咫尺しせき)” の例文
ましてや行きずりにせよ龍顔に咫尺しせきしたわけでは尚更なくつて、はるか閤門こうもんの際に跪坐きざして、そつともち上げてみた目蓋のはしに
春泥:『白鳳』第一部 (新字旧仮名) / 神西清(著)
互に咫尺しせきする間に、溝のように凹まった峡谷は、重々しい鉛色の空であるから、まだ一時半というのに、黄昏のように、うす暗い。
白峰山脈縦断記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
私は咄嗟とっさの間に、決戦の覚悟をきめた。折柄、クロクロ島の沈没しているあたりは、煙のような乾泥がたちこめ、咫尺しせきを弁じなかった。
地球要塞 (新字新仮名) / 海野十三(著)
そういいながら、ちょうど、この宮の台の原へせ上って、ほとんど、がんりきの眼前咫尺しせきのところまでやって来たものですから
大菩薩峠:23 他生の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ひと年、上洛して天顔てんがんにまで咫尺しせきするの栄すらになった。そのおり、この春日局は、いまは亡きひとながら海北友松の遺族をたずねて
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
過渡期かときの時代はあまり長くはなかった。糟谷かすや眼前がんぜん咫尺しせき光景こうけいにうつつをぬかしているまに、背後はいごの時代はようしゃなく推移すいいしておった。
老獣医 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
巨木うっそうと天地をおおうとりました、蘆葦ろい茫々ぼうぼうとしげれることは咫尺しせきを弁ぜざる有様、しかも、目の極まる限りは坦々たんたんとした原野つづき
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
明かなる夢は輪をえがいて胸のうちにめぐり出す。死したる夢ではない。五年の底から浮きりの深き記憶を離れて、咫尺しせきに飛び上がって来る。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
咫尺しせきを解かぬ暗夜にこれこそとすがりしこの綱のかく弱き者とは知らなかった。危うしと悟る瞬間救いを叫ぶは自然である。
霊的本能主義 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
とてもこの辺や○○町で見られる代物しろものじゃない。三人いるぜ。明日大滝へ行って待っていれば親しく咫尺しせきすることが出来る」
村の成功者 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
潮来いたこ町(昔は潮来いたこ板子いたこと書いた)は常陸行方なめかた郡の水郷で、霞ヶ浦からの水の通路北利根川にのぞみ、南は浪逆なさか浦を咫尺しせきの間に見る地である。
植物一日一題 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
混再拝シテもうス。書ならびニ詩話ヲかたじけなくス。厳粛ノ候尊体福履、家ヲ挙ゲテ慰浣いかんセリ。シテ賜フ所ノ詩話ヲ読ム。巻ヲ開イテ咫尺しせきニシテ飢涎きぜんたちまチ流ル。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
天が下には隠家もなくなつて、今現身げんしんの英傑は我が目前咫尺しせきの処に突兀とつこつとして立ち給ふたのである。自分も立ち上つた。
雲は天才である (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
そこには最早や緑葉のアーチなどはなくて、生い茂るに任せた枝葉が、地上までも垂れ下り、闇は一層こまやかになって、殆ど咫尺しせきを弁じ難いのです。
パノラマ島綺譚 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
罪業ざいごうの深い彼などはみだりに咫尺しせきすることを避けなければならぬ。しかし今は幸いにも無事に如来の目をくらませ、——尼提ははっとして立ちどまった。
尼提 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
