くさむら)” の例文
彼女はそっと寝床から起きあがって、半分開いてあった窓の戸を押し開いた。蒼白い月の光は、静かな芝草の上やくさむらの上に流れていた。
さっとかわしざま、相手が逆に下から払いあげた、踏込んだ方は危く半身を反らして避けたが、剣は手を放れて彼方のくさむらへ飛んでいた。
おもかげ抄 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
その地下茎は盛んに泥土中を縦横に走り、それから茎すなわち稈が出て生長するから、そのこれある処はたちまちにくさむらを成して繁茂する。
植物記 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
宿屋の角の所に、一群のあひるの泳いでいる池のそばに、よく石の敷いてない小道がくさむらの中に走っていた。旅人はその小道にはいった。
大きな砂利が靴の裏ですべって、やっと両側のくさむらが尽きかけるあたりまできたとき、慣れない男は、やはり少しあえぎはじめていた。
箱の中のあなた (新字新仮名) / 山川方夫(著)
緑のスロープも、高地になるに随って明るく、陰影が一刷毛ひとはけに撫で下ろされた。あしくさむらの多い下の沢では、葦切よしきりがやかましくいていた。
土竜 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
行く手の萩のくさむらの根もとの辺りに、一人の男が身を伏せて、そこから透けて見える館の座敷の、無礼講の様子を見ているからであった。
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
頭も鬚も半白はんぱくで、それがどちらももじゃもじゃと、まるでくさむらの様に乱れ、その真中に巨大な鼈甲縁べっこうぶちの眼鏡がキラキラと光っている。
妖虫 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
くさむらの陰から子供の歌がきこえる。やがて子供四人登場。女の子ばかり。手ぬぐいをかぶり、かごを持っている。唯円、かえで離れる。
出家とその弟子 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
昨夜とひとしく、月は水の如く、大空に漂つて、山の影はくつきりと黒く、五六歩前のくさむらにはまだ虫の鳴く音が我は顔に聞えて居る。
重右衛門の最後 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
水道道路のガード近くのくさむらに、白い小犬の死骸しがいがころがっていた。春さきのを受けて安らかにのびのびとねむっているような恰好かっこうだった。
永遠のみどり (新字新仮名) / 原民喜(著)
日本のどこでもの海岸の浅い砂浜やくさむらに棲んでいる飛沙魚はぜと、九州有明湾や豊前豊後の海岸にいる睦五郎むつごろうと、誰にもおなじみのふぐである。
飛沙魚 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
やがて退屈して酒樽へ戻らうと足のフラフラを踏みしめてくさむらの中へわけ入つたのだが——(ああ、これも呪ふべき行者の幻術であらうか)
二人は秋草を分け、木の間を分けて、早くもめざしたところのもみの大木の二本並んだ木の蔭へ来て、くさむらの茂みに身を隠してしまいました。
大菩薩峠:36 新月の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
白い花の咲いてるくさむらから出て来たのは白い絹をまとい、そしてその女達が池の緑の青草の上に集まって、歌ったり、踊ったりし始めました。
魔法探し (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
ニストリの向桿ポールもジアンドロの向桿ポールも見る間にそこにぶっ倒れて、くさむらから飛び出した野獣のように、狂気した二人が私のほうへとんで来た。
令嬢エミーラの日記 (新字新仮名) / 橘外男(著)
すると、沼の水面で大きな魚が跳ねたとみえ、ポチャリと音がすると、そのとき池畔のくさむらの中から、それは異様なものが現われて出て来た。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
屍骸しがいの肉をむさぼっていたらしい犬が一匹、不意にくさむらの間から跳び出して慌てゝ何処かへ逃げ去ったが、父はそんなものにも眼もくれなかった。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
其処らのくさむらにも路にもいくつともなく牛が群れて居るので余は少し当惑したが、幸に牛の方で逃げてくれるので通行には邪魔にならなかった。
くだもの (新字新仮名) / 正岡子規(著)
滝の水は物思いをする人に威嚇いかくを与えるようにもとどろいていた。くさむらの中の虫だけが鳴き弱ったで悲しみを訴えている。
源氏物語:40 夕霧二 (新字新仮名) / 紫式部(著)
鳥の羽音、さえずる声。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。くさむらの蔭、林の奥にすだく虫の音。空車からぐるま荷車の林をめぐり、坂を下り、野路のじを横ぎる響。
武蔵野 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
暗い星月夜の空の下で、しばらく二人は組んず、ほぐれつして争っていたが、間もなく、二人の体は組みあったままくさむらの坂径をころがり落ちた。
霧の蕃社 (新字新仮名) / 中村地平(著)
しかしそれはもはやこの村からなくなっていたのです。私がその跡をとむらった時、ただ一基の石塔が昔を語ってくさむらの中に捨ててあるばかりでした。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
此処はただ草のみ生ひて、樹はまれなれば月光つきあかりに、路の便たよりもいとやすかり。かかる処に路傍みちのほとりくさむらより、つと走り出でて、鷲郎が前を横切るものあり。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
