退さが)” の例文
密使の僧は、こっそり退さがって行った。——その日、べつの殿中には、信長が、着京の挨拶のため伺候して、義昭の出座を待っていた。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あたかも二十有余の戦勝は翼をひろげて戦場に入りきたったかの観があって、勝利者たる敵軍も敗者たる心地がして後ろに退さがった。
智惠子は、自分がその小川家の者でない事を現す樣に、一足後へ退さがつた。その時、傍の靜子の耳の紅くなつてゐた事に氣がついた。
鳥影 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
首を縮め帆立尻ほたてじりをし、ジリジリと後へ退さがりながら、息を呑み眼を見張り、素破すわと云わば飛んで逃げようと、用心をして構えていた。
剣侠 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
と其の場をはずして次の間へ退さがり、胸にたくみある蟠龍軒は、近習の者にしきりと酒をすゝめますので、いずれも酩酊めいていして居眠りをして居ります。
後の業平文治 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
先方へ延びずにあと退さがり、西飛の癖として、火先へ延びず、逆に尻火に延び、反対に退却した形になって仲町から田原町へと焼けて来た。
「昨日はあまり早く退さがりましたのが残念だったものですから、まだ宮様が御所にいらっしゃると人が言うものですから、急いで」
源氏物語:45 紅梅 (新字新仮名) / 紫式部(著)
「はッ恐れながら。」と冒頭まえおきして、さて御機嫌を伺えば、枯れたる声を絞らせたまい、「退さがりや、退りや。」と取っても附けず。
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
一同が思わずワアと声を揚げてあと退さがったすきに吾輩は、そこに積上げて在るトランクを小楯に取って身構えた。ドイツコイツの嫌いは無い。
超人鬚野博士 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
「お召しにより三之丞、参上仕りました」「近うまいれ」「はっ」「弓の相手を申付ける。これ、その方どもは退さがってよいぞ」
備前名弓伝 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
即ち豫め病と称して宿に引き退さがり、小柄こづかを以て眼球の組織を破壊した後、その傷痕の癒えるのを待って始めて出仕したと云う。
聞書抄:第二盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
平生つつかくしているお延の利かない気性きしょうが、しだいに鋒鋩ほうぼうあらわして来た。おとなしい継子はそのたびに少しずつあと退さがった。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
さて、彼と彼の助力者たちは、カーテンの後に引き退さがつた。デント大佐に率ゐられた、も一つの組は、半圓形に列べた椅子に掛けた。
「ねえ、旦那。今夜お由利が帰ってきましたら、平太郎さんとの話を、すっかり決めて、一日も速くお城から退さがるようにしたいもんですねえ」
両手をくくられて、雪のなかにさらされて、所詮しょせんわが命はないものと覚悟していると、やがて主人は城から退さがって来ました。
青蛙堂鬼談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
あっさりお受けして、御前を退さがった長庵だったが、考えてみると、そんなことで真面目まじめに働くことはない。根が荒っぽい大悪党の長庵である。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
老人はほうきを中へ入れようとしたが、入れることができなかった。同時にもつれあっていた黒い渦巻が眼の前に倒れた。老人は驚いて一足退さがった。
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
ところが次ぎの瞬間には、何も言うことがなくなり、それから今度は、『ちぇっ、まるで得体えたいの分らぬ男だ!』と言って引き退さがるより他はない。
一色が知っているような気もしたが、黙って引き退さがっている一色を、年効としがいもなく踏みつけにしていることを考えると、そう思いたくはなかった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
退さがれ退れ、退れと申すに。殿はただいま御病気じゃ、追って穏便おんびん沙汰さたを致すから、今日はこのまま引取れと申すに」
大菩薩峠:17 黒業白業の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
衆徒は驚いて、こは何事と増賀をひき退さがらせようとしたが、増賀は声をはげしくして、僧正の御車の前駈さきがけ、我をさしおいて誰が勤むべき、と怒鳴った。
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
私はもうあとは聴いていなかった。たれはばかる必要もないのに、そっと目立たぬように後方うしろ退さがって、狐鼠々々こそこそと奥へ引込ひっこんだ。ベタリと机の前へ坐った。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
「それじゃ話が未だ徹底していない。そんなことでノメ/\引き退さがって来る仲人があるものか? 何が犬馬の労だ?」
勝ち運負け運 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
