敦賀つるが)” の例文
おかには南蛮なんばん屋敷があり、唐人館とうじんかんむねがならび、わんには福州船ふくしゅうぶねやスペイン船などの影がたえない角鹿つるが(いまは敦賀つるがと書く)の町である。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
新道しんだう春日野峠かすがのたうげ大良だいら大日枝おほひだ絶所ぜつしよで、敦賀つるがかねさきまで、これを金澤かなざはから辿たどつて三十八里さんじふはちりである。かに歩行あるけば三年さんねんかゝる。
麻を刈る (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
敦賀つるが湾から北へ二十キロ近くいった、干飯崎というところです」と隆二は答えた、「漁港としてはかなり大きな町ですけれど」
おごそかな渇き (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
十四日にあたかも露西亜から帰着した後藤男を敦賀つるがに迎え、その翌日は米原まいばらまで男爵と同車し、随行諸員を遠ざけて意見を交換したそうだ。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
なるべく、夜更よふけに着く汽車を選びたいと、三日間の収容所を出ると、わざと、敦賀つるがの町で、一日ぶらぶらしてゐた。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
二月の朔日ついたち、二日は敦賀つるが本正寺ほんしょうじで大将方のお調べがあり、四日になって武田伊賀守はじめ二十四人が死罪になった。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
大阪本杜で打合せを済まして大阪へ着いた日に又大阪を立つて後藤男を迎へる為に敦賀つるがへ行つた。敦賀にはなつかしき人が数名居る、皆謂ふ所の心友だ。
旅日記:東海道線 (新字旧仮名) / 二葉亭四迷(著)
正太はあてもなく敦賀つるがの町をさまよってマリ子をさがしてあるいたが、なんの手がかりもなく三日の日がすぎた。
人造人間エフ氏 (新字新仮名) / 海野十三(著)
のちに越前敦賀つるがに降ってけいたい菩薩ぼさつあらわれ、北陸道を守護したもうなどと、大変なでたらめをいっている。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
かくてタケシウチの宿禰がその太子をおつれ申し上げてみそぎをしようとして近江また若狹わかさの國を經た時に、越前の敦賀つるがに假宮を造つてお住ませ申し上げました。
児玉こだま氏は越前国敦賀つるがの城主酒井さかい右京亮うきょうのすけ忠毗ただやすの家来某のむすめであった。二百石八人扶持の家である。与四郎の文内に弟があり、妹があって、彼を宗兵衛そうべえといい、これ岡野おかのといった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「実はな、敦賀つるがまで、お連れ申さうと思うたのぢや。」笑ひながら、利仁は鞭を挙げて遠くの空を指さした。その鞭の下には、的皪てきれきとして、午後の日を受けた近江あふみの湖が光つてゐる。
芋粥 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
その足で鯖江さばえから敦賀つるが——江州へ出て京都へ上るという段取りに心をきめました。
大菩薩峠:40 山科の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
大和やまと地方御経営の時代で、東は皇室に御縁故深き伊勢地方、西は播磨はりまあたり迄、北は敦賀つるが地方あたりまでが、追々皇化に浴して来たが、他の地方にはなほ多くの土豪が割拠してゐたのである。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
呂宋助左衛門の内儀は敦賀つるがの大谷からきたひとだと聞いている。
呂宋の壺 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
敦賀つるが 七二、八 京都 四九、二
伊吹山の句について (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
越前えちぜん敦賀つるがのかにが
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
そして敦賀つるがから便船で、出雲美保ヶ関へゆき、そこで待っていた自家の船便で、やがて隠岐の国府へ帰ったのが、はや二月近くであった。
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
敦賀つるが良津りやうしんゆゑ苦勞くらうはないが、金石かないははうふねおきがかりして、なみときは、端舟はしけ二三里にさんりまれなければらぬ。これだけでもいのちがけだ。
麻を刈る (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
敦賀つるが大分おおいた名東みょうとう北条ほうじょう、その他福岡ふくおか鳥取とっとり、島根諸県には新政をよろこばない土民が蜂起ほうきして、斬罪ざんざい、絞首
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
当時の越前には福井の松平、鯖江さばえ間部まなべ、勝山に小笠原、敦賀つるがに酒井、大野に土井の五藩があった。
ひとごろし (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
たとえば越前敦賀つるが郡の東郷村の諏訪すわ社では、シトギは三合三勺の米をもって作った三つの丸い餅であった。餅とはいっても水練りの粉を固めたものだったろうと思う。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
そののちは、べつにかわったこともなく、ウラル丸はついにめでたく敦賀つるがの港にいかりをおろした。ウラル丸の検疫けんえきがすんだ。もうこのうえは上陸してもよいということになった。
人造人間エフ氏 (新字新仮名) / 海野十三(著)
それでその浦を血浦ちうらと言いましたが、今では敦賀つるがと言います。
三名をのせた小舟は、風浪の途中、便船に拾われ、難破なんぱもせずに、いちど越後柿崎かきざきの港へ寄り、やがて越前の敦賀つるがへ上がった。
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一宿ひとやどり。一宿ひとやどりして、こゝを、またこゝからつて、大雪おほゆきなか敦賀つるがしたこともある。くるまはきかない。俥夫くるまやあさまだき提灯ちやうちん道案内みちあんないつた。
麻を刈る (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
