遠近おちこち)” の例文
遠近おちこちではとりが勇ましく啼いた。市郎はよぎを蹴って跳ね起きた。家内の者共は作夜の激しい疲労に打たれて、一人もまだ起きていない。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
雲の峰は崩れて遠山のふもともや薄く、見ゆる限りの野も山も海も夕陽のあかねみて、遠近おちこちの森のこずえに並ぶ夥多あまた寺院のいらかまばゆく輝きぬ。
活人形 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
青銅からかねの鳥居をくぐる。敷石の上に鳩が五六羽、時雨しぐれの中を遠近おちこちしている。唐人髷とうじんまげった半玉はんぎょく渋蛇しぶじゃをさして鳩を見ている。
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
浅間の山麓さんろくにあるこの町々はねむりから覚めた時だ。朝餐あさげの煙は何となく湿った空気の中に登りつつある。鶏の声も遠近おちこちに聞える。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
やがて、あたりには、再び次第次第に緑の木洩日こもれびがきらきらと輝き始める。それに従って、思い出したようにまた小鳥が遠近おちこちさえずり始めた。
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
五百機いほはた立てて綾錦、織りてはおろす西陣の糸屋町といふに、親の代より仲買商手広く営みて、富有の名遠近おちこちにかくれなき近江屋といふがあり。
心の鬼 (新字旧仮名) / 清水紫琴(著)
夜間の巡視が始まったのであろう。その頃になって忍びやかな靴音がコトリ、コトリと階段のほとり、廊下の遠近おちこちに聞こえてきたのであった。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
また、遠近おちこちにこんもりとしたはやしもりなどが、緑色みどりいろのまりをころがしたようにおちついていて、せみのこえこえていました。
白い影 (新字新仮名) / 小川未明(著)
腹をひたした水の上には、とうに蒼茫そうぼうたる暮色が立ちめて、遠近おちこちに茂った蘆や柳も、寂しい葉ずれの音ばかりを、ぼんやりしたもやの中から送って来る。
尾生の信 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
遠近おちこち木間このま隠れに立つ山茶花さざんか一本ひともとは、枝一杯に花を持ッてはいれど、㷀々けいけいとして友欲し気に見える。もみじは既に紅葉したのも有り、まだしないのも有る。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
庸三が葉子の勧めで、北の海岸にある彼女の故郷の家を見舞ったころには、沿道の遠近おちこちに桐の花が匂っていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
こりゃ誰か私に告げるのじゃと思って、誰かといいつつ遠近おちこちを見廻わして、法林道場の後ろの方にも人が居らないかともとめて見ましたが誰も居らない……。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
項羽は無聊に堪へ兼ねて高殿の勾欄おばしまから、無辺に霞む遠近おちこちの景色を眺めて居た。あたゝかい小春日の日光に、窓下の梧桐きりの葉末までが麗はしく輝いて見えた。
悲しき項羽 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
時はすでに午後四時過ぎ、夕烏ゆうがらすの声遠近おちこちに聞こゆるころ、座敷の騒ぎをうしろにして日影薄き築山道つきやまみち庭下駄にわげたを踏みにじりつつ上り行く羽織袴はおりはかまの男あり。こは武男なり。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
それから十年ばかりと云うもの、私の父はずっと受領ずりょうとして遠近おちこちの国々へお下りになっていた。
かげろうの日記 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
仲居なかいと舞子に囲繞とりまかれつつ歓楽に興ずる一団を中心として幾多の遠近おちこちの涼み台の群れを模糊もことして描き、京の夏の夜の夢のような歓楽のやわらかい気分を全幅にみなぎらしておる。
小山おやま駅で水戸の三人武者とも別れて、あとはただ一人、にわかにさびしくなれば数日以来の疲労も格段に覚えて、吾輩は日光の鮮かにてらす汽車の窓から遠近おちこちの景色を眺めていると
本州横断 癇癪徒歩旅行 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
遠近おちこち」という語によって、早春まだ浅く、冬の余寒が去らない日和ひより聯想れんそうさせる。この句でも、前の「春雨や」の句でも、すべて蕪村の特色は、表現が直截明晰めいせきであること。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
それを伝え聞く輩が遠近おちこちより熊谷の処へ何千何万という程押しかけて来たが、愈々その日になると、蓮生は未明に沐浴して、礼盤に上って、高声念仏の勢たとうるにものなく
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
遠近おちこちをたずね廻った末に、もしやと思って湖心寺へ来てみると、見おぼえのある喬生の着物のすそがかの柩の外に少しくあらわれているので、いよいよ驚いてその次第を寺僧に訴え
世界怪談名作集:18 牡丹灯記 (新字新仮名) / 瞿佑(著)
遠近おちこちの人々は語り伝えて参詣さんけいをした。それで駒形堂をまた藜堂ともとなえます。
なお樹下に潜みいつ遠近おちこちと夜の影を見回せり、彼の心には現世ははるかの山の彼方になりて、ココは早や冥土めいどに通ずる路のごとく思われ、ヒヤヒヤと吹き来る風は隠府の羽を延ぶるがごとく
空家 (新字新仮名) / 宮崎湖処子(著)
私と弟の静雄、輝夫の三人の兄弟は、ここに来て休む遠近おちこちの人力車の背後にえがかれた武者絵を鑑賞すべく、毎日のように通ったが、とくに遠方から綱引きなどで走って来る人力車を歓迎した。
故郷七十年 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
三番の車には小西摂津守の順序で、一条の辻を南へ、室町通りから寺町へ出て、七条河原に行き着くまで、見物の群衆おびたゞしく、遠近おちこちから寄り集まった貴賤男女で町が一杯であったと云う。
聞書抄:第二盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
近頃仏国学士院のブーケ・ド・ラグリー氏はこの塔を利用して遠近おちこちの海岸を航海しつつある船舶に正確な時刻を電報し、航海に最も必要な時辰儀じしんぎの調整をさせたらよかろうという事を建議した。
