一重ひとえ)” の例文
オニユリの花は通常一重ひとえであるが、時に八重咲やえざきのものが見られ、これを八重天蓋やえてんがいと称するが、テンガイユリはオニユリの一名である。
植物知識 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
猩々緋しょうじょうひの服の上に、もう一重ひとえ草色繻子じゅすの肩ぎぬを着ていたが、その背には「ひときり」の一字が大紋みたいに金糸きんし刺繍ぬいとりしてあるのであった。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、ツイ障子一重ひとえ其処の台所口で、頓狂な酒屋の御用の声がする。これで、私は夢の覚めたようなかおになる。で、ぼやけた声で
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
それがもう一重ひとえ、セメンだるに封じてあったと言えば、甚しいのは、小さなかいが添って、箱船に乗せてあった、などとも申します。
半島一奇抄 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そいつはもう板壁一重ひとえの向側にいるのだ。だが、節穴が小さいのでその辺までは視線が届かぬ。向側の板壁が丸く限られて見えるばかりだ。
猟奇の果 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
岸本の下宿には高瀬という京都大学の助教授が独逸ドイツの方から来て泊っていた。この人の部屋は岸本の部屋と壁一重ひとえ隔てたぐ隣りにあった。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
そうして私と壁一重ひとえを隔てた向うの部屋にめられたまま、ああして夜となく、昼となく、私を呼びかけているらしい。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
その差はほんの皮一重ひとえのやうに見えながら実に大きな余波のひらきのあることに、このごろ学友の誰かれを眺めながらつくづく思ひ当ります。
死児変相 (新字旧仮名) / 神西清(著)
彼女は、その錫箔をがしてみた。すると、錫箔の下に、栗色くりいろのチョコレートは無くて、白い紙でもう一重ひとえ、包んであった。
空襲葬送曲 (新字新仮名) / 海野十三(著)
たゞ水源は水晶を産し、水は白水晶や紫水晶からにじみ出るものと思つて居た。春はその水晶山へ、はら/\と一重ひとえ桜が散りかかるのを想像する。
(新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
犬は彼等がとこへはいると、古襖ふるぶすま一重ひとえ隔てた向うに、何度も悲しそうな声を立てた。のみならずしまいにはそのふすまへ、がりがり前足の爪をかけた。
奇怪な再会 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
ただこの花でむずかしいのは、芽生めばえのうちから葉の形で八重やえ一重ひとえを見分けて、一重をてて八重をのこすことであった。
眼に写るものの見えぬほど、濃くまつわりはせぬが、薄絹を一重ひとえ破れば、何の苦もなく、下界の人と、おのれを見出すように、浅きものではない。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ソフィヤ・セミョーノヴナはわたしと壁一重ひとえの隣り合せで、やはり借家人からまた借りなんです。この階はすっかり間借人でいっぱいなんでしてね。
わたくしはすぐ耳元みみもとちかづいて、『わたくしでございます……』ともうしましたが、人間同志にんげんどうしで、枕元まくらもとびかわすのとはちがい、なにやらそこに一重ひとえへだてがあるようで
祖母は私の部屋と庭一重ひとえで向い合った母家の広い軒下に七輪しちりんを持ち出して、天ぷらを揚げ始めた。油の香が焼けつくように私の空腹に浸み込んで来た。
ちょうど、重い鉄のたまが、赤く焼け切っているように奈落ならくへと沈んで行く。壁一重ひとえ隔てた、森が沈黙している。
森の暗き夜 (新字新仮名) / 小川未明(著)
いんにこもったような冷たい一重ひとえまぶたの目と、無口さだけが、かろうじて彼女の体面を保ってでもいるようだ。
二十四の瞳 (新字新仮名) / 壺井栄(著)
夏のことでなかの仕切りはかたばかりの小簾おす一重ひとえ、風も通せば話も通う。一月ひとつきばかりの間に大分だいぶ懇意になった。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
とが/\しきに胸を痛めて答うるお辰は薄着の寒さにふるくちびる、それに用捨ようしゃもあらき風、邪見に吹くを何防ぐべき骨あらわれし壁一重ひとえ、たるみの出来たるむしろ屏風びょうぶ
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
船長は不服そうに、「此処ここは船底だぞ、その鉄板のもう一重ひとえ下は海だぞ」「そうでしょうか……」と落着おちついた声で答えた時、伊藤青年は思わずめた! と叫び
流血船西へ行く (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
首ばかり極彩色ごくざいしきが出来上り、これから十二一重ひとえを着るばかりで、お月の顔を見てにこりと笑いながら、ジロリと見る顔色かおいろ遠山えんざんまゆみどりを増し、桃李とうりくちびるにおやかなる
業平文治漂流奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
いわば悠々ゆうゆう閑々と澄み渡った水の隣に、薄紙一重ひとえさかいも置かず、たぎり返ってうず巻き流れる水がある。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
房五郎への怨み、弟の歎き、お駒を殺して胸を晴そうと、あの格子まで開けましたが、障子一重ひとえというところでお駒に声を掛けられ、急に気が変ったのでございます。
一重ひとえのうばら、いづくより流れかよりし、君まつと、ふみし夕べにいひ知らず、しみて匂ひき——
朱絃舎浜子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
人間ともさるともつかない顔付かおつきをし、体のわりには妙にひょろ長い手足の先に、山羊やぎのようなひずめが生えていて、まっ黒な一重ひとえの短い胴着どうぎすそから、小さな尻尾しっぽがのぞいていました。
天下一の馬 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
