ただ)” の例文
読者諸君が、さようになやんでいるのを、作者は意地わるい微笑をうかべて、悪魔じみた楽しさをただ一人味わいたいつもりではない。
四次元漂流 (新字新仮名) / 海野十三(著)
謁見室にはただ一人宮相だけが残っていた。夜と昼との境目の、微妙な灰色の外光を、窓からかすかに受けながら、彼は思いに沈んでいる。
闘牛 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「夫婦てえものはおめえ、二人で蜜柑の木を育てるようなもんだ、その他人の育てた蜜柑をよ、ただで取って食うって法はねえもんだ」
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
むろん此等これらの人達は、すでに地上とはきれいに絶縁してしまい、彼等の墓石の上に、哀悼の涙をそそぐものなどは、最早もはやただの一人もない。
ただその周囲の処に人がドヤ/″\群集ぐんしゅうして居るだけである。れゆえ大きな声を出して蹴破けやぶって中へ飛込とびこみさえすれば誠に楽な話だ。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
どうも節ちゃんの様子がおかしいぞなし、あのいても泣いてばかりいるが、どうもこれはただではない、貴方あなたがまた下手へたなことを
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
が、それには一応何時いつもの須山らしい調子があるようで、しかし如何いかにも取ってつけたただならぬさがあった。それが直接じかに分った。
党生活者 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
たとへ、東京へ出ないとしても、私にはただ規丁面きちやうめんでこち/\にかたまつた義雄のやうな青年に、なんの魅力をも感じられなかつたのだ。
念仏の家 (新字旧仮名) / 小寺菊子(著)
娘は村を追ひ出されてもく先もありませぬ、又乞食するすべも知らずただ声を限りに泣き叫びながら広い/\野原の方へ参りました。
金銀の衣裳 (新字旧仮名) / 夢野久作(著)
しかし、伸子の耳には這入らないのか、ただ一刺にと、足を一歩踏み出した。玉島はぎゃっと云う鳥の絞められるような声を出した。
罠に掛った人 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
わたくしとしましてはただそのお心根がいじらしく、おん痛わしく、お頼みにまかせてふみ使いの役目を勤めておったのでございます。
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
男子はもとよりこれに必死となっているが、女性の側でもただこれを傍観して、蔭であれあれと言っている時代ではあるまいと思う。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
いい着物を着て、美味うまい物を食べて、立派な家に住みいと思わぬ事は無いが、ただそれが出来ぬから、こんな処で甘んじて居る。
「実は、私は青木君のお友達ではありません。ただ偶然、同じ自動車に乗り合わしたものです。そして青木君の臨終に居合せたものです。」
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
ただこの日記が、偉大なる山岳を汚損する如き傾向を、僅かなりとも読者の心に与えなければ、私はそれを以て充分に満足する。
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
「いゝえ、外へ出なくてもいゝのだよ、ただそこへすわつたまゝ、この傘の下に入れば、ぐ行かれるんだ、いゝかね、ほうれ。」
夢の国 (新字旧仮名) / 宮原晃一郎(著)
そして一時捜査本部は新しい捜査に色めき立ったが、しかし依然として何んの得る所もなかった。ただ隣家の広瀬医師から一つの証言があった。
(新字新仮名) / 楠田匡介(著)
赤いほのおつつまれて、なげき叫んで手足をもだえ、落ちて参る五人、それからしまいにただ一人、まったいものは可愛かわいらしい天の子供こどもでございました。
雁の童子 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
二人が兄弟もただならず、懇意だということを、岡ッ引きに告げてやりゃあ、雪さんだって、安穏あんのんにいられるわけがないんだ——
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
僕はただそれだけを心がけてゐる。それだけでもペンを持つて見ると、滅多めつたにすらすら行つたことはない。必ずごたごたした文章を書いてゐる。
文章と言葉と (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
源之助の屍体には、喜三郎の屍体に見られた様な打撲傷やかすり傷はなかった。ただ、心臓の上に、同じ様な刺傷があるだけだ。
カンカン虫殺人事件 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
ただごうっと吹く風の音、ばらばらっと板屋を打つ雨の音にばかり神経は昂進たかぶるのである。新聞も読掛けてよした。雑誌も読掛けたまま投げてやった。
大雨の前日 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
むんずと飛びついて来た千草の股引は、これはただの股引ではありませんでした。充分に腕に覚えのある捕手の一人でした。
大菩薩峠:38 農奴の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
これはただなぐさめの言葉ことばよりも幾分いくぶんかききめがあったようで、はははそれからめっきりとらくになって、もなく気息いききとったのでございました。
ただ、青い海に浮んだ白い大都市が、燦然さんぜんと、迫ってきた、あの感じが、いつもぼくに、ある永劫えいごうのものへの旅を誘います。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
ただ一湖を描けるのみなるを以て、推測する材料の乏しきに苦しむ次第なりといわれ、津婦良沼又はツウラ沼なる名は前記三湖の総名とするよりも
