いぶか)” の例文
いぶかしそうな眼を向けたが、孝之助はうなずいた。北畠の叔母に関する限り、できるだけ話を簡単にするのが、長いあいだの習慣であった。
竹柏記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
たしかに兄は起きているのにといぶかりながら、勝代は手索てさぐりでマッチを捜して、ランプをけてみると、兄は例の処に寝ていなかった。
入江のほとり (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
魔術は現実に行われており、彼自らがその魔術の助手でありながら、その行われる魔術の結果に常にいぶかりそして嘆賞するのでした。
桜の森の満開の下 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
おくれ馳せの老女いぶかしげに己れが容子ようすを打ちみまもり居るに心付き、急ぎ立去らんとせしが、何思ひけん、つと振向ふりむきて、件の老女を呼止めぬ。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
どうして此の女はいつもこんな目つきでしか俺を見られないんだろうといぶかりながら、雨のふきつけている窓の方へ近づいて行った。
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
相手は誰であるかわからぬ、御辞儀をするから此方でも御辞儀をしたものの、いぶかしいような気がして振返ったものとも解せられる。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
汁粉屋の看板を掛けた店へ来て支那蕎麦そばがあるかときき、蕎麦屋に入って天麩羅てんぷらあつらえ断られていぶかし気な顔をするものも少くない。
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
と、私は彼の視線が前の卓子テエブルに重ねた私の手を射たのに氣が附いた。一體何を見られたのか知らといぶかる間もなく、彼の言葉が説明した。
はじめての人だが誰だろうといぶかる妹のよしには、専売局の友達が惣吉の行先を訊いてきたのだと、それでも咄嗟とっさに誤魔化すことが出来た。
和紙 (新字新仮名) / 東野辺薫(著)
今もそれをまことにいぶかしく思っている。どうしたわけで、あの年端としはもゆかぬはらからをいつも暗い座敷牢のなかに入れ置いたのであろう。
三人の双生児 (新字新仮名) / 海野十三(著)
珍しいことがあるものだといぶかりつつ、野口、庭田ほか数名の在京委員が出頭すると、大石次官が面会するということで応接室へ通された。
渡良瀬川 (新字新仮名) / 大鹿卓(著)
物おほくいはぬ人のならいとて、にわかいだししこと葉と共に、顔さとあかめしが、はや先に立ちていざなふに、われはいぶかりつつも随ひ行きぬ。
文づかひ (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
わするゝひとありとかきしがこれはまたいかにかへるべきいへわすれたるかとしもまだわかかるを笑止せうしといはゞ笑止せうしおもへばさていぶかしきことなり
別れ霜 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
しかるに人が一たび何ゆえにかくのごとくであるかをいぶかり問わんとするに及んで、学問それ自身がかなり煩悶はんもんをしたようである。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
不興気な呉羽之介の声音こわねをきいて、お春はいぶかしそうに恋人の顔を眺めたが、しかし何の疑いも抱かぬように大人しく座を立ちます。
艶容万年若衆 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
ジェルテルスキーは長い椅子からたちながら、金髪をかき上げ、水のようなあおい眼をいぶかしげに動かした。柱時計は二時十五分を示している。
(新字新仮名) / 宮本百合子(著)
薄暗い二間には、襤褸布団ぼろぶとんくるまって十人近くも寝ているようだ。まだつかぬ者は、頭を挙げて新入しんいりの私をいぶかしそうに眺めた。
世間師 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
……しかし、少女は伊曾の沈黙をいぶかるやうな眼の色を見せてこの時彼を見上げてゐた。彼は何か言はなければならなくなつた。
青いポアン (新字旧仮名) / 神西清(著)
さらその何處どこにもかんじない微風びふう動搖どうえうして自分じぶんのみがおぢたやうにさわいでる。なにさわぐのかといぶかるやうにすこ俯目ふしめおろしてる。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
お嬢様は手を握られ真赤まっかに成って、又その手を握り返している。此方こちらは山本志丈が新三郎が便所へき、余り手間取るをいぶか
夫人はいぶかり、「これこれ、其方そちは血迷うていやるようじゃ、落着いて申すが可い、死んだといやる、何がどうしたのじゃ。」
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「隠すより現わるる。下男の久作が行方ゆくえと言い、その夜のそなたが素振そぶりいぶかしい限りと思うていたが、人のうわさで思い当った」
と車を置いてついて来ながらも、運転手はまだいぶかしそうに置いて来た車の方を振り返って見たりまたその辺のくらがりを透して見たりしていた。
逗子物語 (新字新仮名) / 橘外男(著)
牧野はそろそろいぶかるよりも、不安になって来たらしかった。それがお蓮には何とも云えない、愉快な心もちをそそるのだった。
奇怪な再会 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
