くすぶ)” の例文
家の中には生木の薪を焚く煙が、物の置所も分明さだかならぬ程にくすぶつて、それが、日一日破風はふと誘ひ合つては、腐れた屋根に這つてゐる。
赤痢 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
どうせ彼女はあのむさくろしい千束町に一日くすぶっている筈はないから、毎日々々、近所隣を驚かすような派手な風俗で出歩くだろう。
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
くちもうしたらその時分じぶんわたくしは、えかかった青松葉あおまつばが、プスプスとしろけむりたてくすぶっているような塩梅あんばいだったのでございます。
鉢形鍋形の土噐に外面のくすぶりたる物有る事は前にも云ひしが、貝塚發見はつけんの哺乳動物の長骨中ちやうこつちうには中間より二つにくだきたる物少からず。
コロボックル風俗考 (旧字旧仮名) / 坪井正五郎(著)
許嫁のモダン・ボーイと、モダン・ガールがこんな明朗な小春日和の日曜に家にくすぶっている筈はない。小店員が取次に現われて
求婚三銃士 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
お組とやらいう娘一人の命ではなく、その奥にもっともっと複雑な犯罪が潜んで今ブスブスくすぶっているような気がしてならなかったのです。
さかええよかしでいははれてよめに来たのだ、改良竈かいりやうかまどと同じくくすぶるへきではない、苦労くらうするなら一度かへつて出直でなほさう。いかさまこれは至言しげんと考へる。
もゝはがき (新字旧仮名) / 斎藤緑雨(著)
それより手を替え品を替え種々さまざまにして仕官の口を探すが、さて探すとなると無いもので、心ならずも小半年ばかりくすぶッている。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
憤然としてつッと立った。主税の肩越しにきらりと飛んで、かんてらのくすぶったあかりを切って玉のごとく、古本の上に異彩を放った銀貨があった。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
夏の鮒で脂は落ちていますが身は新しいのでくすぶる山椒と醤油のこうばしい匂と共にあまい滋味の湯気が周りに立ち拡がりました。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
或者は火に手をかざしたまま、くすぶる煙に眼をしばだたいている。さもなくば酒を温めながらこれに合槌あいづちを打って陽気にするばかりだ。
越後の冬 (新字新仮名) / 小川未明(著)
遠い記憶のなかでなにかくすぶるものがあるようだ、しかしそれがなんであるかはわからない、彼は手紙の文字を思いかえした。
(新字新仮名) / 山本周五郎(著)
やがて純次は、清逸の使いふるしの抽出ひきだしも何もない机の前に坐った。机の上には三分じんのラムプがホヤの片側を真黒にくすぶらして暗く灯っていた。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
白痴の花嫁——そのいつか来るかもしれない、明日の夢のようなものが、私の心の中で、絶えず仄暗ほのぐらくすぶっているのです。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
此頃はもうくすぶつたまゝぼんやり光つて、だだツ廣い臺所の隅々までを塵一本も殘さずに照らした昔の面影は見えなかつた。
天満宮 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
二階は六畳敷ばかりの二間で、仕切を取払った真中の柱に、油壷のブリキでできた五分心のランプが一つ、火屋ほやくすぶったままぼんやりとぼっている。
世間師 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
しゅうしゅうとも思わぬ奴じゃ。」——こう云う修理の語のうちには、これらの憎しみが、くすぶりながら燃える火のように、暗い焔を蔵していたのである。
忠義 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
香がまだくすぶっている。煙が玄関を通って中庭の方に流れて行くのが、悠容ゆうようたる趣きがあった。順々に皆が焼香する。私も人々にまじって焼香した。
風宴 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
そして、この激烈な感情をくすぶらせつつも独立を全うしない未能力者の彼は、苦しい日々の生活を迎えねばならなかった。
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
白い煙をげて浴衣はめらめらと燃えて行ったが、燃えのこりの部分のくすぶっているのを、さらに棒片ぼうきれきたてていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
背後の村には燃えさしの家が、ぷすぷすくすぶり、人を焼く、あの火葬場のような悪臭が、部隊を追っかけるようにどこまでも流れ拡がってついてきた。
パルチザン・ウォルコフ (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
たきぎすすで真ッくろにくすぶっている天井から、笠のげているのや、ホヤに膏薬貼こうやくばりのしてあるランプが、卓の上に添うて七、八個ほど吊りさげてある。
かんかん虫は唄う (新字新仮名) / 吉川英治(著)
其頃そのころ武内たけのうち富士見町ふじみちやう薄闇うすぐら長屋ながやねづみ見たやうなうちくすぶつてながら太平楽たいへいらくならべる元気がぼんでなかつた
硯友社の沿革 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
いわんやこんなくすぶり返った老書生においてをやで、わたしうちは向う横丁の角屋敷かどやしきですとさえ云えば職業などは聞かぬ先から驚くだろうと予期していたのである。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
著作家や牧師のやうな始終しよつちゆううちばかしにくすぶつてゐるのは一番の困り者で、出来る事なら船乗ふなのりや海軍軍人のやうな月の半分か、一年の何分なにぶんの一かを海の上で送つて
このくすぶつた竹藪の家では、その傾いた屋根の下の、あらゆる物、あらゆる空気、あらゆる心に、こんな豪華(!)な装飾よそおいを導き入れる何の用意も出来てゐない。
