たなごころ)” の例文
「誅戮などと云う怖ろしい世界が、御仏のたなごころの中にあろうとは思われませんでした。私は推摩居士が悲し気に叫ぶ声を聴いたのです」
夢殿殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
横になツて、砂についた片肱の、たなごころの上に頭を載せて、寄せくる浪の穂頭を、ズツト斜めに見渡すと、其起伏の様が又一段と面白い。
漂泊 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
われをもくして「骨董こつとう好き」と言ふ、誰かたなごころつて大笑たいせうせざらん。唯われは古玩を愛し、古玩のわれをして恍惚くわうこつたらしむるを知る。
わが家の古玩 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
殊に幼いM子は、色白の美しい上に、明敏な質であったので、生れ落てから直ぐ鏡花夫人の愛のたなごころに抱れて、三つとなり五つとなった。
友人一家の死 (新字新仮名) / 松崎天民(著)
ここがおちれば、蜀中はすでに玄徳のたなごころにあるもの。ここに敗れんか、玄徳の軍は枯葉こようと散って、空しく征地の鬼と化さねばならぬ。
三国志:09 図南の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それは夫人が今の返辞を聞くと等しく、河内介が捧げている品物にたなごころを合わせながら床にぺったりひざをついてしまったのであった。
天下をたなごころのうちに握る太政入道は、たとい王侯将相のお言葉はお用いなくとも、わたくしたちの願いはみんな聞いて下さいました。
大菩薩峠:36 新月の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
第一の光明はわがたなごころにといつた風に、いづれも骨太の腕をさし伸べてゐる。地に生れて天を望むといふのは、思ふだに痛ましい。
森の声 (新字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
そしてかれはたなごころに載せた石をつくづくと見まもりながら、愛着のこもった調子でつぶやくように云った、「おれはこの素朴さを学びたいと思うよ」
石ころ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
たなごころに無限を把握はあくしうる人です。しかも、この今日に生きる人こそ、真に過去に生き得た人です。未来にも生き得る人です。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
しんしんとして、木蓮もくれん幾朶いくだ雲華うんげ空裏くうりささげている。泬寥けつりょうたる春夜しゅんや真中まなかに、和尚ははたとたなごころつ。声は風中ふうちゅうに死して一羽の鳩も下りぬ。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
自分のたなごころのなかに彼女の手をにぎめていると、わたくしのこの胸には、それまで想像だもしなかったほどの愉しい気持ちがみなぎって来るのでした。
(新字新仮名) / ギ・ド・モーパッサン(著)
其上、朝令暮改、綸旨りんしたなごころを飜す有様である。今若し武家の棟梁とうりょうたる可き者が現れたら、恨を含み、政道をそねむの士は招かざるに応ずるであろう。
四条畷の戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
地獄も見て来たよ——極楽は、お手のものだ、とトうらないごときはたなごころである。且つ寺子屋仕込みで、本が読める。五経、文選もんぜんすらすらで、書がまたい。
絵本の春 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
……あなたが屋敷を出られて、ここへ来られるまで、いったい、どんなことをなさったか、いわゆる、たなごころをさすように解きあかしてお目にかけましょう
顎十郎捕物帳:10 野伏大名 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
しかし考巧忠実な店員に接したなごころをさすように求める品物に関する光明を授けられると悲観が楽観に早変わりをする。
読書の今昔 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
尼は仏壇の方に向き直って、ヒタとたなごころを合せました。滂沱ぼうだと頬に流れるは声のない涙、——それに合せて、どこからともなくすすり泣く声が起ります。
また乾酪チーズを一口ふくんで吐き出すとしても、そこいらにペッと唾をするではなく、人にわからぬように、そうっとたなごころに受けて、人知れず棄てるところなぞ
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
ついで路地の出入口をし、その分れて那辺に至り又那辺に合するかを説明すること、たなごころすが如くであった。
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
かつその質点の説のごとき、粒々りゅうりゅうこれをたなごころに見るがごとし。ああ化学の熟する、目また全牛を見ざらんとす。しるして同好のいまだこれを知らざる者に告ぐ。
化学改革の大略 (新字新仮名) / 清水卯三郎(著)
蒸気鉄槌をそのこぶしとし、起重機をそのたなごころとし、溶鉱炉をその心臓とするところの、あらゆる過去を、あるいはその一撃をもって粉砕するであろうところの
近代美の研究 (新字新仮名) / 中井正一(著)
甲の方は相当に綺麗だが、たなごころの中に、薄赤い連銭模様があり、それが赤棟蛇やまかがしの脇腹のように、腕の上にまで延びていた。彼はその手を投げ出すようにした。
指と指環 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
その靴足袋には、小さなはぎの形がまだかわいく残っていて、ほとんどジャン・ヴァルジャンのたなごころの長さほどしかなかった。それらのものは皆黒い色だった。
