“辛(かろ)” の例文
そうして残ったのは、辛(かろ)うじて、これだけである。これだけ。原稿用紙、六百枚にちかいのであるが、稿料、全部で六十数円である。
吹き折られた杉の傷のあとは、まだ癒(い)えない。そこから辛(かろ)うじて吹き出した芽生えを見ているお豊の面には痛々しい色があります。
既に自分の職務さへ、辛(かろ)うじて務めたほどのものが、何の余裕があつて、敵情を探るなんて、探偵や、斥候の職分が兼ねられます。
海城発電 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
迅(はや)きようにても女の足の後(おく)れがちにて、途中は左右の腰縄(こしなわ)に引き摺(ず)られつつ、辛(かろ)うじて波止場(はとば)に到り、それより船に移し入れらる。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
目科は宛(あたか)も足を渡世(とせい)の資本(もとで)にせる人なる乎(か)と怪しまるゝほど達者に走り余は辛(かろ)うじて其後に続くのみにて喘(あえ)ぎ/\ロデオン街(まち)に達せし頃
血の文字 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
そうして返事の声を咽喉(のど)に詰まらせつつ、辛(かろ)うじて顔だけ笑って見せていると、そのうちに、又も甲高い声が上から落ちて来た。
木魂 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
藝術家が空想の世界を作って此(こ)の世の苦患(くげん)を超越するように、凡人は酒の力に依って辛(かろ)うじて救われるのだ。酒は凡人の藝術だ。
小僧の夢 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
『古事記』『日本紀』は大切な文献ではあるが、辛(かろ)うじて保存せられた期間が長く続き、本の名をさえ知っている者がもとは稀(まれ)であった。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
渓川(たにがわ)に危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、辛(かろ)うじて一縷(いちる)の細き力に頂(いただ)きへ抜ける小径(こみち)のなかに隠れた。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
そして、かの傲岸(ごうがん)なるスターベア大総督は、少数の幕僚と共に辛(かろ)うじて一台の飛行機を手に入れ、一路本国さして遁走中(とんそうちゅう)だとのことである。
二、〇〇〇年戦争 (新字新仮名) / 海野十三(著)
危さに生き、いつでも転落の可能性を有し、絶えず転落し、七転八倒し、或る刹那に、辛(かろ)うじて或る均衡を保って美は生れる。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
……で、今も、思わず歓呼の声を挙げかかったのであったが、咄嗟(とっさ)の間にそれに気づいて、辛(かろ)うじて口を緘(かん)したわけである。
吊籠と月光と (新字新仮名) / 牧野信一(著)
天筠居が去年の夏、複製して暑中見舞として知人に頒(わか)った椿岳の画短冊は劫火(ごうか)の中から辛(かろ)うじて拾い出された椿岳蒐集の記念の片影であった。
が、辛(かろ)うじて足を踏みしめて再び蒲団(ふとん)の上にかしこまつた。そしてすつかり正式の読経の姿勢になつた。前の懺悔文を立てつゞけに誦し続けた。
老主の一時期 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
それが万葉を離れるともはやその力量と熱意が無くなってしまって、弱々しい歌のみを辛(かろ)うじて作るに止(とどま)る状態となった。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
一間ばかりの所を一朝かかって居去(いざ)って、旧(もと)の処へ辛(かろ)うじて辿着(たどりつ)きは着いたが、さて新鮮の空気を呼吸し得たは束の間
伯父(おじ)のへそくりを盗み出した十万円は、二十日間の旅で遣(つか)いはたした。ポケットには、辛(かろ)うじて今夜の宿賃に足りるほどの金が残っているばかりだ。
女妖:01 前篇 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
私はよくこの苦々しい悒鬱を知っている。それは人間が辛(かろ)うじて到達し得た境界から私が一歩を退転した、その意識によって引き起されるのだろう。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
家々はめりめりと唸(うな)りを立て、歪(ゆが)められ、倒され、人々はその家の下に生き埋めにせられ、辛(かろ)うじて遁(のが)れ出たものも狂犬のように吠(ほ)えまわり走りまわり