いぶかしそうにわたくしの表情を、と見こう見していた母親は、やがて莞爾かんじと笑みかけたいのを、ぐいと唇の両角を引締め、それから言いました。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
怪しい気配をいぶかしがった城入道その他の人々が、廊を踏鳴らして近寄ると、天狗たちはばらばらと柱をよじ上り、鴨居かもいを伝わって逃散ります。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
こはそも怎麼なる処ぞと、四辺あたりを見廻はせば、此処はおおいなる寺の門前なり。いぶかしと思ふものから、門のうちに入りて見れば。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
そしてただいぶかっていた。鴎外の文と他の諸家の文とを較べるまでもなく、その差異の主要な部分はその香気の有無にある。
しばらく計量器を仰いでいた暮松は、ほッと長い溜息とともに警部を振返って、いぶかしげに眉をひそめて云うのであった。
凍るアラベスク (新字新仮名) / 妹尾アキ夫(著)
兄弟子は、いつもおつとりしてゐる良寛さんの、何処どこにこんなはげしい心がひそんでゐたのかいぶかりながら、しばらくその顔を見てゐるばかりだつた。
良寛物語 手毬と鉢の子 (新字旧仮名) / 新美南吉(著)
彼はふらふらの気分で、しかしまっすぐ歩ける自分をいぶかりながら鋪道を歩いていた。友人と別れた後の鋪道にはまたぼんやりと魔の影がただよっていた。
死のなかの風景 (新字新仮名) / 原民喜(著)
N氏も勿論もちろん同感してくれた。そして色々の学校の窯業科ようぎょうかなどを出た人が、何故なぜもっと組織的に、科学的に研究をしないのだろうといっていぶかっていた。
九谷焼 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
一葉は、ふとその日のいぶかしい友の言葉を思い出したので、歌子によってその惑いを解いてもらおうとしたのであった。
樋口一葉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
俯して我面を見るものは、フラア・マルチノなりき。わが色蒼ざめてこゝにあるをいぶかりて、何事のありしぞと問ひぬ。われはいかに答へしか知らず。
何事かといぶかりつつも行きて見れば、同志ら今や酒宴しゅえんなかばにて、しゃくせるひとのいとなまめかしうそうどき立ちたり。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
で、なのろうとはしなかった。そういう浪人の困惑した態度を、相手の武士はいぶかしそうに、しばらくの間見守っていたが、にわかに笑声をほころばせた。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
またも中川様の来たまへしかば、これに少しは人心地つきたれど。見ればさきの日には似ぬ力なきお顔色いぶかしきに。
葛のうら葉 (新字旧仮名) / 清水紫琴(著)
久兵衛のごとき堂々たる人間が必ずしもどぎった寿司を作らないという点を、われわれはいぶかしく考えるのである。
握り寿司の名人 (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
ねずみいぶかしげにあいちやんのはうて、そのちひさい片方かたはうまたゝくやうにえましたが、なんともひませんでした。
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
『類函』四三八に、王趙かたへ一僧来り食を乞い、食おわって仮寝うたたねする鼾声夥しきをいぶかり、王出て見れば竜睡りいた。
どうした理由かそれを云い直した時に Withウイズ Hecatesヘキッツ を一節にして、Ban と thrice とを合わせ、しかもまたいぶかしいことには
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
で、私はいぶかつた、何人がの静かな土の中に眠る人々に安らかでない睡眠のあるといふことを想像しえたかと
愛は、力は土より (新字旧仮名) / 中沢臨川(著)
二人は家内かないの紳士をあつかふことのきはめて鄭重ていちようなるをいぶかりて、彼の行くより坐るまで一挙一動も見脱みのがさざりけり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
娘は自分のすぐ顔のちかくに、父と母との顔をこんなにまで近く、しかもいぶかしく眺めたことがなかった。
みずうみ (新字新仮名) / 室生犀星(著)
正勝はいぶかしそうにして躊躇ちゅうちょしていた。喜平は後ろを振り返って、またぴゅっぴゅっと鞭を振り鳴らした。
恐怖城 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
セエラは寝てしまったのかしら、といぶかっているところへ、ふいにセエラの低い笑い声が聞えて来ました。
おさへたりと云ふに左京は是をきいて大いにいぶかり我々は大雪を踏分ふみわけさむさをいとはずふもとへ出てあみはつても骨折損ほねをりぞんして歸へりしに貴殿は内に居てあたり乍ら千兩程の大鳥を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
なよたけ (ふと、いぶかしげに)文麻呂! なぜなの?……なぜ、あたしをそんなにきつく抱き締めるの?
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
ますますいぶかしげに、ますます呆れたように、おれを見つめるようになるし、また彼等の人生観はあまりに偏頗で、おれはそれに順応する気になれなかったのである。
道化者 (新字新仮名) / パウル・トーマス・マン(著)
高重は突き出た淡い口髭の周囲をとがらせながら、黒い顔の中で、一層いぶかしそうに眉をひそめていった。
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)