彼方かなた)” の例文
鯨の屍骸は、狂おしくはやい潮流に乗って、矢のように走り出したのだ。しかも、その方向は、はるか彼方かなたに浮ぶ氷山を目指している。
怪奇人造島 (新字新仮名) / 寺島柾史(著)
中空ちゅうくうには大なるかさいただきしきいろき月を仰ぎ、低く地平線に接しては煙の如き横雲を漂はしたる田圃たんぼを越え、彼方かなた遥かにくるわの屋根を望む処。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「ここの山際やまぎわから、彼方かなた、石井山のかわずはなの下まで、筑前が馬を走らすゆえ、その馬蹄のあとを、築堤の縄とりとせい。よろしいか」
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
海を圧する歓呼と万歳声裡に船橋塔フォアキャッスル彼方かなたマストに高く英国旗ユニオンジャックなびかせたイキトス号はいよいよ巨体を揺すぶって埠頭を離れ始めたが
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
彼方かなた山背やまかげからぞろ/\とあらはれてたが、鐵車てつしやるやいな非常ひじやう驚愕おどろいて、奇聲きせいはなつて、むかふの深林しんりんなかへとせた。
「誰?」と言いかけて走り出で、障子の隙間すきまより戸外おもてを見しが、彼は早や町の彼方かなたく、その後姿は、隣なる広岡の家の下婢かひなりき。
照葉狂言 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
即ち坂を彼方かなたに下り尽せば其処そこにはダージリンという都市があって、夏も甚だ涼しく印度インドの大官連の避暑地となっている所である。
三たび東方の平和を論ず (新字新仮名) / 大隈重信(著)
進みましょう、前へ! 僕らは、はるか彼方かなたに輝いている明るい星をめざして、まっしぐらに進むのだ! 前へ! おくれるな、友よ!
桜の園 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
こう云う弦四郎は眼を走らせて、遥かの彼方かなたに森林に蔽われ、頂きだけを出している、洞窟のある岩の山を、意味ありげに眺めやった。
生死卍巴 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
なるほど、借用のお芝居の衣裳道具が入れてあったに相違なく、そのふたが、遥か彼方かなたにけし飛んで、中身が無残にはみ出している。
大菩薩峠:35 胆吹の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
彼方かなたには冠をいただける大司教があり、はるか高くには太陽のごとく輝いたる中に、帝冠を戴きまぶしきまでに輝いてる皇帝があった。
我かならず三二万歳をうたふべしと、きて香央に説けば、彼方かなたにもよろこびつつ、妻なるものにもかたらふに、妻もいさみていふ。
彼方かなたの床の間の鴨居かもいには天津てんしん肋骨ろっこつが万年傘に代へてところの紳董しんとうどもより贈られたりといふ樺色かばいろの旗二流おくり来しを掛けたらしたる
病牀六尺 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
流れの彼方かなたには、ルーヴル美術館のおごそかな正面が広げられていて、その退屈そうな小窓には、夕陽ゆうひが生々とした残照を投げていた。
代表的なレコードは、今は市場にないが『ノルマ』の「山の彼方かなたは」(八一五八)、『ファウスト』の「黄金こがねこうし」などであったろう。
幾重にも突兀とっこつした山々のため、指ざす彼方かなた模糊もことした想像であり、語って聞かされた状景はなかなか実感となって浮ばなかった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
やがて、彼は、こぶしを握り固め、闇の彼方かなたに、うとうとと眠りかけた村のほうへ、それを振ってみせる。そして、大袈裟おおげさな調子で叫ぶ——
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
締直しめなほし支度をして行んとする故彼方かなたに居る雲助共は大聲おほごゑあげヤイ/\よくそんな事でいける者か何でも乘てもらへ/\今時生若なまわかい者が大金を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
老婆は大きな眼鏡をかけて冬の仕事に取かかって襤褸つづれぬっている……鳥籠の上に彼方かなた家根やねの上から射し下す日はあたたかに落ちて
不思議な鳥 (新字新仮名) / 小川未明(著)
野母のも半島の彼方かなたには、玄界灘がはてしもなく、別にまた橘湾と玄海を結びつける天草灘があり、大小の天草列島が、その間に星散碁布せいさんきふする。
雲仙岳 (新字新仮名) / 菊池幽芳(著)
縁側から見渡せば、一めんに崩れ落ちた家屋のかたまりがあり、やや彼方かなたの鉄筋コンクリートの建物が残っているほか、目標になるものも無い。
夏の花 (新字新仮名) / 原民喜(著)
大江山課長は双眼鏡を借りて指さされたはる彼方かなたの海上を見た。なるほど水上署の旗をひるがえした一艘の汽艇が矢のように沖合を逃げてゆく。
地中魔 (新字新仮名) / 海野十三(著)
静かな日の影はうらうらと向う岸の人家に照りえて、その屋並の彼方かなたに見える東山はいつまでも静かな朝霧にめられている。
黒髪 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
神谷の言葉に彼方かなたながめると、いかにも、森の中の怪屋のあたりとおぼしく、一団の火焔かえんが、大きな狐火きつねびのようにメラメラと燃えている。
人間豹 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
そして、宮様は一瞬にして雲の彼方かなたに消えてゆく人である。どうして、そのような人を尊敬しなければ生きてゆけないのだろう。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
その一はイリのイリにおけるごとく他の一の光をうけて返すと見え、第三なるは彼方かなた此方こなたより等しく吐かるゝ火に似たり 一一八—一二〇
