退)” の例文
今一人の柄本家の被官ひかん天草平九郎というものは、主の退くちを守って、半弓をもって目にかかる敵を射ていたが、その場で討死した。
阿部一族 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
いくら聞かれても曖昧あいまいな返事ばかりしていて、最後に退きならないところまで来てしまってから、強情を張り出した点であった。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
と、寧子ねねを想うそばから、その寧子ねねの恋を、自分へ譲って、国外へ退いた純情一徹な友の身の上をも、彼はしきりと案じていた。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ふところ手のまま立って、じっとお蓮さまを見おろしながら、退けっ! というこころ……懐中でひじを振れば、片袖がユサユサとゆれる。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
若者は妄想を退けようとしたが、それからそれへ花やかな雲のやうな繰言がむく/\とわきあがつて来て、おさへきれさうもなかつた。
パンアテナイア祭の夢 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
その方がその当時、一葉女史を退けては花圃かほ女史と並び、薄氷うすらい女史より名高く認められていた、楠緒くすお女史とは思いもよりませんでした。
大塚楠緒子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
どんな事でもして退けようという肌合の佐良井とは、結婚後一ヶ月経たない内に、到底並び立ちそうもないことが判ってしまいました。
死の舞踏 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
「どいておくれ。」と、おとこは、ぶあいそうにいった。少年しょうねんは、一退いて、ほそくして、雲切くもぎれのしたあきそらあおいでいました。
火を点ず (新字新仮名) / 小川未明(著)
その異形いぎょうの怪物はおどろく夫婦を退けて、風のように表のかたへ立ち去ってしまったので、かれらはいよいよおびやかされた。
女は上唇うわくちびる下唇したくちびるとを堅く結んで、しばらく男の様子を見ていたが、その額を押さえている手を引き退けて、隠していた顔をのぞき込んだ。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
その解らない物を教えた時に丁度速水君が生徒だったから、偉くない偉くないという考えが何時いつまでも退かないのかも知れません。
模倣と独立 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
と恐ろしい悲鳴をあげてとび退いた。お杉の腕からごろりと転げ落ちたのは諸君御存じの木彫り人形である。若旦那でもなんでもない。
と一言のもとに笑って退けたが、小宮山はこの女何を言うのかしらと、かえって眉毛につばを附けたのでありまする、女は極く生真面目で
湯女の魂 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
宮は上着を源氏の手にとめて、御自身は外のほうへお退きになろうとしたが、宮のおぐしはお召し物とともに男の手がおさえていた。
源氏物語:10 榊 (新字新仮名) / 紫式部(著)
それからもう一つは、そう云う離業はなれわざって退けられる膂力りょりょくと習練を備えた人物が、現在この事件の登場人物のうちにあるからだ。
聖アレキセイ寺院の惨劇 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
そうしてその看護婦がグッタリと仰向けに引っくり返ったなりに動かなくなると、その綿を鼻の上に置いたままソロソロと離れ退いた。
一足お先に (新字新仮名) / 夢野久作(著)
この退ぴきならないものへ落付きどころを置き、その上での生きてるうちが花という気持で、せいぜい好きなことに殉じて行ったなら
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
で、続いて中へ入って、持って来た座布団を机の前に敷いて、其処を退くと、雪江さんは礼を言いながら、入替いりかわって机の前に坐って
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
退きなく手術を受けさせる妙案です。私は次男へ電報を打ってやりました。『俺が手術をしてやる。明日立つ』とはうです?」
親鳥子鳥 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
と三人出たから見物は段々あと退さがる、抜刀ぬきみではどんな人でも退る、豆蔵が水をくのとは違う、おっかないからはら/\と人が退きます。
真景累ヶ淵 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
友木の眼には涙がにじみ出た。彼はそれを払い退けるように、眼をつむって頭を振ったが、彼の握りしめたこぶしは興奮の為にブルブル顫えた。
罠に掛った人 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
康雄はこれだけのことをすらすらと言って退けた。彼は女の姿を見れば見るほど、いじらしさが増して、恋の心が募って行った。
好色破邪顕正 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
仮令たとい叔父様が何と云わりょうが下世話にも云う乗りかゝった船、此儘このまま左様ならと指をくわえて退くはなんぼ上方産かみがたうまれ胆玉きもだまなしでも仕憎しにくい事
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
が、いよいよ帰るとなっても、野次馬やじうまは容易に退くもんじゃない。お蓮もまたどうかすると、弥勒寺橋みろくじばしの方へ引っ返そうとする。
奇怪な再会 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