で、私(わたくし)どもに向(むか)って身上噺(みのうえばなし)をせいと仰(お)ッしゃるのは、言(い)わば辛(かろ)うじて治(なお)りかけた心(こころ)の古疵(ふるきず)を再(ふたた)び抉(えぐ)り出(だ)すような、随分(ずいぶん)惨(むご)たらしい仕打(しうち)なのでございます。
それの安定を保つためには、微妙な数理によって組み建てられた、支柱の一つ一つが必要であり、それの対比と均斉とで、辛(かろ)うじて支(ささ)えているのであった。
猫町:散文詩風な小説 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
運命を自覚した影の薄い童子たちは、辛(かろ)うじて通じている電車で旅程(りょてい)に出るのだ。いろいろの不可知(ふかち)要素の伴(ともな)っているこの生別(せいべつ)は、万感深きものがあった。
親は眺めて考えている (新字新仮名) / 金森徳次郎(著)
とにかく、政府や富豪の力で保護しなければ衰えそうな芸術は、何んと霊薬を飲ませて見た処で辛(かろ)うじてこの世に止(とど)め得るに過ぎなくなるにきまっている。
油絵新技法 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
またある時松島にて重さ十斤ばかりの埋木(うもれぎ)の板をもらひて、辛(かろ)うじて白石の駅に持出でしが、長途の労(つか)れ堪ふべくもあらずと、旅舎に置きて帰りたりとぞ。
俳人蕪村 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
けれども流石に院長にだけは神妙に身を委せ、時どき繃帯をとり替えて貰っては辛(かろ)うじて清潔を保っていた。
三狂人 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
不題(ここにまた)彼の聴水は、去(いぬ)る日途中にて黄金丸に出逢ひ、已(すで)に命も取らるべき処を、辛(かろ)うじて身一ツを助かりしが。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
妻の働いているうちは、どうか恁(こう)か持堪(もちこた)えていた家も、古くから積り積りして来ている負債の形(かた)に取られて、彼は細(ささや)かな小屋のなかに、辛(かろ)うじて生きていた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
維新の後、ようやく文部省の設立に逢うて、辛(かろ)うじて日本の学問を蘇生せしめ、その際に前後数年を空(むな)しゅうしたるは、学問の一大不幸なりと断言して可なり。
学問の独立 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
異様なきらめきを漲(みなぎ)らして、思わず、何か口に出そうとしたようであったが、チラリとこちらに向けられた、師匠の視線に、辛(かろ)うじて、己れを制したのであった。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
要するに彼等は辛(かろ)うじて大工の妾のふる巣にもぐり込んだ東京の喰いつめ者と多くの人に思われて居た。実際彼等は如何様(どんな)に威張(いば)っても、東京の喰詰者であった。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎、徳冨蘆花(著)
そして僅かばかりの人間が、砂漠の砂に埋れた廃墟(はいきょ)の古代都市のほとりに、僅かにヒマラヤの雪のとけ出た流れを汲(く)んで、辛(かろ)うじて生命を保っているところである。
『西遊記』の夢 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
あるいは辛(かろ)うじて家長一人に属する家族の最小限度の経済生活を支えるに足って、到底その他の大家族を養うことが出来なかったりする現代の家庭の経済状態において
激動の中を行く (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
辛(かろ)うじて言葉を捜し出し、大音楽家らについて、または当の相手について、自分の意見を極端な乱暴さで表白する会話などでは、だれをも説服することはできなかった。
恐ろしい大きな高い巌(いわ)が前途(ゆくて)に横たわっていて、あのさきへ行くのか知らんと疑われるような覚束(おぼつか)ない路を辿(たど)って行くと、辛(かろ)うじてその岩岨(いわそば)に線(いと)のような道が付いていて
観画談 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
明治十年前後には邦語で泰西の法律を説明することは辛(かろ)うじて出来るようになったが、明治二十年頃までは、邦語で法律の学理を講述することはまだ随分難儀の事であった。
