まば)” の例文
朧月おぼろづきに透して見るまでもなく、磁石じしやくと鐵片のやうに、兩方から駈け寄つた二人が、往來の人足のまばらなのを幸ひ、ひしと抱き合つた時
半分だけ大扉をひきのこした駅から出たまばらな人影は、いそぎ足で云い合せたように左手の広い通りへ向って黒く散らばって行く。
杉垣 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
まだ薄暗い方丈の、朝露に濡れた沓脱くつぬぎ石までけつまろびつ走って来た一人の老婆が、まばらな歯をパクパクと噛み合わせてあえいだ。
それは丁度ちょうど午前十時半ごろだった。この時刻には、流石さすがの新宿駅もヒッソリかんとして、プラットホームに立ち並ぶ人影もまばらであった。
赤外線男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
戸外は相かわらず紺絣こんがすりを振るように、みぞれが風にあふれて降って、まばらに道ゆく人も寒そうに傘の下に躯を固くしながら歩いている。
流転 (新字新仮名) / 山下利三郎(著)
さうしてはまたまばらな垣根かきねながみじかいによつてとほくのはやしこずゑえた山々やま/\いたゞきでゝる。さわやかなあきくしてからりと展開てんかいした。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
砂山の背後うしろの低い処には、漁業と農業とを兼ねた民家がまばらに立つてゐるが、砂山の上には主人の家が只一軒あるばかりである。
妄想 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
ふちが深くて、わたれないから、崖にじ上る。矢車草、車百合、ドウダンなどが、つがや白樺の、まばらな木立の下に、もやもやと茂っている。
白峰山脈縦断記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
かつては淀みの岸に沿って、まばらに弱よわしい茎を伸ばしていたのが、拡げるだけ根を拡げ、すでに淀みの半ば以上を掩いつくしている。
(新字新仮名) / 山本周五郎(著)
ちょうど正面の松林がまばらになって、窓のごと隙間すきまを作っている向うから、そのえ返った銀光がピカピカと、練絹ねりぎぬのように輝いている。
母を恋うる記 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
灯影のまばらなその町へ来ると、急に話をめて、女から少し離れて溝際どぶぎわをあるいていた浅井の足がふと一軒の出窓の前で止った。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
ふと黒い空を見ると、まばらにまたゝいてゐる薄い星の間を、自分の心持の中でのやうに、それかなきかに小さい星がかすかに流れた。
桑の実 (新字旧仮名) / 鈴木三重吉(著)
それは杉の低い生垣いけがきで、往来からも墓場はよく見えるばかりか、野良犬のらいぬなどが毎日くぐり込むので、生垣の根のあたりはまばらになっていた。
半七捕物帳:69 白蝶怪 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
夜は既に明け放れて山霧全くれ、雨足も亦まばらになった。官軍は死屍しかばねを踏んで田原坂に進み、更に一隊は、敵塁の背後に出でようとした。
田原坂合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
桐の葉は人も知る如く大きなあらい葉で、それが桐の幹にまばらについておるのであるが、その葉の落ちるときはぽくぽくともろく落ちやすい。
俳句はかく解しかく味う (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
思ひ出した昔懐かしい話に、酔つたお文を笑はして、源太郎は人通りのまばらになつた千日前を道頓堀へ、先きに立つて歩いた。
鱧の皮 (新字旧仮名) / 上司小剣(著)
二階の手摺てすりに湯上りの手拭てぬぐいけて、日の目の多い春の町を見下みおろすと、頭巾ずきんかむって、白いひげまばらにやした下駄げたの歯入が垣の外を通る。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ところどころに、松の樹はあるが、それも密生した林ではなく、極めてまばらに、この寺院の風致を添えている程度なのである。
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
やがて樹立がまばらになって、右左両方へ梢がひらくと、山の根が迫って来た。倶利伽羅のその風情は、偉大なる雲の峯が裾を拡げたようである。
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
まばらなマロニエの樹立こだちの中央に例の寛衣くわんいを着けてけんを帯びひさしの広い帽を少し逸反そりかへらしてかぶつた風姿の颯爽さつさうとしたリユウバンスの銅像が立つて
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
その内に竹がまばらになると、何本も杉が並んでいる、——わたしはそこへ来るが早いか、いきなり相手を組み伏せました。
藪の中 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
道傍の万屋よろずやの、下駄も小ぎれも瀬戸物も売って居るような軒先にも二三本梅があって、そのまばらな白い花が澄んだ青空の下にくっきり映えて居る。
(新字新仮名) / 岩本素白(著)
人家がやがてまばらになり、倉庫のやうな建物のぽつぽつと並んだ薄暗い場所に出た。潮風が髪と袂と裾とを目がけて、真つ向から吹きつけて来る。
双面神 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
まばらな鎮守の森をとほして、閃々きら/\する燈火の影が二つ三つ見え出した頃には、月がすでにその美しい姿を高社山の黒い偉大なる姿の上にあらはして居て
重右衛門の最後 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
枝が老女の髪のようにおどろに垂れて、病葉が欠歯のようにまばらについているを見ると、彼は急に狼狽ろうばいをはじめました。
大菩薩峠:29 年魚市の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
三時半頃から明るくなり掛けて四時には全く夜が明けてしまつた。五時過に顏を洗ひに行くと、白いまばひげのある英人が一人廊下に腰を掛けて居た。
巴里まで (旧字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
