谷中やなか)” の例文
そして彼女は自分の住所姓名だけは確実に書きながら、先の住所は簡単に巴里パリとか、赤坂とか、谷中やなかとか、本郷と書いて置くだけだ。
春:――二つの連作―― (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
私はこの老女ひと生母ははおやをたった一度見た覚えがある。谷中やなか御隠殿ごいんでんなつめの木のある家で、蓮池はすいけのある庭にむかったへやで、お比丘尼びくにだった。
さうして秋の淋しさは人の前髮を吹く風にばかり籠めてゞもおく樣に谷中やなかの森はいつも隱者のやうな靜な體を備へてぢつとしてゐた。
木乃伊の口紅 (旧字旧仮名) / 田村俊子(著)
二十八日の夜うしの刻に、抽斎は遂に絶息した。即ち二十九日午前二時である。年は五十四歳であった。遺骸いがい谷中やなか感応寺に葬られた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
かく是等を救助せずして静まるべきの筋にあらずとて、先づ救民小屋造立つくりたての間、本所回向院えこういん谷中やなか天王寺、音羽おとは護国寺、三田みた功運寺
何でも谷中やなかに御友達とかの御葬式があるんですって。それで急いで行かないと間に合わないから、上っていられないんだとおっしゃいました。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
谷中やなかなら、墓原の森の中を根岸で下りる、くらがり坂が可い。踏切の上の。あすこいらで、笹ッ葉の下へでも隠れておいで。)
式部小路 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
それにしても、お直の死骸をどこへか処分しなければならないので、お豊は更にお紋の母と相談の上で、谷中やなかまで出て行った。
半七捕物帳:35 半七先生 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
四十九日の蒸物むしものを、幸さんや安公に配ってもらってから、その翌日あくるひ母親とお庄とは、谷中やなかへ墓詣りに行った。その日はおもに女連であった。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
上野の堂坊のいらかが、冬がすみのかなたに、灰黒く煙って、楼閣の丹朱にしゅが、黒ずんだ緑の間に、ひっそりと沈んで見える、谷中やなかの林間だ。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
すると、四、五日の後、若井氏は突然私の谷中やなかの宅に訪ねて来られました(私は、その頃は谷中茶屋町ちゃやまちに転居しておった)。
谷中やなかの墓地近くになっても貸家はみつかりそうにもなかった。いたずらに歩くばかりで、歩きながら、考えることは情ないことばかりだった。
貸家探し (新字新仮名) / 林芙美子(著)
吉原よしわらだといやァ、豪勢ごうせいびゃァがるくせに、谷中やなか病人びょうにんらせだといて、馬鹿ばかにしてやがるんだろう。伝吉でんきちァただの床屋とこやじゃねえんだぜ。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
一応、そう反駁はしてみたものゝ、この父に、それ以上理屈は通らぬとあきらめて、彼は、谷中やなか警察署にでかけて行つた。
光は影を (新字新仮名) / 岸田国士(著)
何という不安な日がそれから二人の上に続いたろう。節子はその心配を胸にもちながら、高輪から谷中やなかの家へ引移って行ったことを思い出した。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
谷中やなかの方にチト急な用があって、この朝がけ、出尻をにょこにょこうごかしながら、上野山内さんないの五重の塔の下までやってくると、どこからともなく
平賀源内捕物帳:萩寺の女 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
「お屋敷に、御奉公していた源次という男が昨夜谷中やなかで殺されました。別段お掛り合いがあるわけではございませんが、念のためお届け申します」
谷中やなかへ帰るとまた暗く、寒く、どうかすると寒の雨降る夜中ごろにみかん箱のようなものに赤ん坊のなきがらを収めたさびしいお弔いが来たりした。
銀座アルプス (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
即ち左手には田町たまちあたりに立続く編笠茶屋あみがさぢゃやおぼしい低い人家の屋根を限りとし、右手ははるか金杉かなすぎから谷中やなか飛鳥山あすかやまの方へとつづく深い木立を境にして