車について野原を行く時にも、風そよぐ運河の岸のくさむらに並んでねころぶときにも、きまって、これをささやくのでした。
あなすさまじ、と貫一は身毛みのけ弥竪よだちて、すがれる枝を放ちかねつつ、看れば、くさむらの底に秋蛇しゆうだの行くに似たるこみち有りて、ほとほと逆落さかおとし懸崖けんがいくだるべし。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
なんでもこの山巓さんてんを少しくだったくさむらの中には、どこかに岩間から湧きいづ清泉せいせんがあるとは、日中ふもとの村で耳にしたので
本州横断 癇癪徒歩旅行 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
光線が斜に射す午後、その狭い並木、くさむらの風景は、荒廃した園の趣と初夏の緑の活々した輝きとを相交え美しかった。
伸子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
ヂュリ おゝ、パリスどのと祝言しうげんをせうほどなら、あのたふうへからんでい、山賊やまだち跳梁はびこ夜道よみちけ、へびくさむらひそめいともはッしゃれ。
セーニャと黒い牝牛とが、ぽつりぽつりと、砂浜のくさむらに残されてしまった。いつまでもいつまでも黒く突立つったっていた。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
しこうして彼はかえってくさむらいて蛇を出し、その自首したるがために、遂に彼をして死刑に致さざるべからざるまでの罪を羅織らしょくせらるるに至りしなり。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
翌朝になると早速さっそくに、前夜の同伴つれの男と一緒に、昨夜の場所に行ってみると、そのところから少し離れたくさむらの中に、古狐が一匹死んでいたとの事であった。
月夜峠 (新字新仮名) / 水野葉舟(著)
四方山よもやまの物語に時移り、入日いりひの影も何時いつしか消えて、冴え渡る空に星影寒く、階下のくさむらに蟲の鳴く聲露ほしげなり。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
若い経営主は紫色の花だけ眼のように涼しく開けて、葉はまだ閉じて眠っているポインシャナのくさむらを靴の底でいじらしそうにさすりながら、こう云った。
河明り (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
道路の傍には松のい茂った崖が際限もなく続いていた。そしてその裾に深いくさむらがあった。月見草がさいていた。
蒼白い月 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
銀はその後、勝手に一人、このくさむらへ遊びに行くようになったが、私がその名を呼んで手をたたくと、彼女はどこからともなく私の足もとへすぐに帰って来た。
この鳥くらい物おじをせぬ快活な鳥はないと言った人があるが、なるほど冬のさ中にも里から遠くへは去らず、いつも路傍のくさむらの上ばかりを飛んでいる。
そこで城太郎も、これは油断がならないと思いだし、わざと道のない尾花のくさむらへかくれて、少年の挙動をうかがっていると、ふいに先の姿を見失った伊織は
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
また高い天蓋の隙間から幾つもの偶然を貫いて陰濕なくさむらへ屆いて來る木洩こもは掌のやうな小宇宙を寫し出した。しかし木洩れ陽程氣まぐれなものはない。
闇への書 (旧字旧仮名) / 梶井基次郎(著)
彼等の追跡者達は、鹿狩りをする人のような可笑しな格恰をして、灌木林のかげにかくれたり、ながくのびたくさむらの中をざわざわ歩かなければならなかった。
すると常磐木のしげり、石の間なる菊のくさむらまで、庭中のありとあらゆる草木そうもくの葉は、何とも言えぬ悲愁の響を伝えますが、ぐとまたもとの静寂に立返って
監獄署の裏 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
汽車のやうな郊外電車が、勢ひよくゴッゴッゴッゴッと走つて来て、すぐそばの土堤どての上を通るごとに、子供たちは躍り上つて、思はずくさむらから手を挙げました。
原つぱの子供会 (新字旧仮名) / 槙本楠郎(著)
わずかに低く薄く生えたくさむらの上に伏すもなお見分けにくい、それを支那人が誤って骨があるいは伸びふくれあるいは縮小して虎の身が大小変化するとしたんだ。
畑の中を、うねから畦へ、土くれから土くれへと、踏みつけ踏みつけ、まぐわのように、かため、らして行く。鉄砲で、生籬いけがき灌木かんぼくの茂みや、あざみくさむらをひっぱたく。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
し溪谷釣りで、山中の流れを釣り登るのであるならば、一つの釣場から次の釣場迄岩をよぢ上り、山吹のくさむらを踏み分け、思ひもよらぬ萬古ばんこの雪に足を滑らせ
健康を釣る (新字旧仮名) / 正木不如丘(著)
「若し僕の考えが当っているとしたら、兇器は先ずこの空地の、その辺のくさむらに捨てられてある筈だが——」
撞球室の七人 (新字新仮名) / 橋本五郎(著)
初秋の空に、星は美しく輝いていたが、地上のくさむらには、生死の間を縫って、わずかに息づいている人間の黒いからだが、いくつとなく不体裁にころがっていた。
論語物語 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
第三発の放たれしを、避けつつわざと撃たれし体にてくさむらに僵れしに、果せるかな悪人ばら誑死そらじにあざむかれぬ。
活人形 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
くさむらの中からぬっとり出して来て笠をけ、脇差わきざしを抜いて見得を切るあの顔そっくり。その顔で癇癪玉かんしゃくだまを破裂させるのだから、たいがいの者がぴりぴりした。
桜林 (新字新仮名) / 小山清(著)
翁いふ。吾主わぬし遠くゆき給ひて後は、夏のころより干戈かんくわふるひ出でて、里人は所々にのがれ、わかき者どもは軍民いくさびとに召さるるほどに、一四一桑田さうでんにはかに狐兎ことくさむらとなる。