神曲:03 天堂 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
池の彼方かなたが芝生の築山、築山の真上に姿優しい姫神山が浮んで空にはちぎれ/\の白雲が流れた。——それが開放あけはなした東向の縁側から見える。
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
從つて、ヘイの彼方かなたの共有地にこの頃張られたジプシイの天幕テントを見に散歩しようと云ひ出してゐたのも延期になつてしまつた。
北の方に湖の尽きているその彼方かなたは瑞西の首都 Zürichチュリヒ であって、ゆうべまでそこの旅舎に宿とまっていたのであった。
リギ山上の一夜 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
わが腰を休めたる石の彼方かなたには、山より集り落つる清水のかけひありて、わが久しく物を思へる間、幾人いくたり少女をとめ來りて、その水を汲みては歸りし。
秋の岐蘇路 (旧字旧仮名) / 田山花袋(著)
川水は荒神橋の下手ですだれのようになって落ちている。夏草の茂った中洲なかす彼方かなたで、浅瀬は輝きながらサラサラ鳴っていた。鶺鴒せきれいが飛んでいた。
ある心の風景 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
ホールの庭にはきりの木がえ、落葉が地面に散らばつて居た。その板塀いたべいで囲まれた庭の彼方かなた、倉庫の並ぶ空地あきちの前を、黒い人影が通つて行く。
田舎の時計他十二篇 (新字旧仮名) / 萩原朔太郎(著)
船が伊東の海岸を離れる頃は、大島がかすかに見えた。その日は、ゆきの時と違って、海上一面に水蒸気が多かった。水平線の彼方かなたは白く光った。
(新字新仮名) / 島崎藤村(著)
但馬守たじまのかみなつかしさうにつて、築山つきやま彼方かなたに、すこしばかりあらはれてゐるひがしそらながめた。こつな身體からだがぞく/\するほどあづまそらしたはしくおもつた。
死刑 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
海の彼方かなたに、薄茶色に煙りながら、桜島岳が荒涼としてそそり立った。あのふもとに行くのだと思った。皆、黙ってあるいた。衣嚢が肩に重かった。
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
荒れはてた野原の彼方かなたの遠くの窓から流れてくる光が、ちらほらとほのめいているのを、彼はどんなにさびしい思いをして見やったことだろう。
稲穂の実り豊かに垂れている田の彼方かなた濃藍色のうらんしょくそびえる山山の線も、異国の風景を眼にして来た梶には殊のほか奥ゆかしく
厨房日記 (新字新仮名) / 横光利一(著)
つねにそれはぼくには異国の彼方かなたにしかなく、せめて自家製の「充実」をかんじたいがために、ぼくはつねになにかに熱中していたいと思った。
煙突 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
事実、「四十一度十三分の仰角」で見て、「はるか彼方かなたに」見える大木というのは、あまりに高過ぎて不自然、あるいはむしろ不合理であろう。
黄金虫 (新字新仮名) / エドガー・アラン・ポー(著)
左右一面に氷の面が地平の遙か彼方かなたまで果てしなくひろがっている。けさ運転士は南方に氷塊の徴候のあることを報じた。
このように、颱風は大陸と日本との間隔を引きはなし、この帝国をわだつみの彼方かなたの安全地帯に保存するような役目をつとめていたように見える。
颱風雑俎 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
或日黄金丸は、用事ありて里に出でし帰途かえるさ、独り畠径はたみち辿たどくに、見れば彼方かなたの山岸の、野菊あまた咲き乱れたるもとに、黄なるけものねぶりをれり。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
彼方かなたの席には小山の妻君がお登和嬢と並びし事とて一々料理の説明を聞き「お登和さん、このマルボントースはやわらかで結構ですがどうしてこしらえます」
食道楽:冬の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
電車通を、右に折れたとき、半町ばかり彼方かなたの自分の家の前あたりに、一台の自動車が、止まっているのに気が付いた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
雜木林ざふきばやしこずゑしろつらなつて西にしとほ山々やま/\彼方かなた横臥たのがにはか自分じぶん威力ゐりよくたくましくすべきふゆ季節きせつ自分じぶんてゝつたのにがついて
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
ここは人家も少からず、町の彼方かなたに秩父の山々近く見えて如何いかにも田舎びたれど、熊谷より大宮郷に至る道の中にて第一の賑わしきところなりとぞ。
知々夫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
そしてその出来事自体はその翌日には一年昔の記憶の彼方かなたへ遠ざけられているのであったが、ただ顔だけが切り放されて思いだされてくるのである。
白痴 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
侍臣剣を抜きて流れに架すとそれを歩んで彼方かなたの小山のふもとの穴に入り少時の後出て剣を踏んで王の口に還り入った。
大海の彼方かなたの国から訪れて来て、年ごとの豊産と繁栄とを祝福したまう神がマユンガナシまたはマヨの神であった。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
いま、はるか彼方かなたの縁の雨戸に、コトリと、外から人でもさわるような物音がして、萩乃は、びくっと首をあげた。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)