せき)” の例文
本丸に入ると、さすがに国境七城の主城だけのものはあって、城中はかなり広く、守兵二千余人をれながらなおせきたるものがある。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼等は風のやうな拍手を浴せ、せきとして私の発声を待つた。——なるほど、慣れたらこれに限るだらう——不図私は、そう思つた。
歌へる日まで (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
しずかに考えさだむとて、ふらふらと仮小屋を。小親が知らぬ間に出でて、ここまで来つ。山の手の大通りはせきとして露ひややかなり。
照葉狂言 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
これに対し、わが大本営は、交戦状態に入りしを伝うるのみにて、せきとして声なしというか、静かなる事林の如しというか……
海野十三敗戦日記 (新字新仮名) / 海野十三(著)
はその中腹あたりの岩肌をキラキラと輝かせているが、天地万物せきとしてしかも陽だけが煦々くくとして、なごやかにこの野原に遊んでいる。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
星一つ一つこずえに下り、梢の露一つ一つ空に帰らんとす。万籟ばんらいせきとして声なく、ただ詩人が庭の煙のみいよいよ高くのぼれり。
(新字新仮名) / 国木田独歩(著)
京の町々は眠りの中にあって、家々の雨戸も窓もしとみも、ことごとく閉ざされてせきとしてい、天の河ばかりが屋根に低く、銀の帯を引いていた。
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
と涙をふるって痛論せしかば、満場せきとして云うところを知らず。唯、証人席に在りしアリナの実父母が歔欷きょきするあるのみ。
押絵の奇蹟 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
この時われが周囲にはせきとして何の声も聞えず、ゞ忽ち断へ忽ち続く、物寂しき岩間のしづくの音を聞くのみなりき。
孤島の鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
前部砲台のかたより士官二人ふたり低声こごえに相語りつつ艦橋の下を過ぎしが、また陰の暗きに消えぬ。甲板の上せきとして、風冷ややかに、月はいよいよえつ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
着車時間は迫りけれども停車場内せきとして急に汽車の着すべき様子も見えず。大原は待合室に入りて人を待つ間の手持無沙汰てもちぶさたに独り未来の事を想像する
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
室内せきとして声無し。窓の外に死のヴァイオリンをたんじつつ過ぎ行くを見る。その跡にきて主人の母き、娘き、それに引添いて主人しゅじんに似たる影く。
せきたりりょうたり。独立して改めず。周行してあやうからず。もって天下の母となすべし。われその名を知らず。これをあざなして道という。いてこれが名をなして大という。
茶の本:04 茶の本 (新字新仮名) / 岡倉天心岡倉覚三(著)
暖簾のれんをかけた質屋の店も、既に戸を閉めてしまったので、万象せきとして声なく、冬の寂寞じゃくまくとしたやみの中で、孤独の寒さにふるえながら、小さな家々が眠っている。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
王は自分のうちへ帰って、すぐにその怪物を籠と共に焚いてしまったが、せきとしてなんの声もなかった。土地の人はこのたぐいの怪物を山𤢖さんそうと呼んでいるのである。
同時に眼にもとまらぬ早技はやわざでひゅういと空にうなった切支丹きりしたん十字の呪縛剣じゅばくけん、たちまちそれを、やんわり振りかぶった大上段の構えは——せきとしてさながら夜の湖面。
つづれ烏羽玉 (新字新仮名) / 林不忘(著)
大人の世界は相変らずせきとした静かさであった。その前に、彼は何かひざまずくような重々しい気持で、きたつ自分の憤怒ふんぬを、唇をかみつけることによってのみこんだ。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
狩野芳涯かのうはうがい常に諸弟子しよていしに教へていはく、「ぐわの神理、唯まさ悟得ごとくすべきのみ。師授によるべからず」と。一日芳涯病んです。たまたま白雨天を傾けて来り、深巷しんかうせきとして行人かうじんを絶つ。
雪は雪簾ゆきだれにあたりてさら/\とおとのふのみ、四隣しりんなければせきとしてこゑなくやゝ時もうつりけり。
万法蔵院は実にせきとして居る。山風は物忘れした様に鎮まつて居た。夕闇はそろ/\かぶさつて来て居るのに、山裾のひらけた処を占めた寺は、白砂が昼の明りを残してゐた。
死者の書:――初稿版―― (新字旧仮名) / 折口信夫(著)
ほのぼのと狭霧罩さぎりこめたる大路のせきとして物の影無きあたりを、唯ひと覚束無おぼつかなげに走れるなり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
我は殆ど歌ふところのものゝ即ち神の御聲みこゑにして、我身の唯だ此聲を發する器具に過ぎざるを覺えき。時に廣座の間せきとして人なきが如く、處々にきれもて涙を拭ふものあるを見る。
そのときになってひろ子は、周囲の寂寞せきばくにおどろいた。大気は八月の真昼の炎暑に燃え、耕地も山も無限の熱気につつまれている。が、村じゅうは、物音一つしなかった。せきとして声なし。
播州平野 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
一方妻女山に向った甲軍は午前七時頃妻女山に達し足軽を出して敵に当らしめたが山上せきとして声なく、敵の隻影もみえない。あやしげな紙の擬旗がすすきの間にゆれているばかりである。
川中島合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
翌くる二十四日の暁天に至りてせきとしてみぬ、誰か此風の行衛ゆくゑを知る者ぞ
