陰鬱いんうつ)” の例文
それは雪国の旧家というものが特別陰鬱いんうつな建築で、どの部屋も薄暗く、部屋と部屋の区劃くかくが不明確で、迷園の如く陰気でだだっ広く
石の思い (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
この道を奥の方へと荷馬車の通うのにも出逢であったが、人里がありそうにも思えない荒寥こうりょうたる感じで、陰鬱いんうつな樹木の姿も粗野であった。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
敬太郎は婦人の着る着物の色や縞柄しまがらについて、何をいう権利もたない男だが、若い女ならこの陰鬱いんうつ師走しわすの空気をね返すように
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
陰鬱いんうつな事件です、人心が溷濁こんだくし、血で『一掃する』という文句が到るところに引用され、全生活が安逸コムフォートを旨とする現代のでき事です。
もうきたなくなって、だれにも顧みられず、いやな姿で傲然ごうぜんと控えていて、市民の目には醜く、思索家の目には陰鬱いんうつに見えていた。
土台柱は、みんな白蟻がったように腐っていた。建ってから一世紀以上は経っている——じわじわした陰鬱いんうつな闇が顔をつつむ。
銀河まつり (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ベートーヴェンをほめるのに、その作品には悪ふざけや淫蕩いんとうな肉感があると言っていた。陰鬱いんうつな思想中にもみやびな饒舌じょうぜつを見出していた。
S村は四方を山にとざされ、ほとん段畑だんばたけばかりで暮しを立てている様な、さびしい寒村であったが、その陰鬱いんうつな空気が、探偵小説家を喜ばせた。
(新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
「いや保養と云う訳ではありませんが、どうも頭がわるくって。」と云いながら、青年の表情は暗い陰鬱いんうつな調子を帯びていた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
なみなみなみは、一めん陰鬱いんうつに、三かくつて、おなじやうにうごいて、うろこのざわ/\とさまに、蠑螈ゐもりむらがさまに、寂然せきぜんはてしなくながながるゝ。
十和田湖 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
父祖は、ずっと東方のバクトリヤ辺から来たものらしく、いつまでたっても都のふうになじまぬすこぶる陰鬱いんうつ田舎者いなかものである。
木乃伊 (新字新仮名) / 中島敦(著)
ただでさえ陰鬱いんうつきわまるこの隠れ家のうちに、腐るような雨の音を聞いて竜之助は、仰向けに寝ころんでいるのであります。
大菩薩峠:17 黒業白業の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
この不幸な世の中を、ただいっそう陰鬱いんうつにするだけの事だ。他人を責めるひとほど陰で悪い事をしているものではないのか。
パンドラの匣 (新字新仮名) / 太宰治(著)
うっとうしいと言う言葉は、用い処はほぼもっさりと似ているが、も少し陰鬱いんうつであり深刻な味をち多少のうるささを持つ。
めでたき風景 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
多くの人は、陰鬱いんうつなのでこんな絵はいやだ、と拒まれますが、でもほかの人々には、あなたもその一人ですが、その陰鬱なのをこそ好かれます
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
しかし間もなくこの陰鬱いんうつ往来おうらい迂曲うねりながらに少しく爪先上つまさきあがりになって行くかと思うと、片側に赤く塗った妙見寺みょうけんじの塀と
すみだ川 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
無邪気で、あどけなくて、内気な、陰鬱いんうつなところがあって、こんなガサツな、生意気な女とは似ても似つかないものだった。
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
この雪にうずもれた不安な生活の上に、陰鬱いんうつな日々がただ明け暮れて行くのを、じっと我慢して春を待つより仕方がなかった。
暗い夜を好み、暗い日を好み、家内でも薄暗いところを好むようになると、当然の結果としてかれは陰鬱いんうつな人間となった。
影を踏まれた女 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
そして、私の足もとの、深い、どんよりした沼は、「アッシャー家」の破片を、陰鬱いんうつに、音もなく、みこんでしまった。
その街並は、皆大きな陰鬱いんうつ煉瓦建れんがだてでした。その一つの家の、正面の扉の上に、真鍮しんちゅうの名札が輝いていました。そこに黒でこう彫ってありました。
しかし三人とも声は立てずに死のように静かで陰鬱いんうつだった。クララは芝生の上からそれをただ眺めてはいられなかった。
クララの出家 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
私は二十歳はたち過ぎまでふるい家庭の陰鬱いんうつと窮屈とを極めた空気の中にいじけながら育った。私は昼の間は店頭みせさきと奥とを一人で掛け持って家事を見ていた。
鏡心灯語 抄 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
なんとなく陰鬱いんうつとして不快を感ずるがごとき場合に鳴き出すものにして、長く病床に吟呻しんぎんせる病人も、かかる天候激変のときに絶命するものである。
おばけの正体 (新字新仮名) / 井上円了(著)
駄洒落だじゃれを聞いてしらぬ顔をしたり眉をひそめたりする人間の内面生活は案外に空虚なものである。軽いわらいは真面目な陰鬱いんうつな日常生活にほがらかな影を投げる。
偶然の産んだ駄洒落 (新字新仮名) / 九鬼周造(著)
「ハッハッハ……。まさか——」とわたしも叔父に合せて笑ったが、笑いが消えないうちに陰鬱いんうつな気に閉された。
地球儀 (新字新仮名) / 牧野信一(著)
その陰鬱いんうつな体操が済んで休む時でも、片脚で一方の止り木をしっかり握り締めて止りながら、もう一つの脚で、機械的に、その同じ止り木を捜している。
