こび)” の例文
「ぢやアぼくは帰るよ。もう………。」とふばかりで長吉ちやうきち矢張やは立止たちどまつてゐる。そのそでをおいとは軽くつかまへてたちまこびるやうに寄添よりそ
すみだ川 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
あたかもらんまんたる桜の枝が水面みなもに映っているような、ほんのりと桜色に色づいた顔に、そよ吹く春風をあしらうようなこびを見せ
つくろわねどもおのずからなるももこびは、浴後の色にひとしおのえんを増して、おくれ毛の雪暖かきほおに掛かれるも得ならずなまめきたり。
書記官 (新字新仮名) / 川上眉山(著)
男は小柄な躯つきで、それが女のようにしなしなしてい、気取ったこびのある身ぶりで、おそのの塵除ちりよ合羽がっぱを脱がしてやっていた。
五瓣の椿 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
身綺麗みぎれいにはしていても髪容かみかたちかまわない。それなのにあの円顔の目と口とには、複製図で見た Monnaモンナ Lisaリイザこびがある。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「なりますわ。いつまでも、屹度きっと……」と、引寄せられたまま、抱擁の力を求めるようにこびの謚るる目をあげて男の顔を見上げました。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
男のくせに、非凡のこびです。聲は顏容かほかたちに似ぬバリトーンで、少し太く錆びて居りますが、それが又快く異性などに響くのでせう。
(頼家はあごにて示せば、かつら心得て仮面を箱に納め、すこしくこびを含みて頼家にささぐ。頼家はさらにその顔をじっと視る。)
修禅寺物語 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
こびるやうな、なぶるやうな、そしてなにかにあこがれてゐるやうな其の眼……私は少女せうぢよの其の眼容まなざし壓付おしつけられて、我にもなく下を向いて了つた。
虚弱 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
窓からは湖水を渡って、柔かい、人にこびるような空気が吹き入れる。その空気は世界のあらゆる不幸をまるで知らないような空気である。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
捲毛の泡立つ頭をちょいとかしげて、言葉をにごした女主人は、あとはお察しにまかせる、という風に、こびのある眼まぜをした。
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
「お前はよくそんな事まで覚えてゐるね。」——夫にかう調戯からかはれると、信子はかならず無言の儘、眼にだけこびのある返事を見せた。
(新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
子供のうちから新舞踊ぶようを習わせられ、レヴュウ・ガールとも近附ちかづきのある小初は、こびというねたねたしたものを近代的な軽快な魅力に飜訳ほんやく
渾沌未分 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
そう言って若い女は、こびを含んだ視線をチラッと大月へ投げると、秋田には見向きもしないで、到頭その儘出て行って了った。
花束の虫 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
流眄、すなわち流し目とは、ひとみの運動によって、こびを異性にむかって流しることである。その様態化としては、横目、上目うわめ伏目ふしめがある。
「いき」の構造 (新字新仮名) / 九鬼周造(著)
鶴見が離れようとすればするほどまとわりついてくる女の執拗さにあきれて、女のこびには応諾おうだくも与えずに、押黙って本を見ていた。
この時貫一は始めて満枝のおもてまなこを移せり。ももこびを含みてみむかへし彼のまなじりは、いまだ言はずして既にその言はんとせるなかばをば語尽かたりつくしたるべし。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
早熟な彼女は、身体こそ少年の様にしなやかであったが、睫毛の長い二かわの目には、已に大人のこびうるおいをたたえていた。
江川蘭子 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
というのは、そのだぼはぜ嬢が、愈々いよいよひとみこびをたたえて、「けっして、助平とは思わないでね」とウインクをするのです。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
さう云つて、嫣然えんぜんと笑ひながら、青年の顔を覗き込む瑠璃子夫人の顔には、女王のやうな威厳と娼婦のやうなこびとが、二つながら交つてゐた。
真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
特に相手が、嘘をつくことの平気な、こびを以て男に対しようとするような女である場合に、その事実は明らかであった。
自己の肯定と否定と (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
人を悩殺するこびがある。すべて盛りの短い生物いきものには、生活に対する飢渇があるものだが、それをドリスは強く感じている。
覚えたばかりのようなこびのある目を向けて、恥かしそうに平七の顔を見あげると、また恥かしそうにお雪は顔を伏せた。
山県有朋の靴 (新字新仮名) / 佐々木味津三(著)
美貌に眼をつけた上級生が無気味なこびで近寄ってくると、かえってその愛情にむくいる方法を知らぬ奇妙な困惑こんわくおちいった。
(新字新仮名) / 織田作之助(著)
ものして婦女童幼ふじょどうようこびんとする世の浅劣せんれつなる操觚者流そうこしゃりゅうは此の灯籠の文をよみて圓朝おじはじざらめやはいさゝか感ぜし所をのべて序をわるゝまゝ記して与えつ
怪談牡丹灯籠:01 序 (新字新仮名) / 坪内逍遥(著)
自分はお兼さんの愛嬌あいきょうのうちに、どことなく黒人くろうとらしいこびを認めて、急に返事の調子を狂わせた。お兼さんは素知そしらぬ風をして岡田に話しかけた。——