喜多流宗家六平太ろっぺいた氏未ダ壮ナラズ、嘱セラレテ之ヲ輔導ス。しばしば雲上高貴ニ咫尺しせきシ、身ヲ持スルコト謹厳恬淡てんたんニシテ、芸道ニ精進シテ米塩ヲカヘリミズ。
梅津只円翁伝 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
私の居る二階の窓から、ほんとうに、ちょっと手を伸ばせば、折り取れるところに在って、それこそ咫尺しせきかんに於いて私は、火事を見ていたのである。
春の盗賊 (新字新仮名) / 太宰治(著)
『淵鑑類函』巻四二九に虎骨はなはだ異なり、咫尺しせき浅草といえどもく身伏してあらわれず、その虓然こうぜん声をすに及んではすなわち巍然ぎぜんとして大なりとある。
あはれ一度ひとたびはこの紳士と組みて、世にめでたき宝石に咫尺しせきするの栄を得ばや、と彼等の心々こころごころこひねがはざるはまれなりき。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
昨日一日山の上で濛々として咫尺しせきを辨ぜぬ淫雨に降り籠められ、今朝はつとに起きいでゝ二十五町の急阪を驅けるがごとく急ぎ下り、勝手の分らぬ船の乘降に
湖光島影:琵琶湖めぐり (旧字旧仮名) / 近松秋江(著)
五日の朝となっても西風は依然として烈しく、咫尺しせきを弁ぜぬ濃霧なので、どうにも方法がないからまた滞在と極める。九時頃雨が止んだが晴れそうな様子はない。
大井川奥山の話 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
はなはだしく坎坷かんか不遇を歎じなければならぬほどでないことは、上文に述べたごとくであるのみならず、実隆は他の公卿に比して天顔に咫尺しせきする機会が多かった。
今や海濤かいとうを踏んで隣家の如く互いに往来したる、西南群島もしくは葡萄牙ポルトガル西班牙スペイン英吉利イギリス等は、星界よりも遠く、日に相交渉するは、その咫尺しせき相接する隣藩のみ。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
が、咫尺しせきも弁ぜざる冥濛めいもうの雪には彼も少しく辟易へきえきして、にぐるとも無しに空屋あきや軒前のきさきへ転げ込んだ。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
見る見るうちに、脚の迅い雲が、向うの谷からこの谷へ疾駆して来る。天候が変った。少し急ごう。いつの間にか我らも雲中の人になって、殆ど咫尺しせきを弁ぜぬ濃霧だ。
登山は冒険なり (新字新仮名) / 河東碧梧桐(著)
身を切るごとき絶望の冷たさ、咫尺しせきを弁ぜぬ心の闇、すべてはただ人肉のうめきと、争いとであった。
咫尺しせきあいだの福住の離れに、美しい肉の塊がよこたわっているのがなんだと云うような気がするのである。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
今眼前咫尺しせきに、この偉観に接した自分は、一種の魔力に魅せられてか、覚えずあっとしたまま、暫時言葉も出なかった。此処が東穂高の絶嶂、天狗岩とでも名づけよう。
穂高岳槍ヶ岳縦走記 (新字新仮名) / 鵜殿正雄(著)
我胸裏には萬感叢起さうきせり。ベルナルドオこゝに在り。我とかれ咫尺しせきす。われはかく思ふと共に、身うちの悉くふるひわなゝくを覺えて、力なく亭内なる長椅の上に坐したり。
一日、ある老僕、隣村に使いして帰路、この森林の傍らを通過せしとき、日いまだ暮れざるに忽然こつぜんとして四面暗黒となり、目前咫尺しせきを弁ぜずして、一歩も進むことあたわず。
おばけの正体 (新字新仮名) / 井上円了(著)
もうの家を二度とおとなうことはあるまい。あの美しい夫人の面影に、再び咫尺しせきすることもあるまい。彼がそんなことを考えながら、トボ/\と門の方へ歩みかけた時だった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
予が新銭座しんせんざたくと先生のじゅくとは咫尺しせきにして、先生毎日のごとく出入しゅつにゅうせられ何事も打明うちあけ談ずるうち、つね幕政ばくせい敗頽はいたいたんじける。もなく先生は幕府外国方翻訳御用がいこくかたほんやくごよう出役しゅつやくを命ぜらる。
わずか咫尺しせきを弁じ得る濃い白雲の中を、峰伝いに下っては登り登っては下って行く。四十雀や山陵鳥やまがらが餌をあさりながら猿麻桛の垂れ下った樹間に可憐な音をころがしつつ遊んでいる。