第四は大阪港湾局の巡邏じゅんら船の乗組員四名の怪死、第五は敦賀つるが、第六は静岡県沼津、第七は横浜、——こうして七件の怪殺人がいずれも犯人不明のまま、第一の地の長崎から
劇団「笑う妖魔」 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
近江の大津及び長浜、越前の敦賀つるが、因幡の鳥取市等に片原町という町がある。大津の上片原町・下片原町は山の傍らの地で、人家片側にあるがゆえに片原という(近江輿地誌略おうみよちしりゃく)。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
なにしろ、お前さま、昨年の十一月に伊那を出るから、わたくしも難儀な旅をいたしまして、すこしからだを悪くしたものですから、しばらく敦賀つるがのお寺に御厄介ごやっかいになってまいりました。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
遠くの方の敦賀つるがの蟹です。
敦賀つるが
人造人間エフ氏 (新字新仮名) / 海野十三(著)
そして、敦賀つるがの港に、船を廻して待っていましょう。もうお姫様ひいさまが幸福の御生涯は船出の支度をととのえて彼方に待っているのでございます
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
汽車きしや新橋しんばし昨夜さくや九時半くじはんつて、今夕こんせき敦賀つるがはいらうといふ、名古屋なごやでは正午ひるだつたから、めし一折ひとをりすしかつた。
高野聖 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
越前敦賀つるが附近の村で共有地のことを垣内山と呼んでいるのを聞いたことがある。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
二十五、六日のころには一同は加州侯の周旋で越前の敦賀つるがに移った。そこにある三つの寺へそう人数を割り入れられ、加州方からは朝夕の食事にさかなを添え、昼は香の物、酒も毎日一本ずつは送って来た。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
そこから小手をかざしてみると、うッすらとした昼霞ひるがすみのあなたに、若狭わかさ三国山みくにやま敦賀つるが乗鞍のりくら北近江きたおうみの山々などがまゆにせっしてそびえている。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いまから二三年前ねんまへのこと、其時そのときは、ふね出懸でがけから暴風雨模樣あれもやうでな、かぜく、あめる。敦賀つるが宿やど逡巡しりごみして、逗留とうりうしたものが七あつて、つたのはまあ三ぢやつた。
旅僧 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
国境のとち峠にかかると、西に裏日本敦賀つるがの海が早や望まれ、北方越前の山野はひらけて馬蹄の下にあった。
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
けばこれから越前ゑちぜんつて、ちがふが永平寺えいへいじたづねるものがある、たゞ敦賀つるが一泊いつぱくとのこと。
高野聖 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
三成と刑部とは、莫逆ばくぎゃくの友である。——佐和山と、敦賀つるがとは離れていても、心はお互いに常に近かった。
大谷刑部 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
けれども、汽車は、越前の三国、敦賀つるが。能登の富来、輪島。越中の氷見、魚津。佐渡。また越後の糸魚川いといがわ能生のう、直江津——そのどこへ売られたのか、捜しようがなかったのです。
河伯令嬢 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
江州高島郡から若狭わかさの熊川をこえて、越前の敦賀つるがをさして進むのだった。行く行く、敵のとりでや関を焼き立て、山また山をこえて、月のうちに、敦賀まで攻め入った。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
道連みちづれになつた上人しやうにんは、名古屋なごやから越前えちぜん敦賀つるが旅籠屋はたごやて、いましがたまくらいたときまで、わたしつてるかぎあま仰向あふむけになつたことのない、つま傲然がうぜんとしてものないたち人物じんぶつである。
高野聖 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
「さ……刑部少輔しょうゆう様は、越前の敦賀つるが城から御発向で、やはり今度の上杉攻めには、徳川内府様の軍にいてお出ましになるとは聞いていたが、いつ頃この辺を通るやら?」
大谷刑部 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一度は、たとえば、敦賀つるが湾でありました——絵にかいた雨竜あまりょうのぐるぐると輪を巻いて、一条ひとすじ、ゆったりと尾を下に垂れたような形のものが、降りしきり、吹煽ふきあおって空中に薄黒い列を造ります。
雪霊続記 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
大日越だいにちごえの難所をこえ、ようやく他郷へはいった二人は、しばらく越前の穴馬在あなまざいひそんでいたが、美濃みのの乱も四隣の形勢も、ほぼ見通しがついたので、やがて越前の敦賀つるがへ出
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
近江おうみ、越前の国境くにざかいすさまじい山嘯やまつなみ洪水でみずがあって、いつも敦賀つるが——其処そこから汽車が通じていた——へく順路の、春日野峠かすがのとうげを越えて、大良たいら大日枝おおひだ山岨やまそば断崕きりぎしの海に沿う新道しんみちは、崖くずれのために
栃の実 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
八月十二日、岐阜ぎふを出て、十四日敦賀つるがに入ると同時に開始された越前門徒一揆もんといっきの討伐だった。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「さあ、御武辺のことはよう分りませぬが、敦賀つるがノ津や越後の国府には、よい鍛冶や具足師もいるそうで、みんな船便を頼んで、あちらへ、やらせているのではございませぬかな」
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして直義もまた敦賀つるがを発して、信濃に入り、ひがしへ向ったとの風説が高い。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)