土地が土地なので、丁度今夜のような雪の夜が幾日も幾日も続く。宮沢はひとり部屋に閉じこもって本を読んでいる。下女は壁一重ひとえ隔てた隣の部屋で縫物をしている。宮沢があくびをする。
独身 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
晩桜おそざくらと云っても、普賢ふげん豊麗ほうれいでなく、墨染すみぞめ欝金うこんの奇をてらうでもなく、若々わかわかしく清々すがすがしい美しい一重ひとえの桜である。次郎さんのたましいが花に咲いたら、取りも直さず此花が其れなのであろう。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
茶人がその簡素な趣味生活の享楽を一盌ひとわんの茶とともに飽喫しようとするには、努めて壁と障子との一重ひとえ外に限りもなく拡がつてゐる大きな世間といふものを忘れて、すべて幻想と聯想れんさうとを
侘助椿 (新字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
隣家となりといっても、実は壁一重ひとえの事だから、人の談話声はなしごえがよく聞えるので、私は黙って耳をすまして聴いてると、思わず戦慄ぞっとした、隣の主人が急病で死んだとの事だ、隣家となりの事でもあるから
闥の響 (新字新仮名) / 北村四海(著)
しもける冬の夜、遅く更けた燈火の下で書き物などしているのだろう。壁一重ひとえの隣家で、夜通し鍋など洗っている音がしている。寒夜の凍ったような感じと、主観のわびしい心境がよく現れている。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
そうすると、つい、その戸じまり一重ひとえ次になった臨時お台所で
大菩薩峠:37 恐山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
もしほ焼く難波なにわの浦の八重霞やえがすみ一重ひとえはあまのしわざなりけり
歌よみに与ふる書 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
して見ると代議士のしつとは一重ひとえをへだてるだけだ。
水晶の栓 (新字新仮名) / モーリス・ルブラン(著)
侍女七 はすの糸をつかねましたようですから、わにの牙が、脊筋と鳩尾みずおち噛合かみあいましても、薄紙一重ひとえ透きます内は、血にも肉にも障りません。
海神別荘 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そこで、介錯かいしゃくに立った水野の家来吉田弥三左衛門やそうざえもんが、止むを得ずうしろからその首をうち落した。うち落したと云っても、のどの皮一重ひとえはのこっている。
忠義 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
外郎売の男は、萩乃を組みふせて、声を出さないように、顔をぬので縛った。そして、もう一重ひとえ、内側の陣幕を上げて
篝火の女 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
青春などは素通りして仕舞って、心はこどものまま固って、その上皮にほんの一重ひとえ大人の分別がついてしまった。柚木は遊び事には気が乗らなかった。
老妓抄 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
中の茶の間は、広いけれど障子しょうじ一重ひとえで台所だし、光線が入らず、陰気でじめじめしているので、母親はそこを嫌って寝室にも玄関をえらんだ訳であった。
孤島の鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
ふすまの蔭で小夜子がはなをかんだ。つつましき音ではあるが、一重ひとえ隔ててすぐむこうにいる人のそれと受け取れる。鴨居かもいに近く聞えたのは、襖越ふすまごしに立っているらしい。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
その時に壁一重ひとえ向うの室からスヤスヤという寝息が聞こえて来た。私の寝息にピッタリと調子を合せた、私ソックリの寝息の音が……静かに……しずかに……。
ビルディング (新字新仮名) / 夢野久作(著)
斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨おんえんを消してしまって谷一重ひとえのさし向い、安らかに眠っている。
謀叛論(草稿) (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
岸本はその空虚な部屋をのぞいて見て、悽惨せいさんな戦争の記事を読むにもまさる恐るべき冷たさを感じた。その冷たさが壁一重ひとえ隔てた自分の部屋の極く近くにあることを感じた。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
桜ですとも、桜も一重ひとえのではありません。八重の緋ざくらか、かばざくらともうしあげましょう。
九条武子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
重い砂土の白ばんだ道の上には落ち椿つばき一重ひとえ桜の花とまじって無残に落ち散っていた。桜のこずえには紅味あかみを持った若葉がきらきらと日に輝いて、浅い影を地に落とした。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
お取りな、何うせ女郎の千枚起請というたとえの通りで、屏風一重ひとえ中で云った事は、みんな反故ほご同様だ
中尉どの、これ一重ひとえに、平生へいぜいピート一等兵が、訓練に精神をうちこまなかったせいです
地底戦車の怪人 (新字新仮名) / 海野十三(著)
なりに似合はず臆病おくびょうな小娘にぶつかつて、これはいい睡気ねむけざましの相手が見つかつたと内々ほくほくしてゐるらしいことは、つい先刻まであんなに不愛想だつた一重ひとえまぶたの小さな眼が
死児変相 (新字旧仮名) / 神西清(著)
林を出でて、阪路さかみちを下るほどに、風村雲むらくもを払ひさりて、雨もまたみぬ。湖の上なる霧は、重ねたる布を一重ひとえ、二重とぐ如く、つかに晴れて、西岸なる人家も、また手にとるやうに見ゆ。
うたかたの記 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
げ道のために蝦蟇がまの術をつかうなんていう、忍術にんじゅつのようなことは私には出来ません。進み進んで、出来る、出来ない、成就じょうじゅ不成就の紙一重ひとえあやうさかいに臨んでふるうのが芸術では無いでしょうか。
鵞鳥 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)