うる)” の例文
父の眼には涙はなかつたが、声はうるんでゐてものが言へないので、私は勇気を鼓して「おう、用心なさんせ、左様なら」と言つた。
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
谷崎君は平安朝の文学の清冽な泉によって自己の詩境をうるおしているとゝもに、江戸末期の濁った趣味を学ばずして身にそなえている。
武州公秘話:02 跋 (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
彼女は眼をうるませてその言葉を繰り返した。弱い苦しそうな声で、そして力のないせきをした。貞吉も同意見らしく何も言わなかった。
汽笛 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
が、我らの日常生活をうるおすプログラムは、でたらめになってはいけないと同時に、あまり頑固かたくなになり過ぎても嬉しいことではない。
大和の国にはかんながらの空気が漂うている、天に向うて立つ山には建国の気象があり、地をうるおして流れる川には泰平の響きがある。
谷崎君は平安朝の文学の清冽な泉によって自己の詩境をうるおしているとゝもに、江戸末期の濁った趣味を学ばずして身にそなえている。
葉子は目をうるませたものだったが、その時分から見ると、退院後に起こった事件をも通りこして、二人の神経も大分荒くなっていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
左側の料理場らしい処から男の声がすると小柄こがらじょちゅうが出て来たが、あがる拍子にみると、左の眼がちょとうるんだようになっていた。
牡蠣船 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
その街角へ現われて街灯の下へ辿たどりつくと、まるで自分がうるんだ灯にすがりついた守宮やもりででもあるような頓狂とんきょうな淋しさが湧いてきた。
小さな部屋 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
心をかれのいと深き願ひにとめ、少しくかれを露にてうるほせ、汝等は彼の思ふ事の出づるもとなる泉の水をたえず飮むなり。 七—九
神曲:03 天堂 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
哀れな小さい囚人はかうして泣きつかれたあと、何時いつもそのうるんだまぶたに幽かな燐のにほひの沁み入る薄暗い空氣の氣はひを感じた。
思ひ出:抒情小曲集 (旧字旧仮名) / 北原白秋(著)
彼らの美に守られずしては、温かくこの世を旅することが出来ぬ。工藝にうるおうこの世を、幸あるこの世といえないであろうか。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
各所の穀倉を穀物でみたし、各所の穴藏を葡萄酒でみたした一七六〇年のなごやかな秋は、この片田舍をもその富でうるおした。
豊かなデリケエトな唇は、不思議に末子でもあり清でもある、小さな、細い〔時にきらきらとうるんで光る〕やさしい眼は清にそのままであった。
「ウーム、不思議なものが手に入った!」読み行くうちに二人の表情、驚異となり、歓喜となり、怪訝けげんとなり、また感激にうるむ眼となった。
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
降る雨は、夜の目をかすめて、ひそかに春をうるおすほどのしめやかさであるが、軒のしずくは、ようやくしげく、ぽたり、ぽたりと耳に聞える。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
女もそこに坐って、黙って母親と私との話を聴いていたが、大きな黒い眼がひとりでに大きくなって充血するとともに玉のような露がうるんだ。
黒髪 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
暗い方へ一寸這入つて、もとの灯のさした中を見ると、瀬戸物の小さいかけらの土に埋れたのが、金色の灯を写してうるんだやうに光つてゐる。
桑の実 (新字旧仮名) / 鈴木三重吉(著)
ルウヴルの美術館でリユブラン夫人のいた自画像の前に立つてもその抱いて居る娘が、自分の六歳むつつになる娘の七瀬なゝせに似て居るので思はず目がうるむ。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
……其時は自分はバイロンのてつを踏んで、筆を劍に代へるのだ、などと論じた事や、その後、或るうら若き美しい人の、うるめる星の樣な双眸まなざしの底に
葬列 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
うるんだような春の月も、泣いているような朧ろの空も、こうやって二人で見ることは未来永劫えいごうもうあるまい……」
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
その代りに黒くうるんだ眼……小さな紅い唇……青い長い三日月眉……ポーッと薄毛に包まれた耳……なぞがかわるがわる眼の前に浮かんで来たと思うと
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
おとよはこの時はらはらと涙をひざの上に落とした。涙の顔をぬぐおうともせず、くちびるを固く結んで頭を下げている。母もかわいそうになってうるんでいる。
春の潮 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
まったく途方とほうれたのであろう。春信はるのぶかおあげたおせんのまぶたは、つゆふくんだ花弁かべんのようにうるんでえた。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
障子をもう一枚開けひろげて、月の出に色もうるみだしたらしい不忍しのばずの夜の春色でわたくしの傷心を引立たせようとした逸作もついさじを投げたかのように言った。
雛妓 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