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
私の漂うて居った無人島へ来(きた)りしゆえ、辛(かろ)うじて其の舟に乗込み、一度新潟沖に着(ちゃく)いたし、女房の在所(ありか)を尋ねようと思って小舟を乗出したところが、又も難船して此の始末
後の業平文治 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
その紫色の帯の処(ところ)までは、辛(かろ)うじて見えるが、それから上は、見ようとして、幾(いく)ら身を悶掻(もが)いても見る事が出来ない、しかもこの時は、非常に息苦しくて、眼は開(ひら)いているが
女の膝 (新字新仮名) / 小山内薫(著)
一刻も早く乗込もうとする心が燃えて、焦立(いらだ)って、その混雑は一通りでなかった。三人はその間を辛(かろ)うじて抜けて、広いプラットホオムに出た。そして最も近い二等室に入った。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
夜間に辛(かろ)うじて、密林内に引き込み、住民を集めて搗かせ、之を部隊の食糧にあてた。
日の果て (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
仮面を取り退けようとするのらしい。ブルブル顫えている五本の指! その母指と食指とが、辛(かろ)うじて仮面の頤(おとがい)へかかり、しばらく躊躇したかと思うと、ポッと仮面が顔から離れた。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
先生の居(きょ)、同じく戒心(かいしん)あるにもかかわらず、数十の生徒(せいと)を伴(ともな)い跣足(せんそく)率先(そっせん)して池水(いけみず)を汲(くみ)ては門前に運び出し、泥塗満身(でいとまんしん)消防(しょうぼう)に尽力(じんりょく)せらるること一霎(いっしょう)時間(じかん)、依(よっ)て辛(かろ)うじてその災(さい)を免(まぬか)れたり。
自分ももと芸者であったからには、不粋なことで人気商売の芸者にケチをつけたくないと、そんな思いやりとも虚栄心(きょえいしん)とも分らぬ心が辛(かろ)うじて出た。自分への残酷(ざんこく)めいた快感もあった。
夫婦善哉 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
唯、生きていることだけが辛(かろ)うじてゆるされたことの全部であるといってもいい。考えようによっては男子の本懐(ほんかい)でもあるが、お父さんは、この難境(なんきょう)に突き落されることによって発奮(はっぷん)した。
親馬鹿入堂記 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
倒れて居る太い木の幹を踏み越え、痛い草の刺(とげ)を分け、辛(かろ)うじて武甲山の絶巓(ぜってん)に達した時は、天地ぐらぐらとして、今にも太古から動かないでいる大きな蒼い波の上に漂わされそうに思った。
武甲山に登る (新字新仮名) / 河井酔茗(著)
それを幾切れか小皿に盛って出す。満座無言のなかで、注ぎきられたのと差出されたのとどちらが先だったかいまは忘れたが、いきづくりを肴(さかな)に飲み回しの儀式であると辛(かろ)うじて私は了解した。
加波山 (新字新仮名) / 服部之総(著)
と、同時に一台の幌馬車が胡月の前でとまると、再びもとの静寂が灰色の部屋に重々しく沈んだ。私達が思わず立上ると、同時に花子のやつれた姿がよろよろと死の首で辛(かろ)うじてささえられた。
バルザックの寝巻姿 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
ために書道を誤認していた。従って後に遺るべき尊き書は生まれることがなかった。その中、辛(かろ)うじて貫名海屋ひとりが若干実を識るのみであって、他はいずれも俗流で一時を鳴らしたに過ぎない。
書道習学の道 (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
卒然(いきなり)下宿を飛出して、血眼(ちまなこ)になって奔走して、辛(かろ)うじて聊(いささ)かの金を手に入れたから、下宿へも帰らず、其足で直ぐ東京を発(た)って、汽車の幾時間を藻掻(もが)き通して、国へ着いたのは其晩八時頃であった。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
怠け者の兄貴、フェリックスは、辛(かろ)うじて学校を卒業した。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
馬はおびえて一躍し、姫は辛(かろ)うじて鞍(くら)にこらへたり。
文づかひ (新字旧仮名) / 森鴎外(著)