あくた)” の例文
海口の方から市街の河すじへさして、夜明け雲の下を、無数のあくたを浮かべて汐臭しおくさい流れが、ひたひたと土手や石垣へ満ち初めていた。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
これすなわち僕の若返りの工夫くふうである。要するに脳髄のうずいのうちに折々大掃除おおそうじを行って、すすごみあくたえだ等をみな払うことをしたい。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
そこには、ゴロンと二つの生首が転がり、二人分の滅茶滅茶になった血みどろな躰が、二三間先きに、あくたのように、てられてあった。
鉄路 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
三太夫は胸へ込上げ、老人としよりのあせるほど、気ばかりいらちてものもいわれず、眼玉を据えて口をぱくぱく、あくたに酔うたるふなのごとし。
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
小草おぐさ数本すほんに、その一本を伝わってさかしま這降はいおりる蟻に、去年の枯草かれぐさのこれがかたみとも見えるあくた一摘ひとつまみほど——これが其時の眼中の小天地さ。
がふとその時彼は赤茶色のあくたの山のようなものを見出みいだして、その上にのしかかってみた。と思うまに激しいくさめの音が沈黙をやぶった。
秋も末に近く、瀬はほとんれてゐた。川上の紅葉が水のまにまに流れて来て、蛇籠じゃかごの籠目や、瀬のふちに厚いあくたとなつて老いさらばつてゐた。
(新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
縮れた竿の影や、崩れかけた煉瓦のさかさまに映っている泡の中で、あくたや藁屑が船のかいにひっかかったまま、じっと腐るようにとまっていた。
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)
藻の間をすくった叉手を、父がおかへほおりあげると、私は網の中から小蝦を拾った。藻とあくたに濡れたなかに、小さな灰色の蝦がピンピン跳ねている。
父の俤 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
周の穆王ぼくおうが美少年慈童じどうの、紅玉を薄紙で包んだような、玲瓏れいろうとした容貌を眺めた時、後室三千の美姫びき麗人れいじんが、あくたのように見えたということである。
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
住吉すみよし移奉うつしまつ佃島つくだじまも岸の姫松のすくなきに反橋そりばしのたゆみをかしからず宰府さいふあがたてまつる名のみにして染川そめかわの色に合羽かっぱほしわたし思河おもいかわのよるべにあくたうずむ。
しかし、目を一たびそとへ向ければ、現実の社会の動きはとうとうと流れる大河のように、ちりあくたものみこんだままゆきつく方向へと流れている。
妻の座 (新字新仮名) / 壺井栄(著)
渦巻の外側を流れるあくたの如く、ぐるぐる問題のまわりを廻ってばかりいて、仲々その中心にとび込んで行けないのだ。
虎狩 (新字新仮名) / 中島敦(著)
母の傍にいる自分などは、恐らく青年の眼には、ちりほどにも、あくたほどにも、感ぜられてはいまいと思うと、美奈子ははげしいさみしさで胸がみだされた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
むもの、野にむもの、しぎは四十八ひんと称しそろとかや、僕のも豈夫あにそ調てうあり、御坐ございます調てうあり、愚痴ぐちありのろけあり花ならば色々いろ/\あくたならば様々さま/″\
もゝはがき (新字旧仮名) / 斎藤緑雨(著)
何分にも押しの強い人間で、親兄弟などに遠慮などをする人間ではございません。その上武術が相當にいけるので、私などはあくたほどにも思つて居りません。
拾われようとさ、また一年たって、サン・クルーの川の中かシーニュの島かで、古い腐ったあくたかおぼれた犬の死骸しがいかの中で拾われようとさ、それが何だね。
作者部屋というのはどんな所か知らないが、他人ひとの子をあくたか紙屑のように心得て、片っ端から抛り込むのは何という言い草であろう。実に失敬極まる奴だと思った。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
春の水の美くしく流れているところを見ると、この水の水上みなかみあくたや小石などの間からいている水とは思えん、多分水上は柳の木のある辺から湧いているのであろう。
俳句はかく解しかく味う (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
着物のちりやあくたを打ちはらって、大工たちが彼に声をかけたのだ。無事にすんだ挨拶あいさつであった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
晴れた日が幾日いくにちも続いてかわいた春であつた。雪解時ゆきげどきにもかゝはらず清水は減つて、上田橋うへだばしたもとにある水量測定器の白く塗られた杭には、からびた冬のあくたがへばりついてゐた。
父の死 (新字旧仮名) / 久米正雄(著)
表には玉のごとく月のごとく、立派に紳士然たる顔を装っている人が、その心の中を探り見るに、土のごとくあくたのごとく、いたって不潔なる魂情が隠れていることが分かります。
おばけの正体 (新字新仮名) / 井上円了(著)
捨てられたあくたの中でもがき合っているだけなんだ。僕もつまり芥の中に掃き出された一人の犠牲者なんですよ。成程僕は誰よりも大村君とは親しいしどんなことでも相談し合って来た。
天馬 (新字新仮名) / 金史良(著)
我命にも換へて最愛いとをしみし人はあくたの如く我をにくめるよ。恨は彼の骨に徹し、いかりは彼の胸をつんざきて、ほとほと身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉をくらひて、この熱膓ねつちようさまさんとも思へり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
かゝ曲物くせものを置きたりとて何のさはりにもなるまじけれど、そのあくたある処に集り、穢物ゑぶつあるところに群がるの性あるを見ては、人間の往々之に類するもの多きを想ひ至りていさゝむね悪くなりたれば
秋窓雑記 (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
その塵取の中にはあくたがはひつて居る。実にこまかいものである。それで全体の筆数はといふと、極めて少いもので、二分間位に書けてしまひさうな画である。これらも凡手段の及ぶ所でない。
病牀六尺 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
