まばら)” の例文
斷崖の一隅にがんの形をなしたる低き岸あり。灌木まばらに生じて、深紅の花を開ける草之にまじれり。岸邊には一隻の帆船を繋げるを見る。
だんだん木がまばらになって、木床きどこ峠へ出る往来が近くなった。右手の前方に、桜島が、朗らかな初夏の空に、ゆるやかに煙をあげていた。
南国太平記 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
やがて寺の門の空には、ふさがった雲の間に、まばらな星影がちらつき出した。けれども甚太夫は塀に身を寄せて、執念しゅうねく兵衛を待ち続けた。
或敵打の話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
またいつか、人足もややこのあたりまばらになって、薬師の御堂の境内のみ、その中空も汗するばかり、油煙が低く、露店ほしみせ大傘おおがらかさを圧している。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
この木犀は可成かなりの古い幹で、細長い枝が四方へ延びていた。それを境に、まばらな竹の垣をめぐらして、三吉の家の庭が形ばかりに区別してある。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
そんな中に、はぜの樹のみは、晩秋から初冬にかけての日光を、自分ひとりで飲み飽きたかのやうに、まばらに残つた葉が真赤に酔ひほてつてゐる。
独楽園 (新字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
いと高き價を拂ひて武器を新にしたるクリストの軍隊が、旗のうしろより、遲く、ぢつゝ、まばらになりて進みゐしころ 三七—三九
神曲:03 天堂 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
下には張物板はりものいたのような細長い庭に、細い竹がまばらに生えてびた鉄灯籠かなどうろうが石の上に置いてあった。その石も竹も打水うちみずで皆しっとりれていた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
あるひは飲過ぎし年賀の帰来かへりなるべく、まばらに寄する獅子太鼓ししだいこ遠響とほひびきは、はや今日に尽きぬる三箇日さんがにちを惜むが如く、その哀切あはれさちひさはらわたたたれぬべし。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
外を見ると、窓のぢき前の、黒ぼけた屋根に張つた蜘蛛の巣に、まばらに溜る程の小雨が、絶え間もなくじめ/″\降り頻つた。
金魚 (旧字旧仮名) / 鈴木三重吉(著)
彼が、待ちあぐんでゐる裡に、聴衆は降り切つてしまつたと見え、下足の前に佇んでゐる人の数がだん/\まばらになつて来た。
真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
曲りくねってくうちに、小川こがわに掛けた板橋を渡って、田圃たんぼが半分町になり掛かって、掛流しの折のような新しい家のまばらに立っているあたりに出た。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
まばらに植えられた生垣越しにのぞき見ると、それは二階建の洋風造りで、あか抜けのした瀟洒しょうしゃな様子が、一寸ちょっと、鷺太郎に舌打ちさせるほどであった。
鱗粉 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
家並やなみも小さくまばらになって、どこの門ももう戸が閉っている。ドーと遠くから響いてくる音、始めは気にも留めなかったが、やがて海の音と分った。
世間師 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
頂上に近く立木がまばらになると笹が殊に深くなって、全く目隠しをされてしまった。開いているのは頭の上ばかりだ。漠然と空を見上げては足を運ぶ。
秋の鬼怒沼 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
蒸暑い夏のには、まばらな窓のすだれを越してこういう人たちの家庭の秘密をすっかり一目ひとめ見透みすかしてしまう事がありました。今でも多分変りはあるまい。
監獄署の裏 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
髷切りの噂におびえて、更けると人足もまばらになり、僅かに威勢の良い四つ手が、思い出したように宙を飛んで来ます。
人ようよう散じて後れ帰るものまばらなり。向うより勢いよく馳せ来る馬車の上に端坐せるは瀟洒しょうしゃたる白面の貴公子。
半日ある記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
黒々と日に焼けた角張った顔、重々しく太った鼻、頭の地にぴったり貼り付いた様に生えて居る細い縮れてまばらな髪、其等は皆蕙子に不吉な連想を起させた。
お久美さんと其の周囲 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
額が禿げあがった、この大兵たいひょうな老人は、まばらにはなったが丈夫そうな歯をき出して、元気よく宮内を待遇した。
討たせてやらぬ敵討 (新字新仮名) / 長谷川伸(著)
林を拓いて出来た新開地だけに、いずれも古くて三十年二十年前かぶを分けてもらった新家の部落で、粕谷中でも一番新しく、且人家がことまばらな方面である。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
雜木ざふきをからりとおとしてこずゑよりもはるかひくれて西にしそらあかるい入日いりひすかしてせるやうにまばらるのに、確乎しつかとしがみついてはなれない。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
暴風降雪の過ぎ去った跡でさえなお雪を持て来る雲か、ただしは暴風を追う雲かは知らぬが、まばらに飛んで居るその下にごく細かな雪が煙のようにんで居ます。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
そうして、奴国の宮を、吹かれた火の子のように八方へ飛び散ると、次第にまばらに拡りながら動揺どよめいた。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
頼家は悲劇の俳優やくしゃです。悲劇と仮面めん……私は希臘ギリシャの悲劇の神などを聯想しながら、ただ茫然ぼんやりと歩いて行くと、やがて塔の峰のふもとに出る。畑の間にはまばらに人家がある。
