なつか)” の例文
旧字:
「電車なんぞ、いやで御在ます。でも、たまに参りますと何ですか、いやだいやだとは思ひながらやつぱりなつかしい気がいたします。」
来訪者 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
不幸で沈んだと名乗るふちはないけれども、孝心なと聞けばなつかしい流れの花の、旅のころもおもかげに立ったのが、しがらみかかる部屋の入口。
縁結び (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
貧乏になればなるほど、私はぞくぞく、へんに嬉しくて、質屋にも、古本屋にも、遠い思い出の故郷のようななつかしさを感じました。
きりぎりす (新字新仮名) / 太宰治(著)
それは彼が少年の頃、死別れた一人の姉の写真だったが、葡萄棚ぶどうだなの下にたたずんでいる、もの柔かい少女の姿が、今もしきりになつかしかった。
永遠のみどり (新字新仮名) / 原民喜(著)
この露西亜人らしい男が、この部屋の借り手で、そしてこのハイネの詩集を読んでいるのかと思ったら、ちょっとなつかしい気がした。
旅の絵 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
このから、少年せいねんのちいさいむねにはおほきなくろかたまりがおかれました。ねたましさににてうれしく、かなしさににてなつかしい物思ものおもひをおぼえそめたのです。
桜さく島:見知らぬ世界 (新字旧仮名) / 竹久夢二(著)
とさもなつかしそうに言った。節子は、丁度同じくらいな背にそろった三人の少年の後姿をながめ眺め、ぐ後から静かに続いて行った。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
美奈子は、女中が水をみに行っている間、父母の墓の前に、じっとうずくまりながら、心の裡で父母のなつかしい面影を描き出していた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
黒い夜空ににおいそめた明星のように、チラリチラリと、眼をあげるたびに、星のようなひとみが輝き、なつかしいまたたきを見せる。
一世お鯉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
偉人や英雄のすばらしい記念碑を見るときの冷淡な好奇心や漠然とした賞讃のかわりに、もっと親しみのあるなつかしい感情が湧いてくるのだ。
この若く美しく聡明そうめいな娘さんに、友達以上のなつかしさを感じてい、それが日一日と深くなって行くのをどうすることも出来ない状態であった。
魔術師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
その時和作は妙に胸に響くなつかしさに打たれた。この懐しさはいつまでも消えなかつた。そして段々しげく加納の家に出入りするやうになつた。
朧夜 (新字旧仮名) / 犬養健(著)
役割部屋へ入って行くと、みななつかしがって、寝ころんでいたやつまで、はね起きて来て、右左から、先生、先生、と取りつく。
顎十郎捕物帳:08 氷献上 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
主人はほんとうになつかしいように、うむうむとうなずきながら胡弓に耳を傾けていたが、時々苦しそうなせきが続いて、胡弓の声の邪魔をした。
最後の胡弓弾き (新字新仮名) / 新美南吉(著)
彼は矢張り陋巷ろうこう彷徨さまよう三流作家であることをなつかしく思い、また誇りにも感じた。そう思いつくと、にわかに矢のような帰心に襲われたのだった。
火葬国風景 (新字新仮名) / 海野十三(著)
私達を捨てて去った父が突然やって来て、私にゴムまりを買ってくれた時のことを私は既に話した。その時私はどんなに父をなつかしく思ったろう。
こうした鷹揚おうよう呑気のんきな気分は、どこの人寄場ひとよせばへ行っても、もう味わう事ができまいと思うと、それがまた何となくなつかしい。
硝子戸の中 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それは新しい世界のようでもあり、なつかしい故郷のようでもあった。肉体と自然の間には、人間の何物も介在しなかった。
(新字新仮名) / 岡本かの子(著)
先生のいわゆるぎつける力の一つのささやかな例として見ても、この話は私には一種のなつかしさをもっているのである。
死というものでさえ、その恐しさの幾分かは、このことに基くのである。もはや私は自分の愛したこのなつかしい書物の紙葉をめくることが出来ない。
「それはお前にとってはこわい人ではない、どちらかと言えばなつかしい人だ、懐しい人だろうけれど、油断はできない人だ」
大菩薩峠:06 間の山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
が、そう云う家の中に、赤々あかあかかまどの火が見えたり、珍らしい人影が見えたりすると、とにかく村里へ来たと云う、なつかしい気もちだけはして来ました。
俊寛 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
それとも、たんなるあこがれ、ほのかななつかしさ、そういったものでしたろうか。いや、少年時代のたわいない気持のせんさくなどどうでもよろしい。
アド・バルーン (新字新仮名) / 織田作之助(著)
見ると、それはなつかしい山県行三郎君で、自分が来たといふ事を今少し前に知らせて遣つたものだから、万事を差措さしおいて急いで遣つて来たのであつた。
重右衛門の最後 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
遠い飛鳥あすか時代に、四天王寺や法隆寺が建立こんりゅうされるまでは、おそらく仏像は各氏族の邸内にこのようにしてまつられたのであったろうとなつかしく思われた。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
みずからを無用の人間と観ずる寂寞せきばくほど深いものはあるまい。踏みなれたなつかしい道を、足は郷里に向って急いでいたが、話すことも無いらしかった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