人生 (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
邸内はせきとして鎮まり返っていた。応接間の時計が十二時を打つと、その音が部屋から部屋へと反響して、やがてまたしんとなってしまった。ヘルマンは火のないストーブにりながら立っていた。
陰鬱いんうつなる一隅いちぐうかな。されどせきたるこの深淵のうちよりは
こく萬籟ばんらいせきたる午前ごぜんの二と三とのあひだ
せきとして残る土階どかい花茨はないばら
五百句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
せきとした国境であった。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
せきとして人影もない、また足脂あしあぶらに磨かれた広い板敷にも、ちりひとつ見えず、ただ何処からかす春の陽が長閑のどか斜影しゃえいをながしている。
剣の四君子:02 柳生石舟斎 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
上下をすべて切って廻せば、水仕みずしのお松は部屋に引込ひっこみ、無事に倦飽あぐみて、欠伸あくびむと雑巾を刺すとが一日仕事、春昼せきたりというさまなり。
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
夜十時点検終わり、差し当たる職務なきはし、余はそれぞれ方面の務めにき、高声火光を禁じたれば、じょう甲板も甲板もせきとしてさながら人なきようになりぬ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
風もやみ、浪も静まり、海賊どもは腹這いを続け、四辺せきとして声もなく、ただ平八の声ばかりが、こだまも起こさぬ大洋の上を、どこまでもどこまでも響いて行った。
名人地獄 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「オヤ何所どこかお悪う御座いますか」と細川はしぼいだすような声でやっと言った。富岡老人一言も発しない、一間はせきとしている、細川は呼吸いきつまるべく感じた。しばらくすると
富岡先生 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
万法蔵院は、実にせきとして居た。山風は物忘れした様に、鎮まって居た。夕闇はそろそろ、かぶさって来て居るのに、山裾のひらけた処を占めた寺庭は、白砂が、昼の明りに輝いていた。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
生命の流れのせきとして充実した感じが、しばしば伸子を動かした。夫は、このような夜、彼の机に向って、一人何をしているであろうか。彼のところにも、この静寂がありそうな気がした。
伸子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
漸々ようよう二叉ふたまたに到着する時分には満樹せきとして片声へんせいをとどめざる事がある。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
雲の色は天と同じくあをかりき。四邊せきとして音響なく、天地皆墓穴の靜けさを現ず。われは寒氣の骨に徹するを覺えたり。われはしづかに頭をもたげたり。我衣は青き火の如く、我手は磨けるしろかねの如し。
せきとしてぎる人なし。
邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
しかし信長の左右すべての人々が、信長の震撼しんかん慴伏しょうふくして、一瞬、せきとしたまま、声もないので、しばらく彼もそこを起ちかねていた。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いやだ、私は、」と薄気味の悪そうな、しょげた様子で、婦人おんなは人の目に立つばかり身顫みぶるいをして黙った。榎の下せきとして声なし、いずれも顔を見合せたのである。
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
四方板塀で圍まれ隅に用水桶が置いてある、板塀の一方は見越みこしに夏蜜柑の木らしく暗く繁つたのが其いたゞきを出して居る、月の光はくつきりと地に印してせきとし人の氣勢けはひもない。
少年の悲哀 (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
邸内はせきとして静かである。薄月の夜を縫うようにして桜が時々散って来る。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
我舟は既に去りて、身邊またせきとして人を見ず。
それからまきをくべたり炊ぎをしたりするので、せきとして独りでかゆをすするころには、もう、洛内のすべての灯が消えて、天地の中には
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
再びせきとしたれば、ソと身うごきして、足をのべ、板めに手をかけて眼ばかりと思う顔少し差出だして、かたをうかがうに、何ごともあらざりければ、やや落着きたり。
竜潭譚 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
四辺あたりの林もしばしはこの青年に安き眠りを借さばやと、枝頭しとうそよがず、せきとして音なし。
わかれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
するとまたもや松火の光一時にバタバタと消えたかと思うと、雪を踏む音サクサクと聞こえ、やがてそれも遠ざかり消えると敵勢の影も共に消え全山せきと音もなく、二人ばかりが取り残された。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
見ると左右二列ふたつら渡廊わたどのを抱えて、青瓦あおがわらも草にうずみ、あたりは落葉にせきたるままな社殿があった——宋江は夢中できざはしを這いあがった。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)