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
酒とこびの附属する料理店で、お客であって株主でもある人たちは、一番やすく遊んで食べて、利益も得ている、その株主の一人で柳原さんもあったのだ。
柳原燁子(白蓮) (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
藥指は此家このやの娘、身輕な小意氣なヅエルビイヌ、奧樣がたへは笹縁さゝべりのれいすも賣るが、殿御にこびは賣り申さぬ。
五本の指 (旧字旧仮名) / ルイ・ベルトラン(著)
余は到つて臆病なりしかばかかる時は常に両人中余の尤もおそるる方に附きしたがひてこびを献じてその機嫌を取れり。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
「あらそう、それは残念ね」彼女はこびるように笑いかけたが、「それではお別れにしましょうか。ごめんなさいよ。左様なら……さあ私達は参りましょう」
人間製造 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
だからめたん子は町の片側を歩いてゆき、溝板があればその溝板づたひに行くのである。それだけでも、仲間を恐れることを仲間に知らせたい、こびであつた。
めたん子伝 (旧字旧仮名) / 室生犀星(著)
で、すべらしたしろを、若旦那わかだんなむねにあてて、うですやうにして、すゞしじつる。こびつたらない。妖艷無比えうえんむひで、なほ婦人ふじんいてる。
みつ柏 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
肩をそびやかしてへつらい笑い、巧言令色、太鼓持ちのこびを献ずるがごとくするはもとより厭うべしといえども、苦虫を噛み潰して熊のをすすりたるがごとく
学問のすすめ (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
二十歳はたちから呑んだらえゝ、十七ではまだ早い。」と、お駒は圓い眼にこびたゝへて嘲弄からかふやうに言つた。
天満宮 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
とおるような皮膚をしたしなやかな彼女の手、赤い花片に似た薄い受けくちびる、黒ダイヤのような美しい目と長い睫毛まつげ、それにほおから口元へかけての曲線の悩ましいこび
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
幕がくと登場時間を待つ俳優がモリエエル夫人を取巻いて居る。いろんな諸侯が楽屋へ来て美しい夫人にこびを呈してく。七十近い老文豪コルネエユ迄が出て来る。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
そして、しょうことなく、だらしなく読者にこびを呈して、嘘をとりまぜた考えが虚空に消えてゆく。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
とニッコリ白い歯を見せた未亡人の眼に含まれたこび……それをどうしても飲まぬと云い張った時、飲まされた「酔いざまし」の水薬の冷たくてお美味しかったこと……。
あやかしの鼓 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
名「いえ中々一国いっこくもので、少しも人にこびる念がありませんから、今日こんにちすぐと申す訳には参りません」
菊模様皿山奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
彼はこびを含んだ美しい眼で微笑ほほえみ、つとめて悔悟の様子を装い、他のことを考え、首肯し、感謝し、そしてしまいにはいつも、兄のどちらかから金をしぼり取っていた。
我が夫人に於けるも亦これに似たるなるべし。さきの事ありしより、我が夫人を見る目は昔に同じからで、そのゆたかなる肌、こびある振舞の胸騷むなさわぎの種となりそめしぞうたてき。
と夫人はこびを含んだ目つきを良人に浴せかけた。三十を越しても努力すれば多少の色気は出る。
或良人の惨敗 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
芝居に出て来るような、すこぶる概念的な百姓風俗である。贋物に違いない。極めて悪質の押売りである。その態度、音声に、おろかなこびさえ感ぜられ、実に胸くそが悪かった。
善蔵を思う (新字新仮名) / 太宰治(著)
藤沢は、岡本吾亮の不機嫌な顔にこび笑いをむけながらこう言って、その場を逃げたのだった。
熊の出る開墾地 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
戯れに棒振りあげて彼の頭上にかざせば、笑うごとき面持おももちしてゆるやかに歩みを運ぶさまは主人に叱られし犬の尾振りつつ逃ぐるに似て異なり、彼はけっしてこびを人にささげず。
源おじ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
われわれが「価値」にこびを送る間は、われわれは「表現」に跪拝きはいしなければならぬだろう。
二十歳のエチュード (新字新仮名) / 原口統三(著)
こびをささげて足元にまつわるを眼もて制し。小腰をかがめてそがかしらをかいなでつつ聞けば。
藪の鶯 (新字新仮名) / 三宅花圃(著)
思出し笑いに、凄味すごみというようなものが加わって、その眼の中にいっぱいのこびが流れる。
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
一段のこびを含んだような牝馬の声が復た聞える。源の馬は夢中になって嘶きかわした。
藁草履 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
あれらの心は幾様いくようにも働くことができるようにできている。自分に対すると同じようなこびと笑いとなさけとをすぐ隣の室で他の男に与えているのだ。忘れても行かん。忘れても行かん。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)