ひさし)” の例文
「三輪の親分なんざ、ごまめの齒ぎしりで、お長屋の總後架そうこうかから赤金あかゞねひさしを睨んで、半日いきんでゐたつて、良い智慧は出ませんよ」
わたしはそんなことをかんがえながら旧幕の世の空気がくらいひさしのかげにただよっているような家作やづくりを一軒々々のぞいてあるいた。
蘆刈 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
炭町、具足町ぐそくちょうの家々のひさしの朱いろの矢のように陽線ひかりが躍り染めて、冬の朝靄のなかに白く呼吸づく江戸の騒音が、聞こえ出していた。
しかし科学のひさしの下に発達したものの根源は科学以前から科学の具体的内容とは無関係に存在する人間固有の悟性の方則なのである。
科学と文学 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
『出来るよ、君、』とユースタスは言って、これから仮睡うたたねでも始めようかとでもいったように、帽子のひさしを目の上までぐっと下した。
そしておどろくべきことには、ひさしのように突き出た格納庫の中に、数台の飛行機さえも尾翼びよくの方を見せるようにしておかれてあった。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
暑いある日の午後、白絣しろがすりはかまという清三の学校帰りの姿が羽生のひさしの長い町に見えた。今日月給が全部おりて、ふところの財布が重かった。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
せまい歩道の上に反射光線をうけて硝子ひさしがはり出されているのが見え、雪の夜の暗い通りのそこ一点だけ陽気な明るさに溢れていた。
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
敦夫は外套の衿を立てて雨帽子のひさしを深く引下し、銃を右の小脇に抱えて街道へ出ると、耕地のあいだを真直まっすぐに北へ向って歩きだした。
殺生谷の鬼火 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
湯は竈屋のひさしの下で背戸の出口に据えてある。あたりまっ暗ではあれど、勝手知ってる家だから、足さぐりに行っても子細はない。
隣の嫁 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
ひさしのもとにゆかありて浅き箱やうのものに白くかくなる物をおきたるは、遠目とほめにこれ石花菜ところてんを売ならん、口にはのぼらずとおもひながらも
その入口のひさしの所に相生警察署巡査合宿所とした文字があった。その先は広っ場になって向うの方にたくさんの人が動いていた。
死体の匂い (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
外はクワッと目映まぶしいほどよい天気だが、日蔭になった町の向うのひさしには、霜がうっすりと白く置いて、身が引緊るような秋の朝だ。
世間師 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
最後の本意ない別れをしたのこそ新堀端であったけれど、古着屋のひさし連ねた佐竹の細い賑やかな通りも、よく一緒に歩いたところだっけ。
寄席 (新字新仮名) / 正岡容(著)
すると泰さんは落着き払って、ちょいと麦藁帽子のひさしへ手をやりながら、「阿母おかあさんは御宅ですか。」と、さりげなく言葉をかけました。
妖婆 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
そのころ私は赤ん坊で、家は大火事に焼かれて土蔵前にひさしかけをしていたというから、明治十三、四年のころでもあったろう。
それだのにおなゆきいたゞいたこゝのひさしは、彼女かのぢよにそのつたこゝろあたゝめられて、いましげもなくあいしづくしたゝらしてゐるのだ。
日の光を浴びて (旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
寝殿の南のひさしの間の端に定例どおり中将が南向いて席につき、北向きに主人の座に対して来会者の親王がた、高官たちの席が作ってあった。
源氏物語:44 匂宮 (新字新仮名) / 紫式部(著)
この狂人きちがいは、突飛ばされず、打てもせず、あしらいかねた顔色がんしょくで、家主は不承々々に中山高のひさしを、堅いから、こつんこつんこつんとはじく。
白金之絵図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
その男は労働者のような服装をして、長いひさしのついた無縁帽ふちなしぼうをかぶっていたが、その下からまっ白い髪の毛が少し見えていた。
しかし胸に手を置いて寝た結果、苦しくなって目が覚めたことはたしかである。目を覚して気がつくと、小夜時雨さよしぐれひさしに寂しい音を立てている。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
雨としてはひさしに響がないし、谿川としてはいきおいが緩漫過ぎるとまで考えた彼の頭は、同時にそれよりはるか重大な主題のために悩まされていた。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
まばらなマロニエの樹立こだちの中央に例の寛衣くわんいを着けてけんを帯びひさしの広い帽を少し逸反そりかへらしてかぶつた風姿の颯爽さつさうとしたリユウバンスの銅像が立つて
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
己が会釈をすると、エルリングは鳥打帽のひさしに手を掛けたが、ぐそのまま為事を続けている。しばらく立って見ている内に、階段は立派に直った。
冬の王 (新字新仮名) / ハンス・ランド(著)
ただ夏のゆうべが涼しく夜につながろうとしているばかりだった。葉子はきょとんとしてひさしの下に水々しく漂う月を見やった。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