大きな通りを外れて街燈のまばらな路へ出る。月光は初めてその深祕さで雪の積った風景を照していた。美しかった。
泥濘 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
この時またもや時雨しぐれまばらに降り来たりぬ。その軽き一滴二滴に打たれてこずえより落つる木の葉の風なきにひるがえるさまを青年わかものは心ありげにながめたり。
わかれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
時々に過ぎる雲のかげりもなく、晴れきった空だ。高原をひらいて、間引いたまばらな木原こはらの上には、もう沢山の羽虫が出て、のぼったりさがったりして居る。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
園内には人影がだんだんまばらになってくる。先刻さっきのビスケットの男もいつの間にかあたりに見えなくなっていた。
動物園の一夜 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
白く乾いた脣のまわりにまばらな無精髭ぶしょうひげがしょぼしょぼ生えて、それが間の抜けた表情を与えてはいるが、しかし、又、其の、間の迫った眉のあたりには
虎狩 (新字新仮名) / 中島敦(著)
晩春の午後の陽射しを受けて淋しくいぶぎん色に輝く白樺の幹や、まばらな白樺の陰影に斜めに荒い縞目をつけられて地味に映えて居る緑の芝生を眺めて居た。
決闘場 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
これもまだ克明に目に残っている。それから、彼が東京からはじめてこの新築の家へ訪ねた時も、その頃はまだ人家もまばらで残骸ざんがいはあちこちにながめられた。
永遠のみどり (新字新仮名) / 原民喜(著)
まばらにれたる枝さらさらとなびき、幽霊の髪の毛のごとく佐太郎が頭に触れて肩をでり、げにこの曲淵には去年の秋この村に嫁ぎたる阿豊おとよと言える女房
空家 (新字新仮名) / 宮崎湖処子(著)
まばらになり、やがて、せた灌木となるヤナギの木も姿を消した。あとはまた茫洋ぼうようとしたヨシの草野であった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
「額広く鼻は高く、きれの長い末上りのきつい目、たぶの無いような耳、おとがい細く一体に面長で、上髭うわひげ薄く、下鬚したひげまばらに、身のたけはすらりと高い方で。」
雪たたき (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
南に向うものはまばらな笹の中を下るので、甚しく邪魔されるようなことはなかった。下り切るとやや深い笹を分けて二つの隆起をえた。三時三十五分である。
皇海山紀行 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
無心な少年に別れて、復た岸本は細いまばらな柳の枯枝の下った石垣に添いながら歩いて行った。柳橋を渡ってすぐに左の方へ折れ曲ると、河岸の角に砂揚場すなあげばがある。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
かぶらなかったと思われる部分の山腹は一面にレモン黄色と温かい黒土色との複雑なニュアンスをもっていろどられた草原に白くさらされた枯木の幹がまばらに点在している。
雨の上高地 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
二人は急に声を潜めてなにやら話し合っていたが、街路樹の葉がまばらに影を落としているアスファルトの道路を横切って東京駅地下室の美容院の階段を下りていった。
宝石の序曲 (新字新仮名) / 松本泰(著)
停車場の構内と街道へ續く廣い空地との間にはまばらな黒塗の柵があつて、その根本のところにちよろちよろと青草が出てゐるが、肥料が足りないと見えて元氣がない。
少年の死 (旧字旧仮名) / 木下杢太郎(著)
直径さしわたし尺五寸もある太い丸太の、頭を円くして二本植ゑた、それが校門で、右と左、手頃の棒の先を尖らして、無造作に鋼線はりがねつないだ木柵は、まばらで、不規則で、歪んで
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
店の中は、夕方だったけれど、大雪のせいか、彼女の外には三四組の客がまばらに居るきりだった。
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
すぎの老木がまばらな林をなしているのが見えた。騒がしい鴉の声はその林から聞えていた。木の下なれば草の中に寝るよりはよっぽど好いと思った。大異は林の方へ往った。
太虚司法伝 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
構内は人影もまばらなほどの裏淋しさ、象徴樹トピアリーまがきが揺れ、枯枝が走りざわめいて、その中から、湧然ようぜんと捲き起ってくるのが、礼拝堂で行われている、御憐憫ミセリコルディアの合唱だった。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
駅から道順を訊きながら、どんどん奥の方へはいって、小川を渡り、一群の商店街を過ぎると、もう其処は、新しく市内になったとはいえ、ごくまばらにしか人家がなかった。
魔像 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
お茶屋へ往き交う者のほかは人脚もまばらになって、冷たい夜の風の中に、表の通りの方を歩く下駄げたの足音ばかりが、てついた地のうえに高くひびいているばかりであった。
狂乱 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
幸いにその夜はある山のに着きましてまた例の雪がまばらに積って居る草の原に宿りました。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
博士と私とは、研究所の建物の裏にまわり、まばらな雑木林の中に歩み入った。百メートルほど進んだとき、正面に曇り日の光を受け、鏡を伏せたように輝く結氷した池の面が見えた。
博士の目 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
痩せて黄色になつた顔には、もとの面影がもはや無いとつても、白きを交へてまばらに延びた鬚髯しゆぜんのあたりを見てゐると、かき村人むらびと時代の顔容をおもひ起させるものがあつた。
島木赤彦臨終記 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)