沈鬱ちんうつ)” の例文
午前中、彼女は沈鬱ちんうつで、あまり口もきかず、何か距離に関するらしい計算を小声でつぶやきながら、敷布に折り目をつけたりしていた。
そう明は沈鬱ちんうつな顔つきで考え続けながら、冬らしい日差しのちらちらしている構内を少し背をこごめ気味にして歩いて行った。
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
鴎座かもめざの時には、ただもうわくわくして、空騒からさわぎをしたものだが、こんどは、もう冗談ではない。沈鬱ちんうつな気さえするのである。
正義と微笑 (新字新仮名) / 太宰治(著)
そんな時には常蒼つねあおい顔にくれないちょうして来て、別人のように能弁になる。それが過ぎると反動が来て、沈鬱ちんうつになって頭をれ手をこまねいて黙っている。
護持院原の敵討 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
悲惨なお柳の死状しにざまが、さまざまに想像された。おそろしい沈鬱ちんうつに陥ってしまった発狂者は、不断は兄やあによめなどとめったに口を利くこともなかった。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
秋の夕暮のもりの景色や、冬枯ふゆがれ野辺の景色や、なんでも沈鬱ちんうつな景色が幻のように見えるかと思うとたちまち消えてしまう。
ひたいほおもがつしりしてゐて、熱情家らしい黒目勝ちの大きい眼が絶えずふるへてゐるやうに見えた。沈鬱ちんうつ焦躁しょうそうが、ときどきこの少年に目立つて見えた。
蝙蝠 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
かれの沈鬱ちんうつはそこにある。また、わしの見解があやまったにしろ、ひとりや二人の人物を助けたとて、大勢たいせいの上にどれほどな違いを来たすものじゃない。
鳴門秘帖:06 鳴門の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
お種の写真顔は、沈鬱ちんうつな、厳粛な忠寛の容貌おもばせをそのまま見るようにれた。三吉の眼にも、木曾で毎日一緒に居た姉の笑顔を見るような気がしなかった。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
もう一人ねずみ色の地味な服を着た色の白い鼻の高い若い女は沈鬱ちんうつな顔をしてマンドリンをかき鳴らしている。
旅日記から (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
たまに向うから話し掛けられでもすると、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は沈鬱ちんうつでした。鉛をんだように重苦しくなる事が時々ありました。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
かれ什麽どんなをしんでもかますなかつてくのをふせぐことは出來できない。しか寡言むくちかれいたづらに自分じぶんひとりみしめて、えずたゞ憔悴せうすゐしつゝ沈鬱ちんうつ状態じやうたい持續ぢぞくした。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
しかし、フィリップの悲しみは、仲間の一匹の苦しむ様子をそばで見ている動物のそれのように沈鬱ちんうつである。
博物誌 (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
界隈かいわい景色けしきがそんなに沈鬱ちんうつで、濕々じめ/\としてるにしたがうて、ものもまた高聲たかごゑではものをいはない。歩行あるくにも内端うちわで、俯向うつむがちで、豆腐屋とうふやも、八百屋やほやだまつてとほる。
三尺角 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
その揺めく炎は、消えかかった蒼白あおじろい明るみとぶつかって、室の重々しい薄闇うすやみをいっそう沈鬱ちんうつになしていた。メルキオルが窓のそばにすわって、声をたてて泣いていた。
精神の異常な昂揚と、異常な沈鬱ちんうつとが、交互に訪れる。それもひどい時は一日に数回繰返して。
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
弟はそういうと沈鬱ちんうつな顔貌で微笑って見せた。姉はその顔を何時ものように不思議そうにながめ、なぜか身内に冷たい汗のようなものを感じた。しかし不快な気もちではなかった。
童話 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
何の不思議もないことでしたが、しかし通りすぎていった人の顔に、通りすぎていった馬の蹄に、犬にも駕籠にも沈鬱ちんうつと言うか、緊張と言うか、言いがたい重苦しさが見えるのです。
私にはおかみさんのかおかたちがいちばんはっきり思い出される。貸座敷の新造しんぞうによく見かけるタイプの人であった。弟の人は痩形やせがたの色の黒い、どことなく沈鬱ちんうつな感じの人であった。
生い立ちの記 (新字新仮名) / 小山清(著)
食事のときも、集っている将校たちのどの顔も沈鬱ちんうつな表情だったが、栖方だけ一人きとし笑顔で、ひじを高くビールのびんを梶のコップに傾けた。フライやサラダの皿が出たとき
微笑 (新字新仮名) / 横光利一(著)
そのうしろを、黒鉛のような夕暮の色が沈鬱ちんうつにし、金色の射る矢の光が荘厳そうごんにする。
大菩薩峠:25 みちりやの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
話を聽くうちに、平次は次第に沈鬱ちんうつになつて、深々と考へ込んでしまつたのです。
あなたと別れてから、私は急に淋しくなり、沈鬱ちんうつな気分におそわれ、とりとめもないメランコリーに身をまかせてしまいました。私がたよりをしなかったのはそのためでした。赦して下さい。
青春の息の痕 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
……ぼくはまるで詰所での最初の一日のような暗澹あんたんとした気分のまま、それからだれとも口をきかず沈鬱ちんうつに二時間ほどを過すと、思いついて、久しぶりに硬いゴムの冷たいボールを手にして
煙突 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
「いや、ぼくには別に考えがある。次郎は国を出てから急に沈鬱ちんうつになって、しじゅうなにか考えこんでいるのはどうもへんだと思う、このばあいぼくはかれにそのことをたずねてみたいと思う」