「あゝよして呉れ!」父ははら退けるように云った。「そんな事は聞きたくない。馬鹿ばかな! 画描きなどが、画を描くことなどが、……」
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
いずれも握飯むすび鰹節かつおぶしなぞを持って、山へ林へと逃げ惑うた。半蔵の家でもお民は子供や下女を連れて裏の隠居所まで立ち退いた。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「なにいうてんのや。わたしがもどったとて、らぬものが、あろうはずがあるかいな。——こうしてはいられぬのじゃ。そこ退きやいの」
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
「こやつ、わしを老人と見て侮っておるな! ようし! それならば消えて失くなるようにお禁厭まじないしてやるわ。そこ退くなッ」
樂音は、遠退くに從つてだんだんに柔かく、空に漂ふやうに聞きなされ、あたりの靜寂と月の光とに調和するやうに思はれた。
とても宥めたくらいでは累の怨霊おんりょう退かないと云うので、祈祷者きとうしゃを呼んで来て仁王法華心経におうほっけしんきょうを読ました。お菊はそれをさえぎった。
累物語 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
明子は幼児の幻影を払ひ退けようとして幾度も手のひらをまぶたに斜めの空間に振つた。しかし彼女の手は空しく冷え冷えした秋の風を切つた。
青いポアン (新字旧仮名) / 神西清(著)
人々は少し退いたが、元いた場所へはもどらなかった、そのうちに問われた男は気を落着かせ、ちょっと微笑ほほえみさえもらしながら、答えた。
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
これが役付きの与力なら、押してきくことは出来るのであるが、今は役を退いた平八であった。どうすることも出来なかった。
名人地獄 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
辟易たじろぐ拍子に、ズドンと一発! 夫人の銃弾が背後うしろの扉にそれて、濛々と白煙が立ち込める。床にころがった拳銃ピストルを、素早くくつで払い退ける。
グリュックスブルグ王室異聞 (新字新仮名) / 橘外男(著)
青年わかものは言葉なく縁先に腰かけ、ややありて、明日あすは今の住家すみかを立ち退くことに定めぬと青年は翁が問いには答えず、微笑ほほえみてその顔を守りぬ。
わかれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
己は自分の事を末流ばつりゅうだとあきらめてはいるが、それでも少し侮辱せられたような気がした。そこで会釈をして、その場を退いた。
冬の王 (新字新仮名) / ハンス・ランド(著)
さながら蠅取り紙に足を取られた銀蠅の、藻掻もがけば藻掻くほど深みに引き込まるる、退くも引くも意に任せず、ここに全く進退きわまった様子。
子供はそれを見ると、一種の嫉妬しつとでも感じたやうに気狂ひじみた暴れ方をして彼の顔を手でかきむしりながら押し退けた。
An Incident (新字旧仮名) / 有島武郎(著)
市中の電車に乗って行先ゆくさきを急ごうというには乗換場のりかえばすぎたびごとに見得みえ体裁ていさいもかまわず人を突き退我武者羅がむしゃらに飛乗る蛮勇ばんゆうがなくてはならぬ。
博士は無言で直ぐにその側へ寄添うと、屈み込んで白布をとり退けた。そして屍骸の右足をグッと持ちあげると、宇吉へ
三狂人 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
アアしょうはただ自分の都合によりて、先祖代々師と仰がれし旧家をば一朝その郷関より立ち退かしめすみも慣れざる東の空にさまよわしめたるなり。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
黎明来ると共に暗黒の悪者どもはたちまち姿を消す、そのさまあたかも絨毯じゅうたんの四隅を取らえてこれよりちりを払い退けるが如くであるというのである。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
すると鹿毛は、いよいよ山へ行けるのかと言うように、飼葉桶を首ではね退け、片肢でかっ、かっと地面を蹴り出した。
荒蕪地 (新字新仮名) / 犬田卯(著)
急に兄の家から立ち退かなければならなくなったりした時に、あまりみじめな思いなどせずにすむように、郵便局にあずけて置いたものであった。
親という二字 (新字新仮名) / 太宰治(著)
あゝ浮世うきよはつらいものだね、何事なにごとあけすけにふて退けること出來できぬからとて、おくらはつく/″\まゝならぬをいたみぬ。
うつせみ (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
取り残された鶴見は、景彦に大きなつばさがあって、そのひと羽ばたきではら退けられるような強い衝撃を受けたのである。
彼は、直覚的に、夜廻り役人から、御用の声をあびせかけられている当人は、いまここを退いたばかりの、あの若者であるに相違ないと思うのだ。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
するとお宮は、「おうこわい人‼」と、呆れたようにいって蒲団の端の方に身を退いて、背後うしろじ向いて私の方を見た。
うつり香 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
彼等かれらあめわらみのけて左手ひだりてつたなへすこしづつつて後退あとずさりにふかどろから股引もゝひきあし退く。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
はっきりした言葉でそれをすぱりと云って退ければ、世界中の学者は一度に溜飲りゅういんが下がったような気がするであろう。
スパーク (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)