二人はほとんど口をきかなかつた。やがて真夜中が来たとき、彼等は舟を流れの中ほどに出しおたがいの身体をしつかりと結び付けて舟を静かに倒した。ごく低い水音がして瀝青れきせいあくたの波が少し立つた。
水に沈むロメオとユリヤ (新字旧仮名) / 神西清(著)
川面の處々にがあツた。洲には枯葦が淋しく凋落の影をせてゐて、ごみあくたもどツさり流寄ツてゐた。其の芥を二三羽の鴉がつゝき𢌞し、影は霧にぼかされてぽーツと浮いたやうになツて見えた。
解剖室 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
その縁先きまで押しよせてきているくろい水や、その上に漂っているさまざまなあくたの間をすいすいと水を切りながら泳いでいる小さな魚や昆虫を一人で見ているうちに、ふと私の思いついたものは
幼年時代 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
川には水がまん/\とたたへて、その流れの早いことは、浮いてゐるちりあくたが矢を射るより早く流れ去るのを見ても分りました。おまけに、向ふ岸まで一たい何里あるか分らないほどの広さでした。
豆小僧の冒険 (新字旧仮名) / 宮原晃一郎(著)
雀やつばめ出産しゅっさんを気がまえて、新巣しんす経営けいえいせわしく、昨日も今日も書院しょいん戸袋とぶくろをつくるとて、チュッ/\チュッ/\やかましくさえずりながら、さま/″\のあくたをくわえ込む。はえがうるさい。がうるさい。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
引く力こばむちからもつかれはててあくたのごとくてられにしか
九条武子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
わが家やあくたながるる川下も美くしと見てりける君よ
舞姫 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
痛む乳を抱きしめた水干すいかんの舞姫は、沖へ向って声をからしていた。浪にただよう木片やあくたを見ては馳けて行った。しぶきを浴びて、走り狂った。
日本名婦伝:静御前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と云う内にも、襤褸切ぼろぎれや、うりの皮、ボオル箱の壊れたのはまだしもで、いやどうも、言おうようのないあくたが目に浮ぶ。
沼夫人 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
商店は残らず戸を閉め、宵のうちにぎやかな露店も今は道端にあくた紙屑かみくずを散らして立去った後、ふけ渡った阪道には屋台の飲食店がところどころに残っているばかり。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
大根のチリ鍋は、とっくに煮詰って、鍋底なべぞこは潮干の潟にあくたが残っているようである。台所へ出てみると、酒屋の小僧が届けたと見え、ビールが数本届いていた。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
岩、貝殻、石ッコロ、あくたや海草で一杯である。道人は跣足はだしで歩いて行く。ちっとも苦痛を感じないらしい。
任侠二刀流 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
森はひょろひょろと蹌踉よろめきながら後ずさりし、膿盆のうぼんのような海は時々ねたまし気な視線をギラリとなげかける。やがて、けちくさいまだらなあくたと化した地球は、だんだんに遠ざかって行く——。
夢鬼 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
彼女は多分その瓦斯燈の光りが消えて、参木の部屋の窓が開くまで動かぬだろう。彼女の見ている泥溝の上では、その間にも、泡の吹き出す黒いあくたが徐々に寄り合いながら一つの島を築いていた。
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)
浮びたるあくたの中に一筋の船のあとあるたそがれの川
註釈与謝野寛全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
劉封はもと螟蛉めいれいの子、山中の一城でも与えておかれればよいでしょう——と、まるであなたをあくたのようにしか視ていない復命をしたものです
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
というよりもあくたを永く溜めては置けない流水のように、新鮮で晴やかな顔が直ぐ後から生れ出て晴やかな顔つきになる。そしてもう別の店の前を掃くのであった。
みちのく (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
あるいはまた成功して虚栄の念に齷齪あくせくするよりも、溝川どぶがわを流れるあくたのような、無知放埒むちほうらつな生活を送っている方が、かえってその人には幸福であるのかも知れない。
ひかげの花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
岸へ岸へとつかうるよう。しまった、潮がとまったと、銑さんが驚いて言った。船べりは泡だらけ。うりの種、茄子なすの皮、わらの中へ木の葉がまじって、船も出なければあくたも流れず。
悪獣篇 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「いかにも自然で無理がない……あくたなどが引っかかると……」
剣侠 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
あくたに流れて寄れる月見草つきみさうしべなれ。
晶子詩篇全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
(死骸の儀なれば、万一の場合は鳥辺山へお捨て下さろうとも、加茂川へあくたと共にお流し下さろうとも、決して、おうらみには存じませぬ)
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一時いっときに枯れ死して、わざわざ、ふてくされに、汚いあくたのようなその姿をさらしているのであろう。
曇天 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
やや水嵩みずかさ増して、ささ濁りの流勢は河原の上を八千岐やちまたに分れ下へ落ちて行く、蛇籠じゃかごに阻まれる花あくたの渚の緑の色取りは昔に変りはないけれども、魚は少くなったかして、あさる子供の姿も見えない。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)