博物誌 (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
一週間ばかりの陰鬱いんうつな冬の旅に明はすっかり疲れ切っていた。ひどい咳をしつづけ、熱もかなりありそうだった。
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
夜は戸外が真暗で陰鬱いんうつなので、炉の火があたたかく輝いている部屋にはいると、心はのびのびとふくらむのだ。
また病人は病苦にあえぐ事を描いた文芸に接する事によって、その病苦を慰む事が出来る。考え様にれば人生は陰鬱いんうつなもの悲惨なものとも見る事が出来る。
俳句への道 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
八つ頃から空は次第に薄鼠色うすねずみいろになつて来て、陰鬱いんうつな、人の頭を押さへ附けるやうな気分が市中を支配してゐる。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
ぼくを仇敵視きゅうてきしするのではないだろうか? それとも、彼もここでの無為で陰鬱いんうつな日常に退屈して、あんなお芝居じみた暗黙の協定、おたがいの秘密を、内心
煙突 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
ちょうど三月の初めのころであった、この日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだにさびしいこの町が一段と物さびしい陰鬱いんうつな寒そうな光景を呈していた。
忘れえぬ人々 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
道は沼に沿うて、へびのように陰鬱いんうつにうねっていた。その道の上を、生きた人魂ひとだまのように二人は飛んでいた。
死屍を食う男 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
中は六疊程、疊も敷いてあり、息拔もありますが、大地の下の陰鬱いんうつさと、カビ臭さがムツと鼻を打ちます。
雨はいよいよしげく、いぶせさは二人にとって何か突然な出来事の期待をかけるほど、陰鬱いんうつち入らせた。
姫たちばな (新字新仮名) / 室生犀星(著)
子供の頃はせて弱そうな子であった判事が、今では身体の丈夫な、しかし、非常に寡黙かもくな、むしろ陰鬱いんうつに近い性格の人であるということなぞもその一つでした。
棚田裁判長の怪死 (新字新仮名) / 橘外男(著)
今でも気をつけて見るとこの伝説は、幾つもの筋から辿たどって行かれそうに思うが、我々の来世観は本来はそう陰鬱いんうつな、また一本調子のものでなかったようである。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
褐色とびいろ薔薇ばらの花、陰鬱いんうつ桃花心木たうくわしんぼくの色、褐色とびいろ薔薇ばらの花、免許の快樂、世智、用心、先見、おまへは、ひとのわるさうな眼つきをしてゐる、僞善ぎぜんの花よ、無言むごんの花よ。
牧羊神 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
いや、そのうちどちらにしろ、のこつたをとこにつれひたい、——さうもあへあへふのです。わたしはそのとき猛然まうぜんと、をとこころしたいになりました。(陰鬱いんうつなる興奮こうふん
藪の中 (旧字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
芳子は午飯ひるめしも夕飯も食べたくないとて食わない。陰鬱いんうつな気が一家にちた。細君は夫の機嫌きげんの悪いのと、芳子の煩悶しているのに胸を痛めて、どうしたことかと思った。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
実に陰鬱いんうつな、頭の上から何か引冠ひきかぶせられているような気のするところだ。土地の人が信心深いというのも、偶然では無いと思う。この町だけに二十何カ処の寺院がある。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
たまにれたかと思えばくもり、むらにぱらぱらと降って来ては暗くなり、陰鬱いんうつなことであった。
火は燃え上がり始めんとしていた。陰鬱いんうつな灰色のうちに沈んでいたヨーロッパが、今や火の飼食えじきとなろうとしていた。国民的大戦争はただ偶然の口火を待つのみであった。
一方、兄の急死によって陰鬱いんうつさを増した赤耀館では、雇人が続々と暇を願い出ました。嫂も百合子も、盛んに慰留しましたが、彼等はどうしてもとどまろうとは申しません。
赤耀館事件の真相 (新字新仮名) / 海野十三(著)
三菱みつびしへ学徒動員で通勤している二人の中学生のおいも、妙に黙り込んで陰鬱いんうつな顔つきであった。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
その翌日の、忘れもしない十四日の朝、それは時時ときどきうすれ日の射す何となく陰鬱いんうつな曇り日だつたが、私は疲れてゐる妹を宿やどのこして一人當別村たうべつむらのトラピスト修道院へ向つた。
処女作の思い出 (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
貢さんがのぞいたのは薄暗うすぐら陰鬱いんうつな世界で、ひやりとつめたい手で撫でる様にあたる空気がえて黴臭かびくさい。一間程前けんほどまへに竹と萱草くわんざうの葉とがまばらにえて、其奥そのおくは能く見え無かつた。
蓬生 (新字旧仮名) / 与謝野寛(著)
女はその時そこにいるのがもうたまらないと云うようにしてちあがった。単衣ひとえの上に羽織はおった華美はでなおめし羽織はおり陰鬱いんうつへやの中にあやをこしらえた。順作はそれに気をとられた。
藍瓶 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
果敢はかない煙草入たばこいれかますなか懸念けねんするやうにかれ數次しばしばのぞいた。陰鬱いんうつせま小屋こやなかのぞかますそこくらかつた。わづかにまじつたちひさなしろ銀貨ぎんくわたびかれこゝろいくらかのひかりあたへた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)