茸をたずねる (新字新仮名) / 飯田蛇笏(著)
しかし咫尺しせきも弁じなかった。濛気の中を行くからであった。と、行手の一所ひとところから太鼓の音が鳴り渡った。それに答えて船中から法螺貝ほらがいの音が響き渡った。いずれも合図の音であった。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
眼前咫尺しせきを弁せず、日光を見ざること五日以上に至ることも珍しからず、従って寒気甚しく、寒暖計は水銀柱が萎縮して下部のガラス球の中にその姿を没してしまうという有様である。
尾瀬沼の四季 (新字新仮名) / 平野長蔵(著)
厚い五、六尺もあろうと思われる壁の中に——真暗まっくら咫尺しせきも弁ぜぬ——獄舎の中に何年何十年と捕われていた時に彼は何を友としたか。暗闇くらやみにちょろちょろ出てくる鼠を友人としたのだ。
イエスキリストの友誼 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
てんくらい、くらい、うみおもて激浪げきらう逆卷さかまき、水煙すいゑんをどつて、咫尺しせきべんぜぬ有樣ありさまわたくしでなく、たゞちに球燈きゆうとうてんじてすと、日出雄少年ひでをせうねん水兵等すいへいらひとしくに/\松明たいまつをかざして
扉の向うには、やや離れた処に、一つの大きな窓があってあたりが一面に咫尺しせきを弁ぜぬ真っ暗闇であるのに、ただその窓のみが、四角に区切られた火炎の如く、橙色だいだいいろに輝いているのである。
凍るアラベスク (新字新仮名) / 妹尾アキ夫(著)
桓武天皇九代の皇胤と列べ立てゝは緞帳どんちやうの台詞染みて笑止をかしくないが、御歴代の天皇様から御鐘愛を蒙むつて恐れ多くも九重こゝのへ咫尺しせきし奉つたためしは君達も忠君無二の日本人だから御存じだらう。
犬物語 (新字旧仮名) / 内田魯庵(著)
マタドルは咫尺しせきの間に迫って、牛の身体に手をかけたり、突っかかって来る巨体を身をかわしてやり過ごしたりする。その時旗はうしろの方にやって、殆んど身を以って一騎打の離れ業を見せる。
闘牛 (新字新仮名) / 野上豊一郎(著)
咫尺しせきも弁ぜぬ大雪 そうすると雪が大層降って来たです。だんだんはげしくなってどうにもこうにも進み切れない。もう自分の着て居るチベット服も全身しめってその濡りがはだえに通って来たです。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
或時は寒流から押しよせて来る濃霧のために、眼前咫尺しせきを弁じない事もあるが、今日のように、あの美しいタマルパイの姿をくっきり見せてくれる事もある。なるほど私は船長だ。パイロットだ!
バークレーより (新字新仮名) / 沖野岩三郎(著)
あまつさえ人夫らのうちに、寒気と風雨とに恐れ、ために物議を生じて、四面朦朧もうろう咫尺しせきべんぜざるに乗じて、何時いつにか下山せしものありたるため、翌日落成すべき建築もなお竣工しゅんこうぐるあたわざるとう
「ああ、ああ、何たる幸福ではありましょう。咫尺しせきの間に殿下の尊顔を拝しますることは、申そうに真実夢のようでありまする。このようなことはあまり御寛大にすぎると申上ぐべきでありましょう」
魔都 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
眼前咫尺しせきの間を見つめてゐる厭な冷酷な人間の集りだ
智恵子抄 (新字旧仮名) / 高村光太郎(著)
暴風ばうふう四方の雪を吹ちらして白日をおほひ、咫尺しせきべんぜず。
一時間余も私どもは天顔に咫尺しせきしたのである。
鳴雪自叙伝 (新字新仮名) / 内藤鳴雪(著)
彼は支倉と正に咫尺しせきの間に着席を命ぜられた。
支倉事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
埋火うずみびに年よる膝の小さゝよ 咫尺しせき
俳諧大要 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
まして御簾みすもない咫尺しせきにまかるなどは、時なればこそだと思った。伝奏にもたず、後醍醐はじかにおことばをかけられた。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)