鶴子は何か言おうとしたが、自分ながら声がふるえはせぬかと思ってそのまま俯向うつむくと、胸が急に一杯になって来て、どうやら眼がうるんで来るような心持がした。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「そんでもどうにかうちこせえたから、ぢいこともれてくべよなあ」おつぎのこゑ漸次ぜんじうるんでひくくなつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
火鉢の火は衰えはじめて、硝子ガラス窓をうるおしていた湯気はだんだん上から消えて来る。私はそのなかから魚のはららごに似た憂鬱な紋々があらわれて来るのを見る。
冬の蠅 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
十五節—二十節においては友を沙漠の渓川たにがわたとえて、生命をうるおす水を得んとてそこに到る隊客旅くみたびびと(Caravan)を失望慚愧ざんきせしむるものであるとなしておる。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
目のせいか、桜の花が殊にうるんで見えた。ひき続いては出遅れた若葉が長い事かじけ色をしていた。
歌の円寂する時 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
母は黙って此方こちらを向いた。常は滅入ったような蒼いかおをしている人だったが、其時此方こちらを向いた顔を見ると、ぼッあかくなって、眼にうるみを持ち、どうも尋常ただ顔色かおいろでない。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
深夜の月の光の中に、うるんだような曇を感ずるのは、何人にも味い得べき趣であって、しかも容易に句にし得ぬところのように思う。「光に曇る」の語もいい得て妙である。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
と同時に眼鼻立ちは、愛くるしかるべき二重瞼ふたえまぶたまでが、遥に初子より寂しかった。しかもその二重瞼の下にある眼は、ほとんど憂鬱とも形容したい、うるんだ光さえたたえていた。
路上 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
それならもう、戦争も済んだんですから、いつでも長崎へ帰れるじゃありませんか! といったのに対して、ジーナは切れ長な眼をうるませながら、こういう話をしてくれました。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
前にいる女の真の魂を、その両眼のうるんだ熱烈なヴェール越しに読み取り得るには、クリストフはまだ、個人によりもむしろ多く民族に属してるその眼に十分慣れていなかった。
といううちに早や言葉がうるんで参ります。親子の情としてはもあるべきことでございましょう、我子が斯様こんな碌でもないことを致し、他人ひとを悩めると思いましたら堪りますまい。
と軽口に、奥もなく云うて退けたが、ほんのりとうるみのある、まぶたに淡く影がした。
南地心中 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
先生はふいと口をつぐんだ。そして窓の方に顏をそむけてたたずんだ。黒のモオニングを着た先生の背中は幽かに波打つてゐた。怒りの感情の高潮しきつたその眼には、何時か涙がうるんでゐた。
猫又先生 (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
窓という窓の厚ぼったい板戸をしっかりおろした上に、隙間すきま隙間にはガーゼを詰めては置いたのだが、霧はどこからともなく流れこんできて廊下の曲り角のあかりが、夢のようにボンヤリうる
人造人間殺害事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
今は早や凝つた形の雲とては見わけもつかず、一樣に露けくうるんだ皐月さつきの空の朧ろの果てが、言ふやうもなく可懷なつかしい。次いでやや暫くの間、死んだやうな沈默がこの室内に續いてゐた。
一家 (旧字旧仮名) / 若山牧水(著)
空寒き奥州おうしゅうにまで帰る事はわずに旅立たびだち玉う離別わかれには、これを出世の御発途おんかどいでと義理でさとして雄々おおしきことばを、口に云わする心が真情まことか、狭き女の胸に余りて案じすごせばうるの、涙が無理かと
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
土地の生産力をおおいうるおすわけならば格別であるが、若干の価をも得られべきでないことは、樹木を見ると、大概わかってしまう、売る方のみでなく、現にそれを買った商人は、樹も小さいし
上高地風景保護論 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
夕靄がけぶるように野末にたちめ、ものの輪廓が、ほの暗い、はるか遠方おちかたにあるように見えた。道ばたに三本立っている見あげるようなもみの木までが、まるで泣いてでもいるようにうるんで見えた。
親ごころ (新字新仮名) / ギ・ド・モーパッサン(著)
紫色のうるみを帯びた大きな目は傍で観て居る人々を睥睨へいげいするかのやう。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
お高祖頭巾のなかの切れ長の目が、いつしかシットリうるんでいた。
寄席 (新字新仮名) / 正岡容(著)
彼女は熱い吐息をボアの羽根毛のなかにもらした。彼女に何物かがうるんで見えた。何処どこかに生温い涙の匂ひをぐやうに思つた。明子は眼をつぶつてくびを縮め、ボアの羽根毛のなか深く顔を埋め込んだ。
青いポアン (新字旧仮名) / 神西清(著)
といったような悲しみの歌を読むと、私の目はひとりでにうるんだ。
九条武子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
その代りに夜は溢れるように露が何でもかんでもをうるおした。
田舎医師の子 (新字新仮名) / 相馬泰三(著)
藤三は生れて始めて情慾に眼をうるませた。
刺青 (新字新仮名) / 富田常雄(著)
そのうちに彼女の眼がうるんで来た。
(新字新仮名) / 横光利一(著)