竹藪の家 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
そして、絹川の土手にとりついたころには、きれい樺色かばいろに燃えていた西の空がくすぶったようになって、上流かわかみの方はうっすらした霧がかかりどこかで馬のいななく声がしていた。
累物語 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
「糞壺」のストーヴはブスブスくすぶってばかりいた。鮭や鱒と間違われて、「冷蔵庫」へ投げ込まれたように、その中で「生きている」人間はガタガタふるえていた。
蟹工船 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
奥山の炭焼のけむりくすぶって、真黒になって、それでも働く人のあるというのは——何の為だ。みんな、生きたいと思やこそ。自分の命より大切なものが世の中にあるかよ
藁草履 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
と戸を開けて這入ると、上り口は広い板の間で、炉が切ってあって、自在鈎じざいくすぶった薬鑵が懸ってある。
涙と水ぱなが流れだした。そして、むかむか腹立たしくなった。もくもくくすぶっているき木に怒りがぶっつかって行った。雪のついたくつの先でそれをにじりつけた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
ひなにはまれ」とは京子のことではないか、こんなところにくすぶっているのは、何か暗い影がありはしないか——と余計な心配を起させる程、優れた美貌の持主だった。
鉄路 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
交霊会の席上に出現する燐光でさえもが、右にのぶる如き好条件の下にありては、青く冴え亘って煙がない。之に反して条件が悪ければその光が鈍く汚くくすぶっている。
「ここは何という所であろうか。」と、小坂部はあいにくにくすぶる落葉の煙りを袖に払いながら訊いた。
小坂部姫 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
夫にして一朝事業に失敗するとか、あるいは長い病蓐びょうじょくに臥すとかいうことの起った場合には、今まで家庭にくすぶっていた妻が奮然立って外に働かねばならぬかも知れぬ。
夫婦共稼ぎと女子の学問 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
その下でメラメラと燃えくすぶっている紅黒いガラ焼の焔が、ロシヤ絨氈のように重なり合って見える。
女坑主 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
例えばこいだとか菊水などは前者で、打出うちで木槌こづち扇子せんすの如きは後者の場合であります。煙で充分にくすぶり、これをよくきこみますから、まるで漆塗うるしぬりのように輝きます。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
火に入れば熱い焔色、くすぶりむせる煙に巻かれれば見わけのつかない煤色になって、恐れて逃る人間達を導き導き空気とともに勇気を与え、必要な次の営みにつかせます。
対話 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
散った跡の河岸に誰かがきすてた焚火の灰がわずかにくすぶって、ゆるやかな南の風になびいていた。
雑記(Ⅱ) (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
今は、怠け者の、口喧やかましい爺さんとしての存在でしかなかった。伜や孫娘のすることに、うるさいほどくちばしを入れるだけで、しょぼしょぼと、薄暗いへやの中にくすぶっていた。
駈落 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
彼は古びたオーバーを着込んで、「寒い、寒い」とふるえながら、生木のくすぶ火鉢ひばち獅噛しがみついていた。言葉も態度もひどく弱々しくなっていて、めっきり老い込んでいた。
廃墟から (新字新仮名) / 原民喜(著)
玄關げんくわんさき別室全體べつしつぜんたいめてゐるひろこれが六號室がうしつである。淺黄色あさぎいろのペンキぬりかべよごれて、天井てんじやうくすぶつてゐる。ふゆ暖爐だんろけぶつて炭氣たんきめられたものとえる。
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
それを置く窖(ずいぶん長いあいだあけずにあったので、その息づまるような空気のなかで、持っていた火把たいまつはなかばくすぶり、あたりを調べてみる機会はほとんどなかったが)
駒井能登守の屋敷あとには草がいや高く生え、神尾主膳の焼け跡ではまだ煙がくすぶっている時分、甲府の町へ入り込んだ二人の旅人が、神尾の焼け跡を暫く立って見ていたが
大菩薩峠:17 黒業白業の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
するうちえたいのしれない焦燥が私のうちにくすぶりはじめ、美佐子のうちにもひとしく何か焦燥が燻り出したらしいのが私に感ぜられた。美佐子が突然、突っかかるように言った。
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
休んで自宅うちくすぶっていると、喧しく寄席から迎えがきた。どうしても今夜出てくれ、と。
寄席 (新字新仮名) / 正岡容(著)
生れは何でも越後ゑちごの者だといふ事だが、其処に住んだのは、七八年前の事で、始めはその父親らしい腰の曲つた顔のくすぶつたきたならしい爺様ぢいさまも居つた相だが、それは間もなく死んで
重右衛門の最後 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
夏も冬も同じ事である。冬は部屋の隅の鉄砲煖炉に松真木まつまきくすぶっているだけである。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「俺はかうして何年も何年も同じ所にくすぶつて居るんだ。そして昇級のあてもない。」
公判 (新字旧仮名) / 平出修(著)
出来る事ならなまけて、終日火燵こたつくすぶっていたいであろう。時には暖炉だんろのかたわらにばかりかじりついている上官を呪うこともあろう。決してその死んだ集配人を立派な人とも考えない。
丸の内 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)