話の種 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
竹藪たけやぶに伏勢を張ッている村雀むらすずめはあらたに軍議を開き初め、ねや隙間すきまからり込んで来る暁の光は次第にあたりの闇を追い退け、遠山の角にはあかねの幕がわたり、遠近おちこち渓間たにまからは朝雲の狼煙のろしが立ち昇る。
武蔵野 (新字新仮名) / 山田美妙(著)
岩屋の奥に身をひそめ、遠近おちこちの野をさすらいて
遠近おちこちみなみすべく北すべく
俳人蕪村 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
遠近おちこちの森にむ、きつねたぬきか、と見るのが相応ふさわしいまで、ものさびて、のそ/\と歩行あるく犬さへ、はりを走る古鼠ふるねずみかと疑はるゝのに——
光籃 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
遠近おちこちの森では鳥が啼いて、眼も醒めるような明るい朝の景色は、彼に前途の光明を示すようにも見えたので、市郎は自ずと心が勇まれた。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
何やら急にまた小鳥達の声が騒がしいほど、遠近おちこちにその数を増して行く。竹の葉を通す陽光は再びあざやかな緑にきらめき始めた。
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
ある時は、月の落ちかかる頃になって、やっと来た。ある時は、遠近おちこちの一番どりが啼く頃になっても、まだ来ない。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
斜めに射して来た日光は黄を帯びて、何となく遠近おちこち眺望ながめが改まった。岡の向うの方には数十羽の雀が飛び集ったかと思うと、やがてまたパッと散り隠れた。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
どこへ腰をえたものかと、草のなかを遠近おちこち徘徊はいかいする。えんから見たときはになると思った景色も、いざとなると存外まとまらない。色もしだいに変ってくる。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
小川おがわみずは、さらさらとかがやいて、さびしそうなうたをうたってながれています。木々きぎは、あかくまた黄色きいろにいろどられて、遠近おちこち景色けしきるようでありました。
般若の面 (新字新仮名) / 小川未明(著)
ここには三十軒ばかり石造の家がある。その遠近おちこちにテントも十二、三見えて居る。この辺の
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
少なくとも大したものとして遠近おちこちに伝えられて、以前は、ほとんど公開の設備をしていたのですが、伊太夫の後妻を迎える前後になって、公開をやめて自家用だけにしておりましたのが
大菩薩峠:37 恐山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
しかしそのままに過ごした夜もけ、遠近おちこちにおこる百八煩悩ぼんのうの鐘の音も静まってから、縫いあがった洋服を着てみせて、葉子も寝床へ入ったのだったが、庸三は少しうとうとするかと思うと
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
昔の繁昌はんじょうにひきかえ、今はすっかりさびれ、それがいかにも落着いた、いい感じになっているこの小さな村にしばらく滞在し、そしてこの村からは遠近おちこちの山の眺望が実によいことをお知りになると
楡の家 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
遠近おちこちみんなみすべく北すべく
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
茶店ちゃみせの裏手は遠近おちこちの山また山の山続きで、その日の静かなる海面よりも、一層かえって高波をうねらしているようでありました。
湯女の魂 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
水に臨んだ紅葉こうようの村、谷をうずめている白雲はくうんむれ、それから遠近おちこち側立そばだった、屏風びょうぶのような数峯のせい、——たちまち私の眼の前には、大癡老人が造りだした
秋山図 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
午前十時、初冬の日はいよいよ暖かくうららかになって、白い霜の消えて行く地面からは、遠近おちこちに軽い煙を噴いていた。南向みなみむきの小屋の前には、二三枚のむしろが拡げて乾してあった。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
遠近おちこちの広大な竹林の竹の葉のざわめく音が無気味に響き渡りはじめる。………
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
春ならば花さかましを、秋ならば紅葉もみじしてむを、花紅葉今は見がてに、常葉木とこわぎも冬木もなべて、緑なる時にしあれば、遠近おちこちたたなづく山、茂り合ふ八十樹やそき嫩葉わかば、あはれともしたまはな。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
ふすま蕪村ぶそんの筆である。黒い柳を濃く薄く、遠近おちこちとかいて、むそうな漁夫がかさかたぶけて土手の上を通る。とこには海中文殊かいちゅうもんじゅじくかかっている。き残した線香が暗い方でいまだににおっている。
夢十夜 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
広野こうやねむっている遠近おちこち木立こだちは、みんな身震みぶるいをしました。
角笛吹く子 (新字新仮名) / 小川未明(著)
絵は蕭索しょうさくとした裸のを、遠近おちこちまばらえがいて、その中にたなごころをうって談笑する二人の男を立たせている。
戯作三昧 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
と笑って、一つ一つ、山、森、岩の形をあらわす頃から、音もせず、霧雨になって、遠近おちこちに、まばらな田舎家いなかやの軒とともに煙りつつ、仙台に着いた時分に雨はあがった。
七宝の柱 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
遠近おちこちをたずね廻った末に、もしやと思って湖心寺へ来てみると、見おぼえのある喬生の着物の裾がかの柩の外に少しくあらわれているので、いよいよ驚いてその次第を寺の僧に訴え