かおり)” の例文
すると、軽く膝をいて、蒲団ふとんをずらして、すらりと向うへ、……ひらきの前。——此方こなたに劣らずさかずきは重ねたのに、きぬかおりひやりとした。
妖術 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
宛転悠揚えんてんゆうようとしてわたしの心を押し沈め、我れを忘れていると、それは豆麦や藻草のかおり夜気やきの中に、散りひろがってゆくようにも覚えた。
村芝居 (新字新仮名) / 魯迅(著)
二十五歳の恋人達は、子供の様に無邪気に、あらゆる思慮を忘れて、桃色のもやと、むせ返る甘いかおりの世界へ引き込まれて行った。
吸血鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
この結一句の意味は判然と分らねどこれにては梅の樹見えずしてかおりのみする者の如し。さすれば極めてことさらなる趣向にて他と調和せず。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
「いき」な空間に漂う光は「たそや行灯」の淡い色たるを要する。そうして魂の底に沈んで、ほのかに「たが袖」のかおりがせなければならぬ。
「いき」の構造 (新字新仮名) / 九鬼周造(著)
そして香のかおりがしっとりと客間の空気にしみわたって、辰之助が訪れてきたときには、心を籠めて薄化粧を終っていた。
(新字新仮名) / 山本周五郎(著)
玫瑰まいかいの芳烈なるかおりか、ヘリオトロウプの艶に仇めいた移香うつりがかと想像してみると、昔読んだままのあの物語の記憶から、処々しょしょの忘れ難い句が、念頭に浮ぶ。
『新訳源氏物語』初版の序 (新字新仮名) / 上田敏(著)
かおりだけでもかいで置けと云わぬばかり、けむりを交番の中へ吹き散して足の向くまま言問橋の方へ歩いて行った。
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
いやこうよりも匂いのたかい女脂にょしかおりがふんふんと如海和尚の打振る鈴杵れいしょもあやふやにし、法壇はただ意馬心猿の狂いを曼陀羅まんだらにしたような図になってしまった。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
煙草盆たばこぼん、巻煙草入、灰皿なども用意した。こうして、ひとりで茶を入れて、香のかおりに満ちた室内を眺め廻した時は、名倉の家の人達が何時いつ来て見ても好いと思った。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
折から白い花を咲かせているどくだみは、その根を引き抜くとき、麝香じゃこうのような、執念ぶかい烈しいかおりみなぎらす。嗅神経がこれを迎えて、あわてていよいよ緊張する。
ただあわかおりを残して消えたこうのようなもので、ほとんどとりとめようのない事実である。
硝子戸の中 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
わたしのためには御文も品物も優しい唇で物をいってくれました。何日いつやら蒸暑い日の夕方に、雨が降って来た時に貴方と二人でこの窓の処に立って濡れた樹々のこずえから来るかおりを聞いた事があります。
なつかしい微妙なかおり駿馬しゅんめいななく大宛だいえんのものである。
胆石 (新字新仮名) / 中勘助(著)
つりそめて蚊屋のかおりや二日程 花虫
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
と、するすると寄った、姿が崩れて、ハタと両手を畳につくと、麻のかおりがはっとして、肩に萌黄もえぎの姿つめたく、薄紅うすくれないが布目を透いて
草迷宮 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
近頃は有頂天うちょうてん山名宗三やまなそうぞうであった。何とも云えぬ暖かい、柔かい、薔薇色ばらいろの、そしてかおりのいい空気が、彼の身辺を包んでいた。
接吻 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
両岸の豆麦と河底の水草から発散するかおりは、水気の中に入りまじっておもてって吹きつけた。月の色はもうろうとしてこの水気の中に漂っていた。
村芝居 (新字新仮名) / 魯迅(著)
扇紋おうぎもん畳扇たたみおうぎとして直線のみで成立している間は「いき」をもち得ないことはないが、開扇ひらきおうぎとしてを描くと同時に「いき」はかおりをさえもとどめない。
「いき」の構造 (新字新仮名) / 九鬼周造(著)
月の光は夕日の反映が西の空から消え去らぬうち、早くも深夜に異らぬ光を放ち、どこからともなく漂ってくる木犀もくせいかおりが、柔かで冷い絹のように人の肌をなでる。
虫の声 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
伏目勝に、細く白い手を帯の間へ差込んでおいでなさいましたから、美しい御髪おぐしのかたちはなおよく見えました。言うに言われぬかおりは御部屋のうちに匂い満ちておりましたのです。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
それまで、ひッそりと、ゆかしいかおりと気配をこめていた女駕の中で
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
やおら、雪のような白足袋しろたびで、脱ぎ棄てた雪駄せった引寄ひきよせた時、友染ゆうぜんは一層はらはらと、模様の花がおもかげに立って、ぱッと留南奇とめきかおりがする。
春昼後刻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そして、この椅子の前のテーブルには、眼の醒める様な、西洋草花が、甘美なかおりを放って、咲き乱れていることであろう。
人間椅子 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
そして葭簀越よしずごしにも軽くにおわせる仙女香せんじょこうかおりと共に、髪はさがづと糸巻いとまきくずし、銀胸ぎんむね黄楊つげくしをさし、団十郎縞だんじゅうろうじまの中に丁子車ちょうじぐるまを入れた中形ちゅうがた浴衣ゆかたも涼しげに
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
また事実として、たとえばダンディズムと呼ばるる意味は、その具体的なる意識層の全範囲にわたって果して「いき」と同様の構造を示し、同様のかおりと同様の色合いろあいとをもっているであろうか。
「いき」の構造 (新字新仮名) / 九鬼周造(著)
祭壇の方から香って来る没薬もつやくと乳香のかおり何時いつの間にか岸本の心を誘った。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
