜荀鶴とじゅんかくが、半夜燈前十年事。一時和雨到心頭
雨瀟瀟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
……故郷を離るる幾百里、望めば茫々ぼうぼうとして空や水なる海、山の上にも山ある山国に母をおもい、父を憶うて、恋しき弟妹はらからの面影を偲ぶ心如何いかならん。
兄はよく草履ばきでその石の上にかがんで、そこらを見ていられました。明治二十九年の句に、「亡父をおもふ」として
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
書く気持がぐらついて来たのがその最初で、そうこうするうちに頭に浮かぶことがそれを書きつけようとする瞬間に変におもい出せなくなって来たりした。
泥濘 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
けやきの樹で囲まれた村の旧家、団欒だんらんせる平和な家庭、続いてその身が東京に修業に行ったおりの若々しさがおもい出される。神楽坂かぐらざかの夜のにぎわいが眼に見える。
一兵卒 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
いや、見たことはあるかも知れませんが、どうもその印象がおもい出せないのです。夏ともなれば、暑いのだから、猿沢佐介だって肌を脱ぐだろう。そうだ。
Sの背中 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
かたわらにかけた普賢ふげんの画像を眺めながら、鼻の長かった四五日前の事をおもい出して、「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
「そうそう、おもい出した。……すると、あれは矢張り、北鳴氏の実験に使うものなんだネ。ほう、妙な暗合だ」
(新字新仮名) / 海野十三(著)
こうして自分のことを記していると、下男のこうのことをおもさずにはいられない。そしてすこしでも彼のことを書いてやらねば済まないような気にもなる。
故郷をおもう念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、ただこの一刹那せつな低徊踟蹰ていかいちちゅうの思いは去りて、余は彼を抱き、彼のかしらはわが肩にりて
舞姫 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
対手あいておもい、慕い、なつかしむような場合に使っているのは注意すべきで、これも消え易いという特色から、おのずから其処に関聯かんれんせしめたものであろうか。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
「今まで夫婦のように暮らしていながら、これは何のことです。わたしに来るなと言うならば、もう参りません。決して再びわたしのことをおもってくださるな」
鶴見はそれが夏時分であったということを先ずおもおこす。自家用の風呂桶ふろおけが損じたので、なおしに出しているあいだ、汗を流しにちょくちょく町の銭湯せんとうに行った。
精しい古語彙が眼前にないから確言は出来ぬが、独語にプファールデン(いななく)てふ動詞があったとおもう。
彼九州に遊びし時家をおもふの詩あり、曰く客蹤乗興輙盤桓、筐裡春衣酒暈斑、遙憶香閨燈下夢、先吾飛過振鰭山、と。彼は其詩に屡々家庭の消息をらせり。
頼襄を論ず (新字旧仮名) / 山路愛山(著)
肥後国ひごのくに阿蘇あその連峰猫嶽ねこだけは特に人も知って、野州にも一つあり、遠く能登のとの奥深い処にもある、とおもう。
雪柳 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
利爪りさう深くその身に入り、諸の小禽痛苦又声を発するなし。則ち之を裂きてほしいまま噉食たんじきす。或は沼田せうでんに至り螺蛤らかふついばむ。螺蛤軟泥中にあり、心柔輭にうなんにして唯温水をおもふ。
二十六夜 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
西に眼を転じて、自分は、安房あわの国、洲崎浜の駒井甚三郎の食客となっている身で、それに相当のいとまを告げて、立ち出でて来た旅中の旅路であることをおもいました。
大菩薩峠:31 勿来の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
しかし、それも後からおもえば買わなかったほうが、いや買ったにしても、なんにも書かぬ白紙カイエブランシュのなかに、記憶きおくだけをとどめておいたほうが、良かった結果になりました。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
わたくしはその当時とうじおもして、おぼえずなみだれつつも、ちかおとずれるこちらの世界せかいははがどんな様子ようすをしていられるかを、あれか、これかと際限さいげんもなく想像そうぞうするのでした。
ちょっとした動作や眼づかいや言葉づかいなどまでが、妙にはっきりとおもい出せて来るのであった。
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
いわんや我輩もこの三十年間学校教育の事では苦労をしているのであるから、君の如き立派な人格と一定の主義を有する教育家が早世した事をおもい出すと実に残念でたまらぬ。
大風むろ四匝しさふせる石壁を透徹して雷吼らいこうす、駭魄がいはくして耳目きはめて鋭敏となり、昨夜御殿場旅館階上の月をおもひ起し、一人ひそかに戸を排して出で、火孔に吹き飛ばされぬ用心して
霧の不二、月の不二 (新字旧仮名) / 小島烏水(著)
他の二つの場合(前にべたるものをす)も今おもひ出だし候てだに心をどりせらるゝ一種の光明、慰藉ゐしやに候へども、先日御話いたしし実験は、最も神秘的にしてまた最も明瞭に
予が見神の実験 (新字旧仮名) / 綱島梁川(著)
しかし、彼らの一人として、娘をおも兵部ひょうぶ宿禰すくねの計画を洞察し得た者は、誰もなかった。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
私の生涯において忘れられない人々であった。私が成長して物事がよりはっきりと、判断することが出来るようになればなるほど、これらの人達を尚更なおさおもい起さずにいられない。
戦争雑記 (新字新仮名) / 徳永直(著)
あながちにそれを足そうともせず、かえって今は足らぬが当然と思っていたように、かず、騒がず、優游ゆうゆうとして時機の熟するをっていた、その心の長閑のどかさ、ゆるやかさ、今おもい出しても
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
妻の肉体は今最後の解体を遂げているのだろう。(わたしが、さきにあの世に行ったら、あなたも救ってあげる)いつだったか、そんなことを云った彼女の顔つきがおもいだされた。
死のなかの風景 (新字新仮名) / 原民喜(著)
親方がのっそりきさまやって見ろよと譲ってくれればいいけれどものうとの馬鹿に虫のいい答え、ハハハおもい出しても、心配そうに大真面目くさく云ったその面がおかしくて堪りませぬ
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
こんな天気のいい時だとおもい起しそうろうは、小生のいささか意に満たぬ事あれば、いつも綾瀬あやせの土手に参りて、折り敷ける草の上に果は寝転びながら、青きは動かず白きは止まらぬ雲を眺めて
わが師への書 (新字新仮名) / 小山清(著)
こんな天気のいゝ時だとおもおこそろは、小生せうせいのいさゝかたぬことあれば、いつも綾瀬あやせ土手どてまゐりて、ける草の上にはて寝転ねころびながら、青きは動かず白きはとゞまらぬ雲をながめて
もゝはがき (新字旧仮名) / 斎藤緑雨(著)
中尉を失って後の我々武骨者がさつもの一同は、意思を通じ合うのに事々に困難を感じ、そのたびごとに故人をおもうの情切なるものあるを覚えていたのでありますが、その中尉すらも教養のあるせいか
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
左千夫さちお先生のことをおもうと、私にはいかにも懐かしい気分がいてくる。
左千夫先生への追憶 (新字新仮名) / 石原純(著)