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
清「谷中やなか日暮ひぐらし瑞応山ずいおうざん南泉寺なんせんじと云う寺が有ります、夫に宮内健次郎みやのうちけんじろうと云う者が居ますが、夫へは多分参りますまい」
政談月の鏡 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
三日みつかは孫娘を断念し、新宿しんじゆくをひたづねんとす。桜田さくらだより半蔵門はんざうもんに出づるに、新宿もまた焼けたりと聞き、谷中やなか檀那寺だんなでら手頼たよらばやと思ふ。饑渇きかついよいよ甚だし。
今その格子戸を明けるにつけて、細君はまた今更に物を思いながら外へ出た。まだれたばかりの初夏しょか谷中やなかの風は上野つづきだけにすずしく心よかった。
鵞鳥 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
谷中やなかから上野を抜けて東照宮の下へ差掛さしかかった夕暮、っと森林太郎という人の家はこの辺だナと思って、何心なにごころとなく花園町はなぞのちょう軒別けんべつ門札もんさつを見て歩くとたちまち見附けた。
鴎外博士の追憶 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
江戸の東北、向島むこうじま浅草から谷中やなか根岸ねぎしへかけて寺が多い。その上どころの湯灌場買いを一手に引き受けて、ほっくりもうけているのが神田連雀町れんじゃくちょうのお古屋津賀閑山。
つづれ烏羽玉 (新字新仮名) / 林不忘(著)
谷中やなか知人ちじんいゑひて、調度萬端てうどばんたんおさめさせ、此處こゝへとおもふに町子まちこ生涯せうがいあはれなることいふはかりなく、暗涙あんるいにくれては不徳ふとくおぼしゝるすぢなきにあらねど
われから (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
一つは本郷追分ほんごうおいわけから谷中やなかまでひと舐めさ、こっちはおめえ小石川から出たやつが上野へぬけてよ、北風になったもんで湯島から筋違橋すじかいばし、向う柳原やなぎわら、浅草は瓦町かわらちょうから茅町かやちょう
柳橋物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
鳩巣きゅうそうの『駿台雑話すんだいざつわ』にも「老僧が接木」なる一章があり、三代将軍が谷中やなか辺へ鷹狩に出た時、将軍とは知らずに今のような理窟をいって聞かした、という話が出ている。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
白翁堂勇斎はくおうどうゆうさいに知らし、勇斎の注意で萩原は女の住んでいると云う谷中やなか三崎町みさきちょうへ女の家を探しに往って、新幡随院しんばんずいいんうしろ新墓しんはかと牡丹の燈籠を見、それから白翁堂の紹介で
牡丹灯籠 牡丹灯記 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
ヤツが谷中やなか谷村やむらなどのごとく、ヤの一字音に化しているのを見ると、本来は拗音ようおんであったかと思うが、北武蔵から上州辺にかけては、ヤトといって谷戸の二字を宛てている。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
門司から備後びんごの尾ノ道まで乗りました汽船にも酔いもせずに、三日三夜かかって新橋に着きますと、岡沢先生御夫婦のお迎えを受けまして谷中やなかの閑静なお宅に御厄介になりましたが
押絵の奇蹟 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
谷中やなかの秋の夕暮は淋しく、江戸とは名ばかり、このあたりは大竹藪おおたけやぶ風にざわつき、うぐいすならぬむらすずめ初音町はつねちょうのはずれ、薄暗くじめじめした露路を通り抜けて、額におしめのしずくを受け
新釈諸国噺 (新字新仮名) / 太宰治(著)
ところで昔、大口が谷中やなかの方で開いていたという薬屋の店はどうなったろう。
議会見物 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
転じて山の手方面では谷中やなか諏訪すわの台、諏訪明神社前の崖上、ここにも掛茶屋があって、入谷、日暮里にっぽり田圃たんぼ越しに遠く隅田川、紫がかった筑波の姿まで眼界広濶こうかつ、一碗の渋茶も嬉しい味
明治世相百話 (新字新仮名) / 山本笑月(著)
