ひづめ)” の例文
馬は、重荷のために後退あとすざりするのを防ごうとして、ひづめにこめた満身の力でふるえながら、脚をひろげ、鼻息をふうふうはずませている。
乞食 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
やがて人々の出て行く気配があり、馬の馳け去るひづめの音がまちの外に消えました。しばらくして奥さんがひとり静かに戻つて来ました。
亜剌比亜人エルアフイ (新字旧仮名) / 犬養健(著)
それから彼は私の右手をなで、ひどく感心している様子でしたが、ひづめはさまれて手が痛くなったので、私は思わず大声をたてました。
その想像をして有村に逐一ちくいちのことを話していると、さらにまた五、六騎、大地をうってくるひづめの音が、闇の街道を乱れあってきた。
鳴門秘帖:06 鳴門の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
志保は庭へおりて菊をっていた。いつまでも狭霧さぎりれぬ朝で、道をゆく馬のひづめの音は聞えながら、人も馬もおぼろにしか見えない。
菊屋敷 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
橋の上にはしばらくの間、行人こうじんの跡を絶ったのであろう。くつの音も、ひづめの音も、あるいはまた車の音も、そこからはもう聞えて来ない。
尾生の信 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
ひづめの音高らかに門内に乗り入れたのは出羽判官光長、前庭に控えると、静まり返った御所の隅にまで轟くばかりの大音声をあげた。
私が縦に倒れた上を馬車が真っ直ぐに通過したのみならず、馬のひづめも私を踏まずに飛び越えたので、何事も無しに済んだのである。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
猟犬ジャムはその袖の下を、ちゃぶちゃぶと泳ぎ、義作は夕立のせなを干して、かたわらに立っていた、水はやや駒のひづめを没するばかり。
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ただしそれは、ちょうど馬がふるえながら、ひづめを挙げ耳を動かして、走り出す合図をじりじりと待っているような立ちどまりかたであった。
衣裳戸棚 (新字新仮名) / パウル・トーマス・マン(著)
「あのこめかみの傷跡は、馬のひづめにしては小さ過ぎると思つたよ。棒の先に分銅を縛つて後ろから、喰はせると丁度あんな傷になるのだが」
一匹の牛が皮の前掛を振うか、あるいは乾いた地面をひづめるかすると、虻の雲がうなり声を立てて移動する。ひとりでにいて出るようだ。
博物誌 (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
が、その時ひづめの音! つづいて上った鬨の声! 馬上の浜路を真っ先に、五六十人の萩原住民、サーッと丘へのっ立てて来た。
任侠二刀流 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
『大英百科全書』またいわく、時として家馬のひづめの側に、蹄ある小趾を生ずる事あり。稀にはまた三、四趾をならび生ずるあり。
ペガッサスも、ひづめをなるべく土地にくっつけるようにして駆けることは、少し骨が折れましたが、ちょっとそんなことをやってみたのです。
わたしが立ち止まると、左右のひづめでかわるがわる土をったり、けたたましい声を立てて、わたしの痩せ馬の首ったまにみついたりした。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
滑桁すべりけたのきしみと、凍った雪を蹴るひづめの音がそこにひびくばかりであった。それも、曠野の沈黙に吸われるようにすぐどこかへ消えてしまった。
(新字新仮名) / 黒島伝治(著)
……宵の明星が本丸のやぐらの北角にピカと見えむる時、遠き方より又ひづめの音が昼と夜の境を破って白城の方へ近づいて来る。
幻影の盾 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
わたしばうやはね、ひづめが二つにれてゐて、毛色けいろはぶちでつぽもちやんとついてゐて、わたしぶときは、もう/\つて可愛かあいこゑびますよ。」
お母さん達 (旧字旧仮名) / 新美南吉(著)
それは沢山の馬のひづめの痕で出来上ってゐたのです。達二は、夢中で、短い笑ひ声をあげて、その道をぐんぐん歩きました。
種山ヶ原 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
ちやうどその時、車輪の音と、馬のひづめの地を蹴る音とが、砂利じやりの上から聞えて來た。驛傳馬車えきばしやが近づいて來るのであつた。
そこらに生えた青紫蘇あおじそを、四つのひづめが踏みしだいている。そして立ちすくんだまま、くびを不自然に前に伸ばして、おくびをするような仕草をした。
庭の眺め (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
あわれなるわたしである。果報つたなきわたしである。天晴れ仏果を得て人中の芬陀利華ふんだりけと咲くことを望んだ身が、畜生もひづめを避ける醜草と変るのだ。
阿難と呪術師の娘 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
馬車は無数のつぶてを投げつけるようなひづめの音を、かつかつと巻き上げつつ、層々と連なりながら、大路小路を駆けて来た。
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)
船をたずねて波止場はとばへ行く道を人に尋ねると、人はよく教えてくれましたから、お君は、その通りに行こうとする時分に、後ろからけたたましいひづめの音。
大菩薩峠:07 東海道の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
あられの音か。否々いやいや。馬のひづめの音だ。何という高い蹄の音であろう。何というはやい馬であろう。あれ、王宮の周囲まわりを街伝いに、もう一度廻ってしまった。