少年連盟 (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
平生へいぜい多弁たべんの老人はかえって顔に不安ふあん沈鬱ちんうつのくもりを宿やどし、あいさつもものういさまである。その気違きちがいというはこの老人ろうじん前妻ぜんさいなのだ。長女おまさが十二のときにまったくの精神病せいしんびょうとなったのである。
告げ人 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
ちゝこんぜざる濃茶のうちやよろこび、みづらざる精酒せいしゆみ、沈鬱ちんうつにして敢爲かんいかた國立こくりつ宗教しゆうきようし、ふか祖先そせんげふおもんず、工業こうげうはなはさかんならざるがゆゑ中等社界ちうとうしやくわいそんするところおほくは粗朴そぼくなる農民のうみんにして
罪と罰(内田不知庵訳) (旧字旧仮名) / 北村透谷(著)
宮内は沈鬱ちんうつな顔つきで、世間話を口重そうに語り出した。
討たせてやらぬ敵討 (新字新仮名) / 長谷川伸(著)
幸福中にもまた満足中にも人をして沈鬱ちんうつに後方をふり返り見させる記憶の纒綿てんめんから、彼が免れていたと思ってはいけない。
私はその沈鬱ちんうつな声がいつまでも忘れられない。晩方ばんがたの寒い天気に、男の鼻息が白く凍って見えた。私も母の真似をして頭を下げてその前を通ったのである。
北の冬 (新字新仮名) / 小川未明(著)
暑中に冷蔵庫へ這入はいった時の感じは、あれは正当なる涼しさとは少しちがう。あれは無意味なる沈鬱ちんうつである。
けれどその後はすぐ——当面の問題と沈鬱ちんうつの色に返った。貞昌はさっきからじっと自分の前に平伏している強右衛門すねえもんに向って、初めて力づよく、こういった。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
けれど、主人一平氏は家庭において、平常、大方おおかた無口で、沈鬱ちんうつな顔をして居ます。この沈鬱は氏が生来せいらい持つ現世に対する虚無思想からだ、と氏はいつも申します。
界隈かいわいの景色がそんなに沈鬱ちんうつで、湿々じめじめとして居るにしたごうて、住む者もまた高声たかごえではものをいわない。歩行あるくにも内端うちわで、俯向うつむがちで、豆腐屋も、八百屋やおやも黙って通る。
三尺角 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
急に三吉は沈鬱ちんうつな心の底から浮び上ったように笑った。正太と一緒に坐って、兜町かぶとちょうの方のうわさを始めた。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
ちろちろと鐵瓶てつびんしりからえのぼる周圍しうゐやみつゝまれながらやつれた卯平うへいかほにほのあかるいひかりへた。かれいきほひないほのほまへつぶつたまゝたゞ沈鬱ちんうつ状態じやうたいたもつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
そんな事を聞いて、七月から又前とは少しも変らない沈鬱ちんうつそうな様子で建築事務所に通っていた都築明が、築地のその病院へ見舞に行ったのは、九月も末近い或日だった。
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
時にはいくら飲んでもこうした仮装状態にさえはいり込めないでむやみに沈んで行く場合も出て来ます。その上技巧で愉快を買ったあとには、きっと沈鬱ちんうつな反動があるのです。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
敗れた埃及軍を追うて、いにしえ白壁しらかべの都メムフィスに入城した時、パリスカスの沈鬱ちんうつな興奮はさらに著しくなった。癲癇てんかん病者の発作ほっさ直前の様子を思わせることもしばしばである。
木乃伊 (新字新仮名) / 中島敦(著)
彼はその眼を忘れることができなかった。その奥底に眠ってる沈鬱ちんうつな魂を今や知りながらも、彼はなお見たいと思うとおりに、最初見たとおりに、その眼を見つづけていた。
僕の顔は、ただのっぺりと白くて、それにほっぺたが赤くて、少しも沈鬱ちんうつなところがない。頬ぺたをひるに吸わせると、頬の赤みが取れるそうだが、気味が悪くて、決行する勇気は無い。
正義と微笑 (新字新仮名) / 太宰治(著)
今実際にみたような沈鬱ちんうつな人物であろうとは、決して思っていなかった。
百物語 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「なに、それならまだ諦めようもございますが……」と、長屋の人々は、沈鬱ちんうつに、ひとしく首を垂れて
治郎吉格子 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
これを、花やかに美しい、たとえばおとぎ話の王女のようなベコニアと並べて見た時には、ちょうど重々しく沈鬱ちんうつなしかも若く美しい公子でも見るような気がした。
病室の花 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
窃盗品でいっぱいになってる背嚢はいのうを背に負い、決然たるしかも沈鬱ちんうつなる顔をし、のろうべきたくらみに満ちてる思念をいだいて、そこに彼の前に立っていたのである。
戦時の空気はそれほど濃い沈鬱ちんうつなものと成って来ていた。岸本は水を打ったようにシーンとしたこの町の光景を自分の部屋から眺めて、数月前よりはかえって一層胸を打たれた。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
それは、アバディーン地方特有の東北風が連日、雨とひょうとを伴って吹荒ふきすさ沈鬱ちんうつな八月であった。スティヴンスンの身体は例によって悪かった。或日エドモンド・ゴスが訪ねて来た。
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
ジョルジュのほうでは気にも止めなかったが、彼女はかくて沈鬱ちんうつな惨めな年を送った。
湿気を含んだ空気は、沈鬱ちんうつ四辺あたりを落着かせた。高くひいでた木の枝が、風にたわんで、伏しては、また起き上り、また打ち伏していた。他の低い木の枝は、右に泳ぎ、左に返っていた。
森の暗き夜 (新字新仮名) / 小川未明(著)
暗澹あんたん沈鬱ちんうつ。われ山にむかいて目をあぐ。わが扶助たすけはいずこよりきたるや。
正義と微笑 (新字新仮名) / 太宰治(著)