先ず客を招く準備として、襖絵ふすまえ揮毫きごう大場学僊おおばがくせんわずらわした。学僊は当時の老大家である。毎朝谷中やなかから老体を運んで来て描いてくれた。下座敷したざしきの襖六枚にはあしがん雄勁ゆうけいな筆で活写した。
江戸の人々は、一日も早く、世間が平和になるようにと希望のぞみながら、家根へ上ったり、門口に立ったりして、上野の方を眺めていた。長州の兵は、根津と谷中やなかから、上野の背面を攻めていた。
甲州鎮撫隊 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
谷中やなかの墓地を通って見ても、木の幹の影はやはり紫では決してなかった。
めでたき風景 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
そこに立ちますと、団子坂から、蛍の名所であった蛍沢や、水田などを隔てて、はるかに上野谷中やなかの森が見渡され、右手には茫々ぼうぼうとした人家の海のあなた雲煙の果に、品川しながわの海も見えるのでした。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
一月十八日 谷中やなか本行寺ほんぎょうじ播磨屋はりまや一門、水竹居、たけし、立子、秀好。
五百五十句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
家のない私は三十前後のころ谷中やなか真如院しんにょいんという寺に仮寓かぐうしていた。
独り碁 (新字新仮名) / 中勘助(著)
遠藤清子の墓石おはかの建ったお寺は、谷中やなか五重塔ごじゅうのとうを右に見て、左へ曲った通りだと、もう、法要のある時刻にも近いので、急いで家を出た。
遠藤(岩野)清子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
女は人込みの中を谷中やなかの方へ歩きだした。三四郎もむろんいっしょに歩きだした。半町ばかり来た時、女は人の中で留まった。
三四郎 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
そらまた化性けしやうのものだと、急足いそぎあし谷中やなかく。いつもかはらぬ景色けしきながら、うで島田しまだにおびえし擧句あげくの、心細こゝろぼそさいはむかたなし。
弥次行 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
江戸の谷中やなかの時光寺という古い寺で不思議の噂が伝えられた。それはその寺の住職の英善というのが、いつの間にか狐になっていたというのである。
半七捕物帳:25 狐と僧 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
電話が切れた後のシーンとした沈黙は谷中やなかの方の夏の夜へ、明るく電燈のいた町中の自働電話室へ、その電話口に立つ節子の方へ岸本の心を誘った。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
その頃まで何事もなかつたらしいが、お葉が鈴川主水と別れて、一人立ちをすることになり、谷中やなか三崎町に茶店を開いたのは、そんなに遠いことではない
「なあに、今夜、おれがしょぴき出すから、女を一匹、谷中やなか鉄心庵てっしんあんッて古寺にかつぎ込んでくれりゃいいんだ」
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
さァさた、こっちへおいで、たかやすいの思案しあん無用むよう思案しあんするなら谷中やなかへござれ。谷中やなかよいとこおせんの茶屋ちゃやで、おちゃみましょ。煙草たばこをふかそ。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
田中舘たなかだて先生の肖像を頼む事に関して何かの用向きで、中村清二せいじ先生の御伴をして、谷中やなかの奥にその仮寓かぐうを尋ねて行った。それは多分初夏の頃であったかと思う。
中村彝氏の追憶 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
けれども谷中やなかへは中々来ない。可也かなり長い葬列はいつも秋晴れの東京の町をしずしずと練っているのである。
点鬼簿 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
三月中梅痴は梁川星巌、岡本花亭、大沼枕山らと谷中やなか天王寺の桜花を賞したことが諸家の作に見えている。八月十三日に梅痴は結城に帰る時枕山を伴って行った。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)