穴のなかに敷いてある偃松はいまつの枯葉の上に横になって岩のひさしの間から前穂高まえほたかの頂や屏風岩びょうぶいわのグラートとカールの大きな雪面とを眺めることが出来る。
ひさしの長く突き出た、薄黒い町の屋根は、永い雪解けのあとで、まだ乾き切らぬように、青黒く湿っている。その上に、いま、薄い日がさしている。
帰途 (新字新仮名) / 水野葉舟(著)
造ります際に数の都合上どうしても、きずのあるのを一つ使わねばならないので、ひさしの蔭に眼のつかない所へめたのです
真珠塔の秘密 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
はげしき寒さ骨に徹すと覚えてめし時は、夜に入りて雪はしげく降り、帽のひさし外套がいとうの肩には一寸ばかりも積りたりき。
舞姫 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
片手でひさしをつくって白い埃のまき上る方向を見定めると、そこらの町工場から煤けた顔の職工等がぞろぞろ出て来た。
鋳物工場 (新字新仮名) / 戸田豊子(著)
わたしはひさしのついた帽子をいで、しばらくその場で迷っていたが、やがて重い物思いにしずみながら、そこをはなれた。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
わたしは無遠慮に格子戸こうしど明けて中座させるも心なきわざと丁度目についた玄関のひさしに秋の蜘蛛くも一匹しきりに網をかけているさまを眺めながら佇立たたずんでいた。
雨瀟瀟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
現在の日野山の草庵を建ててから後にその草庵の東側に粗末ながらも三尺余のひさしを取付けて日除ひよけにして、その下で柴を折ったりするのに楽な様にした。
現代語訳 方丈記 (新字新仮名) / 鴨長明(著)
少し汗ばんでゐる馬を急がせてゆく、遠乘りらしい若侍の陣笠のひさしにも、もう夏らしい日がきらきらと光つてゐた。
半七捕物帳:01 お文の魂 (旧字旧仮名) / 岡本綺堂(著)
「おや」と思ってみると運転手台で李が新しい帽子のひさしに一寸ばかり指を上げてにこっと挨拶をしてみせた。私も嬉しくなって彼の方へ近寄って行った。
光の中に (新字新仮名) / 金史良(著)
一つには木造の構成から生れた形でありましょうが、特に風や雨の激しい日本では、深い軒やひさしが必要なのです。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
欅の大きなひさし看板に釣鈎つりばり河豚ふぐを面白い図柄に彫りつけてあるので、ひとくちに、神田の小河豚屋しおさいやで通る老舗しにせ
顎十郎捕物帳:04 鎌いたち (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
脱穀小屋のひさしの下に、貯蔵庫から玉蜀黍のそりをいて来た二ひきの馬が、首を垂れてだまって立って居ました。
耕耘部の時計 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
障子しょうじ欄間らんま床柱とこばしらなどは黒塗くろぬりり、またえん欄干てすりひさし、その造作ぞうさくの一丹塗にぬり、とった具合ぐあいに、とてもその色彩いろどり複雑ふくざつで、そして濃艶のうえんなのでございます。
と、火消しの一群が火の粉を蹴って駆け来り、その中の一人が、長梯子ながはしごを万年屋の大屋根のひさしに掛けました。そうして、するすると屋根へ上って行きました。
私もハッと気がついて相手の顔を見る。眼深まぶかにかぶった作業帽のひさしの奥の瞳が、かたくなに機関車がたぐり寄せる軌道の彼方に据えられたまま動きもしない。
私の家だけは早くこの形勢を察して、軒のひさしに五つばかりの巣箱を作ってやったが、雀が家鳩いえばとになるのは困難だと見えて、その半分はまだ空屋のままである。
店と言っても家構えがあるわけでなくまぐろさめを売る問屋の端の板羽目の前を借りてひさしを差出し、の下にほんの取引きに必要なだけの見本を並べるのであった。
とと屋禅譚 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
暮れ方、頭の君はお言葉どおりお見えになられた。しようがないので、ともかくも蔀を二間ほど押し上げ、縁に灯をともして、ひさしの間にお通しさせる事にした。
ほととぎす (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
かと思ふとまた黒い男の洋傘かうもりがさを窄めて突つ立てたやうなとがつた屋根、越後獅子の顎のはづれたやうなもの下駄箱の蓋をはね上げたやうにひさしの深い屋根もあります。
文化村を襲つた子ども (新字旧仮名) / 槙本楠郎(著)
高く釣りたる棚の上には植木鉢を置きたるに、なお表側の見付みつきを見れば入口のひさし、戸袋、板目なぞも狭きところを皆それぞれに意匠いしょうして網代あじろ、船板、洒竹などを用ゐ云々
「いき」の構造 (新字新仮名) / 九鬼周造(著)
で、母屋おもやを貸切って、ひさしで満足して、雪江さんの白いふッくりしたかおを飽かず眺めて、二人の話を聴いていると、松も饒舌しゃべるが、雪江さんも中々負ていない。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
だが戸外には、いま廊下に漂つてゐたと同じしつとりした、動かぬ空気があり、漆喰しつくひひさしの陰から照らしてゐるあかりが石だゝみの上にぽつと落ちてゐるばかりだつた。
朧夜 (新字旧仮名) / 犬養健(著)
私の軍帽のひさしを見下して、マジマジと探るように凝視していたが、イクラ凝視しても、何度眼をパチパチさしても私の顔を見る事が出来ないのが自烈度じれったいらしかった。
戦場 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
改めてこのほこらを見るに、木組きぐみひさし手斧ちょうなのあとなど、どことなく遠い時代のにおいがあって、建物としては甚だ粗末ですが、屋根においかぶさっている二本松と共に
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)