視線を据えたままじりじりと退さがって、今は彼のうしろは行き詰りであった。くちびるを鳴らして、白い手を振ったり拡げたり、前後に振りまわしたりした。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
お紋は慎み深く、それっきり姿を見せず、美しい女中達も遠く退さがって銘々の部屋へ入った様子、巣鴨の夜は、滅入るように、ただ深々と更けて行きます。
が突然彼は後ろに飛び退さがった。彼女はいて笑いつづけた。二人はたがいに顔をそむけ、なんでもないふうを装っていたが、でもそっと眼を見合っていた。
そのとき竹見は、ハルクの後へ退さがっていたが、にらみ合いの相手丸本をいつになくきたない言葉でののしり
火薬船 (新字新仮名) / 海野十三(著)
幸子は顔をしかめて、彼を見ながらだんだん後へ退さがってゆくと、あがかまちから落ちかけようとして手を拡げた。
御身 (新字新仮名) / 横光利一(著)
それもそのはず、群集にもまれて、絶えず前に出過ぎるか、後へ退さがりすぎるかした。のべつに新聞の売店や、街燈の柱や、花売り小屋にぶつかって廻り路をした。
イエスは弟子たち一同を鋭く見まわしつつ言下に、「退さがれ、サタン! 汝は神のことを思わず、かえって人のことを思う」と強く叱咜しったし給うた(八の三一—三三)。
才五郎は、平伏すると、そのまま二三尺後方うしろ退さがって、もう一度平伏して、立上ると、出て行った。
大岡越前の独立 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
そのしばらく前に二三人の足軽あしがるらしい者が、お庭先へ入っては参りましたが、青侍あおさぶらいの制止におとなしく引き退さがりましたので、そのまま気にも留めずにいたのでございます。
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
主人あるじは東に向い一拝して香をき、再拝して退さがった。妻がつゞいて再拝して香を焚き、三拝して退いた。七歳ななつの鶴子も焼香しょうこうした。最後におんなも香を焚いて、東を拝した。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
四辺あたり一面真赤になる。と、思わず飛び退さがつた兄の子は、吃驚びつくりすると、唖のやうに其処に突つ立つて了つた。の子から観ると、それはあまり予期しない奇怪事であつた。
神童の死 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
真暗で馬は見えないけれど、いななきを便りに行ってみると、元の場所から少し退さがったところに、馬は相変らず横っ倒れになっていた。車台がそれだけ後退あとすざりをしたのである。
乞食 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
まるで遊戲でもしているような調子だったが、そのくせ座席の向うの隅へ身をにじり退さがった。
目をつぶってしまいました。それでも忠実な黄は私の身を案じてなかなか退さがろうとはせず、躊躇して居りましたが、私はもう相手にもならず、くるりと横を向いてしまいました。
妖影 (新字新仮名) / 大倉燁子(著)
女中は引き退さがった。ドーブレクは再び書きかけの手紙を書いた。それから手を延ばして、彼は机の一端にあるメモの用紙へ何か書いて、すぐ眼に付く様にそれを机上に立てかけた。
水晶の栓 (新字新仮名) / モーリス・ルブラン(著)
やがて女中が退さがっていったあとで、女はさっきから黙って考えているような風であったが——もっとも彼女はいつでも、いうべき用のない時は無愛想なくらい口数の少い女であった。
黒髪 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
ぢいさんはすこ退さがつて兩手りやうてもつ喧嘩けんくわ相手あひていぢめるやうな容子ようすをしてせた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
「ここにはもういなくてもよいから、あちらへ退さがれというのじゃ。早く退れっ」
山県有朋の靴 (新字新仮名) / 佐々木味津三(著)
私は次の間に退さがって、春の夜の夢のような恋の御物語に聞惚れて、唐紙の隙間すきまからのぞきますと、花やかな洋燈ランプの光に映る奥様の夜の御顔は、その晩位御美しく見えたことは有ませんでした。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
ああどうしよう、せっかくの望も喜も春の雪と消え失せてしまった。ああこのままここを辞せねばならぬのか。彼の胸には失望と苦痛とが沸き立った。仕方なく彼はきびすを返して忍足しのびあしでここを退さがった。
愛か (新字新仮名) / 李光洙(著)
いまものうてくだされ、天人てんにんどの! さうしてたかところひかかゞやいておゐやる姿すがたは、おどろあやしんで、あと退さがって、しろうして見上みあげてゐる人間共にんげんども頭上とうじゃうを、はねのあるてん使つかひが、しづかにたゞよくもって
恐ろしさに両手で顔をおおいながら部屋のすみに退さがって行った。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
で、にべもなく拒絶した。しかし彼はなかなか引き退さがらない。
門倉平馬は、食卓から退さがるように、畳に両手を下ろした。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
あの夜、勘当になって上の御広間から退さがるとき政岑が
鈴木主水 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
給仕人はそいつを筆記して引き退さがって行く。
戦雲を駆る女怪 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
そう引き退さがるより外はなかった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)