真三にものを言った女は、そのうちの誰であったか、袖のいろいろに紛れて、はらはらと散る香水と、とめきのかおりに紛れたのである。
露萩 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
彼は煎餅蒲団せんべいぶとんにくるまって、天井の節穴を眺めながら、恋しい人の上を思った。何とも形容の出来ない、はなやかな色彩と、快いかおりと、柔かな音響が彼の心を占めた。
灰神楽 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
あいいて、ゆるく引張つてくゝめるが如くにいふ、おうなことば断々たえだえかすかに聞えて、其の声の遠くなるまで、桂木は留南木とめぎかおりに又恍惚うっとり
二世の契 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
不思議なかおりよりも、乳色に澱んでいる異様な空の色よりも、いつから始まったともなく、春の微風そよかぜの様に、彼等の耳を楽しませている、奇妙な音楽よりも、或は又、千紫万紅せんしばんこう
パノラマ島綺譚 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
呆気あっけに取られて目も放さないで目詰みつめて居ると、雪にもまがうなじさしつけ、くツきりしたまげの根を見せると、白粉おしろいかおりくしの歯も透通すきとおつて
処方秘箋 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
男性的な、豊なかおりが、革の隙間を通してただよって参ります。
人間椅子 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
それも心がらでござります。はじめはお前様、貴女あなたが御親切に、勿体ない……お手ずからかおりの高い、水晶をみますような、涼しいお薬を
草迷宮 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ぷんと、麝香じゃこうかおりのする、金襴きんらんの袋を解いて、長刀なぎなたを、この乳の下へ、平当てにヒヤリと、また芬と、丁子ちょうじの香がしましたのです。
神鷺之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
美女 一歩ひとあしに花が降り、二歩ふたあしには微妙のかおり、いま三あしめに、ひとりでに、楽しい音楽の聞えます。ここは極楽でございますか。
海神別荘 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
待遇もてなすやうなものではない、銚子ちょうしさかずきが出る始末、わかい女中が二人まで給仕について、寝るにも紅裏べにうら絹布けんぷ夜具やぐ枕頭まくらもとかおりこうく。
二世の契 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
滝太郎は左右をみまわし、今度ははばからず、袂から出して、たなそこに据えたのは、薔薇ばらかおり蝦茶えびちゃのリボン、勇美子が下髪さげがみを留めていたその飾である。
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
しかしこれを供えた白い手首は、野暮なレエスから出たらしい。勿論だ。意気なばかりが女でない。同時にぷんと、なまめかしい白粉おしろいかおりがした。
灯明之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「は。」と再び答へると、何か知らず、桂木の両手を取つて、優しくたすけ起したものがある、其が身に接した時、湿つたかおりがした。
二世の契 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
「おゝ、ひざ擦剥すりむけました、薬をつけて上げませう。」と左手ゆんでにはうして用意をしたらう、既にかおりの高いのを持つて居た。
処方秘箋 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
桜にはちと早い、木瓜ぼけか、何やら、枝ながら障子に映る花の影に、ほんのりと日南ひなたかおりが添って、お千がもとの座に着いた。
売色鴨南蛮 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
しずくを切ると、雫までぷんにおう。たとえば貴重なる香水のかおりの一滴の散るように、洗えば洗うほど流せば流すほど香が広がる。
伯爵の釵 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
あたりをしずかに、おさえるばかり菊のかおりで、これをに持って参って、本堂に備えますと、かわりの花をさずかって帰りますね。
菊あわせ (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
しずくを切ると、雫までぷんにおふ。たとへば貴重なる香水のかおりの一滴の散るやうに、洗へば洗ふほど流せば流すほどが広がる。
伯爵の釵 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
港口みなとぐちへ飛んで消えるのを見ました……あつと思ふと夢はめたが、月明りに霜の薄煙うすけぶりがあるばかり、船の中に、尊いこうかおりが残つたと。
印度更紗 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
縁側に手をつかえて、銀杏返いちょうがえしの小間使が優容しとやかに迎えている。後先あとさきになって勇美子の部屋に立向うと、たちまち一種身に染みるような快いかおりがした。
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
おのずからならぬかおり、襟脚の玉暖かく、と血の湧いた二の腕に、はらはらと冷くかかった、黒髪の末つややかにひるがえり、遮るものはなくなった。
わか紫 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そしてスーと立って、私の背後うしろへ、足袋の白いのがさっと通って、香水のかおりが消えるように、次の四畳を早足でもって、トントンと階下したへ下りた。
吉原新話 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
嫋娜なよやかに出されたので、ついその、のばせばとどく、手を取られる。その手が消えたそうに我を忘れて、可懐なつかしかおりに包まれた。
沼夫人 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)