自分が記念に置いて往った摺絵すりえが、そのままに仄暗ほのぐらく壁に懸っている。これが目につくと、久しぶりで自分のうちに帰ってきでもしたようになつかしくなる。
千鳥 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
流石さすがに、勝気なおあいも、この日は心から泣いて、死んでしまった叔母を今更ながらなつかしく、悲しく思って泣いた。
凍える女 (新字新仮名) / 小川未明(著)
今から一箇月前、先月の五日に「雪」を舞った時の妙子の姿が、異様ななつかしさとあでやかさを以て脳裡のうりに浮かんだ。
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
六年間居馴染ゐなじんだ空気、風情ふぜいなつかしさに、酒を飲まなくつたつて酔つたやうな気分にならずにゐられなかつた。
椎の若葉 (新字旧仮名) / 葛西善蔵(著)
梅三爺は思い出したように、またなつかしそうに言って青年の方へ歩み寄った。梅三爺は、その若き日の過去を、幾年となく竜雄の家に雇われてきたのであった。
土竜 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
私は遊び始めてから、しばらく周囲の友だちと会はなかつたので、何となく涙ぐましいやうななつかしさを以て、その端書にしるされた彼の伸びやかな字体を凝視みつめた。
良友悪友 (新字旧仮名) / 久米正雄(著)
将来ゆくすえの望みを語りあったことは僕今でも思い起こすと、楽しいなつかしいその夜のさまが眼の先に浮かんでくる。
非凡なる凡人 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
彼の魂の底まで情に激した戦慄せんりつを呼び起こす美妙な詩人の言葉は、初めてそれを彼に聞かしてくれたなつかしい口と、もはや彼にとっては別々のものではなかった。
彼等は、今では、その当時の残虐に充ちた兵隊の生活をかえってなつかしいものに、色々おもい出していた。
蟹工船 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
無論なつかしい。しかし私は至って理性的だった。それは昨日の今日だ。未だホームシックは感じない。
凡人伝 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
きのときに会った、だぼはぜ嬢さんや、テエプを投げてやった可憐かれんむすめも、みんな集まっていて、会えばおたがいに忘れず、なによりも微笑びしょうが先に立つなつかしさでした。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
お島はその音を聞きながら、寝床のなかにうとうとしていたが、今日から全く知らない土地に暮すのだと思うと、今まで憎みうらんでいた東京の人達さえなつかしく思われた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
わたしの人生に夕べのかげがすでにし始めた時になってみると、あのみるみるうちに過ぎてしまった朝まだきの春の雷雨らいうの思い出ほどに、すがすがしくもなつかしいものが
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
魚はそのほたるのあかりのようなものをまでなつかしそうに、からだに吸いとるようにしていたのです。
寂しき魚 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
顔淵曰く、願わくは善にほこることなく労を施すことなからん。子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老者には安んぜられ、朋友には信ぜられ、少者にはなつかしまれん。
孔子 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
猿楽町さるがくてうを離れたのは今で五年の前、根つからお便りを聞く縁がなく、どんなにおなつかしう御座んしたらうと我身のほどをも忘れて問ひかくれば、男は流れる汗を手拭にぬぐふて
十三夜 (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
……人里離れた生れ故郷の瓜生の里が無性むしょうにこう……なつかしくなって参りましてな。
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
人を射る眼光は鋭いけれども、征服的のところはなくて、なつかし味さえ持っていた。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
この野ッ原だッて小川のうねり工合や、田圃の傾斜や、河土堤一めんの木槿むくげなどに、幼少のころのなつかしみと云ったものを、ボンヤリ頭においていたが、鼻ツキ合わしてみれば馬鹿げていた。
冬枯れ (新字新仮名) / 徳永直(著)
そうおもながら、不図ふとむかうの野原のはらながめますと、一とう白馬はくばむれれをはなれて、ぶがごとくに私達わたくしたちほうってまいりました。それはいうまでもなく、わたくしなつかかしい、愛馬あいばでございました。
コヽに廿一年暮らしたのかと思ふと、うらめしい様な、なつかしい様な、何とも言へない気がして胸が張りける様でしたの、アヽ此処こゝの為めに生れも付かぬいやしい体になつたのだと思ひついて
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
何か今は忘れた、——今は私のところから去って行った昔のなつかしい夢のようなものに、ふと邂逅かいこうすることができたみたいな、胸のキュッとなる想いであった。——夢が遠くの空を飛んで行く。
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
女房がひどく人をなつかしがって、いろいろと工夫に向かって里の話を尋ねた。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
そんな晩は夜霧が川辺や森の木立を深くつゝんでゐて、家に帰つて寝床に入つてからも夜もすがら太鼓の音が聞えて来たことなど、年々の思ひ出がしきりになつかしまれるに従ひ、加速度に奇態な
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)