白髪小僧 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
やんわりとした髪の毛ので心地、………そしておりおりれて来るほのかなささやき、………長い間悍馬かんばのようなナオミのひづめにかけられていた私には
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
頭より尾に至る長さ千余丈、ひづめより背上に至る高さ八百丈。大音に呼ばわっていわく、なんじ悪猴わるざる今我をいかんとするや。
全く敗亡まいって、ホウとなって、殆ど人心地なくおった。ふッと……いや心の迷の空耳かしら? どうもおれには……おお、矢張やっぱり人声だ。ひづめの音に話声。
砂埃すなぼこりが馬のひづめ、車のわだちあおられて虚空こくうに舞い上がる。はえの群が往来を横ぎって家から家、馬から馬へ飛んであるく。
武蔵野 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
冷い街路を踏んで行く馬のひづめの音までが耳についた。彼は思ったよりも寂寞せきばくとした巴里に帰って来たことを感じた。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
遠くで角笛つのぶえの音がする。やがて犬の吠声、駒のひづめの音が聞えて、それがだんだんに近付いて来る。みぎわの草の中から鳥が飛び立って樹立こだちの闇へ消えて行く。
ある幻想曲の序 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
パッカ、パッカと街道のうしろから近づいて来たのは、どうやら駿馬しゅんめらしいひづめの音です。釣に心を奪われているかに見えたが、さすがに武人のたしなみでした。
その角燈の光で彼は馬車の形をはっきり見て取ることができた。小さな白馬に引かれた小馬車であった。彼が聞いた物音は、舗石しきいしの上の馬のひづめの音だった。
背から受ける夕日に、鶴尖つるはしやスコップをかついでいる姿が前の方に長く影をひいた。ちょうど飯場はんばへつく山を一つ廻りかけた時、後から馬のひづめの音が聞えた。
人を殺す犬 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
彼はなお車輪の音と馬のひづめの音とを聞いていた。白いもやが一面に牧場の上を流れていた。凍った樹木の込み合った枝からしずくがたれていた。そよとの風もなかった。
その神鹿のひづめあと、及び犬岩・握飯岩などの遺跡もあると言うから、とにかく土地では実際あったこととして伝えていたので、化して鳥となる点はいわぬけれども
幕末のころぼうと云う医師があって夜遅く病家へ往って帰っていた。それは月の明るい晩であった。其の大手を通っていると、戞戞かつかつと云うおびただしい馬のひづめの音が聞えて来た。
首のない騎馬武者 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
このとき太子たいしのおあるきになったうまひづめあとが、国々くにぐにたかい山にいまでものこっているのでございます。
夢殿 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
別当は馬の手入をしまって、ひづめに油を塗って、勝手口に来た。手には飼桶かいおけを持っている。主人に会釈をして、勝手口に置いてある麦箱のふたを開けて、麦を飼桶に入れている。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
むざんなひづめのあとである。医者はまゆをひそめた。巡査は医者に向かって、怪我人は車輪に引っかかったまま、舗石道を三十歩ばかり引きずられて行った、と話して聞かせた。
大きなひづめが音立てて街上を踏んでいるのを見ると、寂しい留学生の心はいつもなごんで来た。
玉菜ぐるま (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
ところが秀吉の方は大軍堂々と愈々いよいよ北条征伐に遣って来たのだ。サア信書の往復や使者の馬のひづめの音の取り遣りでは無くなった、今正に上方勢の旗印を読むべき時が来たのだ。
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
ある時は、荷馬車の馬が、突然あばれ出して、通りかかった明智をひづめにかけようとした。
黄金仮面 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
此方こちらは小松の並木で一本も外のはありません。真堀の岩上いわがみの方から粥河圖書は来るに相違ないと、山三郎は馬を乗り据え、むこうに眼をけて居ると、遥かにひづめの音がいたします。
小鳥に踏み落されて阪道にこぼれたる団栗どんぐりのふつふつとひづめに砕かれ杖にころがされなどするいと心うくや思いけん端なく草鞋の間にはさまりて踏みつくる足をいためたるも面白し。
旅の旅の旅 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
ある朝、ル氏がいつものやうに馬に騎つて出掛けると、爺さんは窓にもたれて、紐育の新聞を読んでゐたが、かねて聞き馴れた馬のひづめがぽかぽか鳴るので、じつと眼を離して外を見た。
殿様のゐる頃には大小をたばさんだ侍が通つたり、騎馬の武士がひづめを鳴して勇しく渡つて行つたりしたもので、昔は徒士かちや足軽の子供などはそこに寄りつけもしなかつたものであつたが
花束 (新字旧仮名) / 田山花袋田山録弥(著)
ほうきみたいに短くなった尻尾は、蠅をおっ払うため精一杯振ってももうももには届かなかった。次の道中にそなえるため、すり減ったひづめを削り削り何度新しい鉄をめ換えたか知れない。
蕎麦の花の頃 (新字新仮名) / 李孝石(著)
果てなき原の草の上、巌角いわかどするどき険崖がけきわ、鉄のひづめの馬立てて、討手うちてに進む我が心
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)