ぬく)” の例文
新九郎は身をすくませた。するすると闇を探ってきたお延のぬくい——刎ね返されないような魅力の腕が、新九郎の頸を深く抱きしめた。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「おう、まだぬくみがある。このぶんなら大丈夫。……落ちる途中で気を失ったとみえて、いいあんばいにあまり水も飲んでいない」
顎十郎捕物帳:01 捨公方 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
ぬくどりと同じやり方である。馬の体温によって足をあたためるというのは、馬上の寒さを裏面から現したようで、実はそうでない。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
てた手はふところの中のぬくみをなつかしく感じた。弁当は食う気がしないで、切り株の上からそのまま取って腰にぶらさげた。
生まれいずる悩み (新字新仮名) / 有島武郎(著)
ことに一間ほどへだてて、二人の横に置かれた瓦斯煖炉ガスストーブの火の色が、白いものの目立つ清楚せいそへやの空気に、恰好かっこうぬくもりを与えた。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
少し寄り添ふやうにすると、娘の體温が、ほんのりと夜の大氣をぬくませて、八五郎をこよなくロマンチツクにしてしまひます。
銭形平次捕物控:282 密室 (旧字旧仮名) / 野村胡堂(著)
『風邪かも知れませんが、……先刻さつき支廳から出て坂を下りる時も、妙に寒氣さむけがしましてねす。餘程ぬくい日ですけれどもねす。』
病院の窓 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
また一時いっとき廬堂いおりどうを廻って、音するものもなかった。日は段々けて、小昼こびるぬくみが、ほの暗い郎女の居処にも、ほっとりと感じられて来た。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
『待て待て。その仁三郎は待て。今俺が胸のとこをばあたって見たれあ、まだどことのうぬくごとある。まあだ生きとるかも知れん』
近世快人伝 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
「じゆん! もつともつと炭をくべろや。藥罐をちんちん云はせにや。寢る前にみんな熱い砂糖湯でも飮んで、少しなかからぬくとまらにや。」
続生活の探求 (旧字旧仮名) / 島木健作(著)
ゆかは暖炉だんろぬくまりにて解けたる、靴の雪にぬれたれば、あたりの人々、かれ笑ひ、これののしるひまに、落花狼藉らっかろうぜき、なごりなく泥土にゆだねたり。
うたかたの記 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
ふところに抱いてぬくめたがそれでも容易に温もらず佐助の胸がかえって冷え切ってしまうのであった入浴の時は湯殿ゆどの湯気ゆげこもらぬように冬でも窓を
春琴抄 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
まぶしいほどの電気で照し出され、絶えず出入りする人の気配と、土間づたひの台所の方から流れて来る何かの匂ひや湯気でぬくもつた空気のために
医師高間房一氏 (新字旧仮名) / 田畑修一郎(著)
女の身体のぬくみが、ぶっつかった彦太郎の肩口から、ずんと身体中に沁みわたり、彦太郎は最早余裕を失って、いきなり両手で女の肩を抱いた。
糞尿譚 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
彼を盲にするような強い稲妻がさっとひらめいて来て、彼のすがたは鷲に掴まれたぬくめ鳥のように宙に高く引き挙げられた。
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
それにおおかたはめきっている。そうだろう。これくらい多量に焼くうちには何のぬくみも飛び去ってしまうであろう。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
柔なぬくよかな心持、浴槽の縁へ頭を載せ足を投げ出してゐると、今朝出立して來た田原の宿、頂上の白雲、急峻な裏山などは夢のやうになつてしまふ。
山岳美観:02 山岳美観 (旧字旧仮名) / 吉江喬松(著)
いいかい? そこで一つしっかり考えてみたまえ——四階の上にはまだぬくもりの残った死体がころがってるんだぜ。
いやしずかに。——ただいまみゃくちからたようじゃと申上もうしあげたが、じつ方々かたがた手前てまえをかねたまでのこと。心臓しんぞうも、かすかにぬくみをたもっているだけのことじゃ
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
あたかも、冬の夜に、甘酒を一杯頂戴して、からだにぬくもりを覚えたほどの、想いを催したのである。私は、利根川の西岸上野国東村大字上新田に生まれ育った。
わが童心 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
今夜このぬくそうなテントの中を見ながら外に寝なければならんというは誠に浅ましい訳であると思いました。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
彼の芸術に心酔するようなふりを見せて、その実、たんまりと、焚火のぬくまりをむさぼっている狡猾こうかつなる策略。
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
しかし、それにも関らず、彼の心からは、今までの春のぬくもりが、幾分か減却したような感じがあった。
或日の大石内蔵助 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
彼はそれらの姿がじらうようにかげに身をかくすのを目にし、その肌のぬくもりを身に感ずるのだった。そしてこの悩ましさは切ないほどに募って行った。……
イオーヌィチ (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