古図の信じ得可き程度 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
すると、坊様は、折角、幸吉が丹念に拵えたものをただで貰うは気の毒、これを彼児あれへお小遣いにやって下さいと一分銀いちぶぎんを包んで師匠へ渡しました。
どこの小屋へも、長いのでおどかして、ただで入る野郎です。それが孝行藤六の妹のお春に心をかけ、執念深く言い寄ってはじかれたので、藤六にケチを
ただりよ一人平作の家族に気兼きがねをしながら、甲斐々々かいがいしく立ち働いていたが、午頃ひるごろになって細川の奥方の立退所たちのきじょが知れたので、すぐに見舞に往った。
護持院原の敵討 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
ただで乗せて伴れて行つて貰へるからこそ出て来たほどの貧しい身には、世話になるは気の毒だとは思ふが、しかし酒を買ふほどの余裕はなかつた。
(新字旧仮名) / 田山花袋(著)
徒らにただひしめいている間を、わが退屈男はいとも自若として押し進みながら、珠数屋の大尽の囚われ先はいずくぞと、ひたすらに探し求めました。
純粋経験の事実においては主客の対立なく、精神と物体との区別なく、心即物、物即心、ただ一個の現実あるのみである。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
から、あながちそればかりを怒ッた訳でもないが、ただ腹が立つ、まだ何かの事で、おそろしくお勢にあざむかれたような心地がして、訳もなく腹が立つ。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
どのようにしてどう飜訳ほんやくしてよいのか、「まことに艫舵ろだなき船の大海に乗出せしが如く、茫洋ぼうようとして寄るべなく、ただあきれにあきれて居たるまでなり」
パンドラの匣 (新字新仮名) / 太宰治(著)
翌朝よくちょうかれはげしき頭痛ずつうおぼえて、両耳りょうみみり、全身ぜんしんにはただならぬなやみかんじた。そうして昨日きのうけた出来事できごとおもしても、はずかしくもなんともかんぜぬ。
六号室 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
密閉主義の日比野の家でも、衛生にはことに神経質のおふみが、何かとこの青年に健康の相談をかけ、出入を許してゐるただ一人の親戚といふことが出来る。
蝙蝠 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
ちと人が悪いようなれども一切ただにて拝見したる報いは覿面てきめん、腹にわかに痛み出して一歩もあゆみ難くなれり。
半日ある記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
事実時代というものはただそれだけの浅薄愚劣なものでもあり、日本二千年の歴史をくつがえすこの戦争と敗北が果して人間の真実に何の関係があったであろうか。
白痴 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
「そんな料簡れうけんでなくわたし自分じぶんのがつたんですつていへば、そんでいゝやうに始末しまつしてやるだから」内儀かみさんがちからけてても勘次かんじただくびれてる。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
東金の寓舎にあっては「只道悪帰勝美遊」〔ただおもフ悪帰ハ美遊ニまさルト〕といい泉村を過ぎては「山風不管帰愁切。」〔山風管セズ帰愁切ナリ〕の語を洩した。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
ただで置いたら、みんな只でおかねばならなくなる。病院にはいるのに入院料がいる位の事は子供でも知つてることだ。それにお前はキリスト教信者ぢやないだらう。
こほろぎの死 (新字旧仮名) / 村山籌子(著)
一大事と申すは、今日、ただ今の心なり。それをおろそかにして、翌日あることなし。すべての人に遠きことを思えば、はかることあれど、『的面の今』を失うに心つかず
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
耳までさやを払った刀身の如く、鋭利になって、触るれば手応えあらんずるとき、幻は微小なる黒体となって、まりの如く独楽こまの如くに来た、この黒体がただ一つ動くために
奥常念岳の絶巓に立つ記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
向日葵ひまわり毎幹まいかん頂上ちょうじょうただ一花いっかあり、黄弁大心おうべんたいしんの形ばんごとく、太陽にしたがいて回転す、し日が東にのぼればすなわち花は東にむかう、日が天になかすればすなわち花ただちに上にむか
植物知識 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
『顔を見たり、声を聞いたりしなければ』妻が答えた、——『もしあなたがあれをこの家からただ外へやってさえ下されば——そうすれば憎しみを押える事ができましょう』
生霊 (新字新仮名) / 小泉八雲(著)
ただその活きた発散の源が現前して居ないので、無窮の供給が出来ぬ、随いて今老師の居間へ来て見ても、すこぶる物足りがせぬ。何だか寂しい、悲しい心持がして仕様がない。
一、余去年已来いらい心蹟百変、挙げて数え難し。就中なかんずく趙の貫高かんこうこいねがい、楚の屈平くっぺいを仰ぐ、諸知友の知る所なり。故に子遠が送別の句に「燕趙の多士一貫高、荊楚の深憂ただ屈平」
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
「今降りて来る女はやりましたよ」と、ただ之れ丈け云って自分の人指ゆびをかぎにして見せた。
乗合自動車 (新字新仮名) / 川田功(著)
馬鹿な真似まねをするものでないとしかり飛ばされて、余計なことをしなければよかつたと私も悔いたが、ただ併し、自分の書いたものが人に感動を与へ得るといふことに就いては
イボタの虫 (新字旧仮名) / 中戸川吉二(著)
電話はある銀行の重役をしている親類がいいかげんな口実こうじつを作ってただ持って行ってしまった。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)