灰色になったまばらな口髭をいじった、「——クリスチァンであろうと、多神教徒であろうと、なにか一つ信仰をもっているということだけでいいんじゃあないのかね」
おごそかな渇き (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
鮮色樫がもっとまばらに生えていて、恰好かっこうも大きさももっと森林樹らしく見える部分へ入り込んでいた。
夜が明けかけて星のまばらになった空が眼についた。彼は刀を拾って田の畔へあがり小さな路へ出た。
八人みさきの話 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
彼はある怖ろしい予感に脅かされながら、まばらな木立を背景バックにした共同椅子の前へ出ると、コルトンが草の上へ俯せになってたおれていた。其辺にはまだ火薬の臭が漂っていた。
P丘の殺人事件 (新字新仮名) / 松本泰(著)
門に入るとまばらな竹垣から、内の心持の好い庭が透けて見えた。印判屋の教へてくれた銀杏樹は、家の屋根に隱れて繁つた梢のみがそこに見られた。また右の方には小さな木戸があつた。
少年の死 (旧字旧仮名) / 木下杢太郎(著)
屋根が低くて廣く見える街路には、西並の家の影がまばらな鋸の齒の樣に落ちて、處々に馬をはづした荷馬車が片寄せてある。鷄が幾群も、其下に出つ入りつ、こぼれた米を土埃の中に漁つてゐた。
鳥影 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
はだかった胸と、あらわになった両脚を吹く涼しい風を感じながら、遠く近くからまばらに聞こえて来るツクツク法師の声に耳を傾けていた。山中やまじゅうの静けさがヒシヒシと身にみ透るのを感じていた。
笑う唖女 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
この周囲には何方どちらを見てもけわしい高い山がつづいて、この広い野を取りかこんでいる。そしてところどころに家が一軒二軒見えるほかには、雪が白々と日に照らされていて、人の影もまばらである。
帰途 (新字新仮名) / 水野葉舟(著)
そうして、山榛やまはんの木、沢胡桃さわくるみなどが、悄然しょうぜんと、荒れ沢の中に散在している。栂、樅、唐檜とうひ、白樺などは、山のがけに多く、水辺には、川楊や、土俗、水ドロの木などが、まばらに、翠の髪をくしけずっている。
白峰山脈縦断記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
その内に一行はヴアロンカ川を渡つて、鴫打しぎうちの場所へ辿たどり着いた。其処そこは川から遠くない、雑木林がまばらになつた、湿気の多い草地だつた。
山鴫 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
やがて二階屋が建続き、町幅が糸のよう、月の光をひさしおおうて、両側の暗い軒に、掛行燈かけあんどんまばらに白く、枯柳に星が乱れて、壁のあおいのが処々。
歌行灯 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
彼が、待ちあぐんでいるうちに、聴衆は降り切ってしまったと見え、下足の前にたたずんでいる人の数がだん/\まばらになって来た。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
そこで長蔵さんにいて、横町を曲って行くと、一二丁行ったか行かないうちに町並が急にまばらになって、所々は田圃たんぼの片割れが細く透いて見える。
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
髷切りの噂におびえて、更けると人足もまばらになり、僅かに威勢の良い四つ手が、思ひ出したやうに宙を飛んで來ます。
荒模様であった空は、夜が明けると少しおだやかになって、風は強いが雨脚はまばらになった。七月二十四日の朝である。
そのまばらな枝と枝の間を通して、千村のふるい部屋の窓や、その下の方の珈琲店コーヒーてん暖簾のれんや、食事のたびに千村が通って来た町の道路などをよく見ることが出来た。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
昨日は人の波打ちしコルソオの大道には、往き交ふ人まばらにして、白衣にあゐ色の縁取りしをたる懲役人の一群、あられの如く散りぼひたる石膏のたまを掃き居たり。
並んだ隣の家の、同じ板塀を前にした小庭との堺には、開き戸の附いた、人の腰までしかないまばらな竹垣が劃されてゐるだけで、縁側から覗けば、向うの方も見え續く。
女の子 (旧字旧仮名) / 鈴木三重吉(著)
狭い道で、右側はまばらな竹垣、竹垣の彼方に相当な距離をおいて三階建の大きな木造屋がある。門に白十字と書いた札が出て居る。なる程これは悪くない場所だと思った。
その葦の枯葉が池の中心に向って次第にまばらになって、只枯蓮かれはす襤褸ぼろのような葉、海綿のようなぼう碁布きふせられ、葉や房の茎は、種々の高さに折れて、それが鋭角にそびえて
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
見る見る老女のいかりは激して、形相ぎようそう漸くおどろおどろしく、物怪もののけなどのいたるやうに、一挙一動も全くその人ならず、足を踏鳴し踏鳴し、白歯のまばらなるをきばの如くあらはして
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
坂をおりきった林の中に農家があり、老人夫婦が白菜畑へくわを入れていた。老人はあかだらけのまばらな茫髪に、継ぎはぎだらけの布子ぬのこ股引ももひきをはき、老婆はくの字なりに腰が曲っていた。
おごそかな渇き (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
間もなく高台を通り過ぎ、矮生の松がまばらにちらほらと生えている低い砂地のそばをどんどん進み、やがてそこもまた通り越して、島の北の端をなしている岩山の角を𢌞ってしまった。
そこは栃木県の某温泉場で、下にはみきったK川の流れがあって、対岸にそそりたった山やまの緑をひたしていた。まつすぎならなどのまばらに生えた林の中には、落ちかかった斜陽ゆうひかすかな光を投げていた。
藤の瓔珞 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
日本一の大原野の一角、木立の中の家まばらに、幅広き街路に草えて、牛が啼く、馬が走る、自然も人間もどことなく鷹揚おうようでゆったりして、道をゆくにも内地の都会風なせせこましい歩きぶりをしない。
初めて見たる小樽 (新字新仮名) / 石川啄木(著)