巣ごもりをした雌鶏みたいに言葉を抱きこんで後生大事にぬくめておりもしないで、まるで肌身はなさぬ手形でも突きつけるように、早速ペラペラと喋ってしまう。
それはロチスター氏の腕を求めることが出來なかつた——それは彼の胸からぬくもりをとることが出來なかつた。あゝ、最早それは彼の方を向くことも出來ないのだ。
朝日はかくて濡縁ぬれえんの端に及び、たちまちのうちにその全面に射し込んで来て、幾年の風雨にらされて朽ちかかった縁板も、やがて人膚ひとはだぐらいのぬくみを帯びるようになる。
外に照り輝き、ぬくもり合うべき力は内に凝結して曙の知恵の力となって、真理を掴もうとしていた。
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
どくがまだのこってたら、それこそはかりいのちからまこといのちかへらする大妙藥だいめうやく!……まだぬくい、おまへくちびる
彼はこの世に一人の宮を得たるが為に、万木一時いちじに花を着くる心地して、さきの枯野に夕暮れし石も今た水にぬくみ、かすみひて、長閑のどかなる日影に眠る如く覚えけんよ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
冷え冷えとした灰色の暁のうちに、遠い鐘楼で御告アンジェリユスの鐘が細い音をたてる。寝床のぬくみの中にある二人の身体は、その暁の冷気に震えて、なお恋しげにひしと寄り添う。
問『つまりかるくてぬくみがなく、さわってもカサカサしたかんじではございませんでしたか……。』
其一本は杉箸で辛くも用を足す火箸に挟んで添へる消炭の、あはれ甲斐なき火力ちからを頼り土瓶の茶をばぬくむるところへ、遊びに出たる猪之の戻りて、やあ父様帰つて来たな
五重塔 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
街路の地面は心地よく乾いていて、ほっこりとしたぬくみのある日の光が、私達の身体を包み込んだ。光子は軽快な足取りで私と並んで歩きながら、変に黙り込んでしまった。
或る男の手記 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
私は浮きかかる体を両手でささへ、頭を仰向けによせかけて、ぬくもつた肌に息を吹きかけてみたりしながら今日の楽しさをくりかへしてゐた。私はそこを木霊の峰とつけた。
銀の匙 (新字旧仮名) / 中勘助(著)
凍り付いた戸をガタピシさせて五寸ばかり開くと、寒い風に、粉のような雪が混って顔に真面まともに吹き付けた。老婆の体は、いつしかぬくみが消えて、外界と同じく冷え切っていた。
凍える女 (新字新仮名) / 小川未明(著)
「——寒い時に死んでも、他あやん、お前は今頃は暑い国でようぬくもってるこっちゃろ」
わが町 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
この澄めるこころるとはらず来て刑死の明日に迫る夜ぬくし。処刑前夜である。
遺愛集:03 あとがき (新字新仮名) / 島秋人(著)
圓朝はふッとお絲の肌のぬくみを思いうかべ、今さらにあの日が、あのときが恋しかった。キューッと胸しめつけられるほど慕わしかった。「は、はッくしょい」と彼はくしゃみをした。
円朝花火 (新字新仮名) / 正岡容(著)
立ったりかがんだり、女どもは何かわめき散らしていた。輪を描くように、自分の一家族はお互いの身体を寄せあって、少くともそれだけは肌身のぬくもりをしっかり感じ合っていたかった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
良人は言い甲斐なくもぬくどりの如くに押しすくめられるという奇劇も珍しからぬ。
現代の婦人に告ぐ (新字新仮名) / 大隈重信(著)
水際みずぎわを歩いてみたり、ぬくみの残っているすなの上に腰をおろしてみたり、我がままいっぱいに体をふるまって俳句などを考えていたが、それもいて来たので旅館へ帰りかけたところで
草藪の中 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
しかも外部へ露出している頭にまだぬくみが残っていたということは、その死体が即死してからせいぜい十分以内に、あの二人の証人がそこを通り合わせたということになるじゃありませんか
五階の窓:02 合作の二 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
唇を紫にして震えてゐる連中は砂に転げ回つてもぬくみが利かないので、音田に命じてトラバトウレをじやん/\と鳴らさせながら、百合子を囲んで、激しく滅茶苦茶なカロルを踊りはぢめた。
まぼろし (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
K君はM君と、A君と私と、二人づゝ堅く膝を組合せ、身體の熱を通はせるやうにして、互にぬくめ合つた。馬車は天城の谷に添ふて一里ばかり上つた。車中の人は言葉を交すことも少くなつた。
伊豆の旅 (旧字旧仮名) / 島崎藤村(著)
わたくしはつまづいて転びました。その上へ兵卒が乗り掛かつて来ました。その兵卒の上へマカロフが飛び付きました。その時わたくしの顔へ、上の方からぬくいものがだらだらと流れ掛かりました。
梅や香料、砂糖や蜂蜜も、パイやスープと並べられる。今こそ曲節ふし面白く音樂が奏でられる、若い者は踊つて歌つて身體をぬくめなければならない、よし老人たちは爐傍に坐りこんでゐようともである。
駅伝馬車 (旧字旧仮名) / ワシントン・アーヴィング(著)
與へて此寒このさぶいに御苦勞ごくらうなり此爐このろの火のぬくければしばらあたゝまりて行給ゆきたまへといふに寶澤は喜びさらば少時間すこしのまあたりて行んとやが圍爐裡端ゐろりばたへ寄て四方山よもやまはなしせしついで婆のいふやうは今年ことし幾歳いくつなるやと問ふに寶澤ははだ
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
伸々のび/\と春の光にぬくめられるやうな心地になツてゐた。
平民の娘 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
もじゃもじゃぬくいこの外套を、今一度身に著けて