まさしく貴嬢を見るあたわず両のたなごころもて顔をおおいたるを貴嬢が同伴者つれの年若き君はいかに見たまいつらん。
おとずれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
その右に立っている法輪寺虚空蔵は、百済観音と同じく左手に澡瓶を把り、右のひじを曲げ、たなごころを上に向けて開いている。これも観音の範疇はんちゅうに入りそうである。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
政宗の生るる前、米沢の城下に行いすまして居た念仏行者が有って満海と云った。満海が死んで、政宗が生れた。政宗は左のたなごころに満海の二字を握って誕生した。
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
五本の指、たなごころ前膊ぜんはく上膊じょうはく、肩胛骨、その肩胛骨から発した肉腫が頭となって、全体があだかも一種の生物の死体ででもあるかのように、血にまみれて横たわって居た。
肉腫 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
彼女の、白い手が、雪之丞のほっそりした手首をつかんで、わが胸に、たなごころを押し当てさせるのであった。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
その前列の石燈籠いしどうろうは、さまで古いものとは思われないが、六角形の笠石だけは、奈良の元興寺がんごうじ形に似たもので、たなごころを半開にしたように、指が浅い巻き方をしている。
不尽の高根 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
泉原は家主の婆さんからその話をきいて、すっかり気をくじかれてしまった。やや明るくなりかけていた気持が大きなたなごころで押えつけられたように、倏忽たちまち真暗になって了った。
緑衣の女 (新字新仮名) / 松本泰(著)
いながらにして乾雲を取りまく一味の助勢をたなごころを指すように知っているのか、それがふしぎと言えばふしぎだったが、忠相の今の口ぶりでは、誰か本所化物屋敷の者が
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
これが又一層不便ふびんを増すの料となつて、孫や孫やと、その祖父祖母の寵愛はます/\太甚はなはだしく、四歳よつ五歳いつゝ六歳むつは、夢のやうにたなごころの中に過ぎて、段々その性質があらはれて来た。
重右衛門の最後 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
クリストフはいらだって、つめたなごころにくい込むほどこぶしを握りしめた。それからはもう何にも尋ねなかった。そして彼女が外出するときには、何か口実を設けて家に残っていた。
少し明るくなっている圃には、桑が一面に黒い、大きなたなごころのような葉を日に輝かしている。
(新字新仮名) / 小川未明(著)
一つひとつの星の象徴が、皮膚の渦紋かもんとなって人間のたなごころにありありと沈黙していたのだ。
ヤトラカン・サミ博士の椅子 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
『説苑』七に楊朱ようしゅが梁王にまみえて、天下を治むる事これたなごころめぐらすごとくすべしという。
ものうそうでもある。けれども作者はそんなことは何もいわない。ただ起きもせずたなごころを見る男を描き出して、すこぶる冷然としている。俳諧の非人情的態度の一として見るべきであろう。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
ところが美濃守殿みののかみどのの一けんで、はゞ五まん千石ぜんごくいへつかつぶれるかを、其方そちたなごころにぎつたも同樣どうやう、どんなひがかりでもけられるところだと、内々ない/\注意ちういしてゐると、潔白けつぱく其方そち
死刑 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
今はなかなかふみ便たよりもあらじと教へられしを、筆持つはまめなる人なれば、長き長き怨言うらみなどは告来つげこさんと、それのみはたなごころを指すばかりに待ちたりしも、疑ひし卜者のことばは不幸にもあやまたで
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
たなごころにて我が額を叩き、可笑味おかしみたくさんの身振にて、ずつと膝を進ませ。
誰が罪 (新字旧仮名) / 清水紫琴(著)
献身者は全く新たな目標を向うに見つけて未知ののぼる。身心を挙げてすべてに当るより外はない。肉身といえばか弱い。心といってもたなごころに握り得るものでもない。ただあるものは渇仰かつごうである。
それもまた人夫には、自分のたなごころを見るようにはっきりとわかっていた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
はむとする者も見えざりければ、虹汀今は心安しと、奪ひし小刀を亡骸なきがらに返し、たなごころを合はせ珠数じゅずみつゝ、念仏両三遍となへけるが、やがて黒衣の雪を打ち払ひて、いざやとばかり仏像をひ取り
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
民の名望一たび爾のゆうに帰せば彼らを感化するたなごころかえすより易し
基督信徒のなぐさめ (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
その働き具合はたなごころの中にあるようにわかって来ました。
グスコーブドリの伝記 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
そうして堅く上様の手を、たなごころの中で握り締めた。
血煙天明陣 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
母はときどきたなごころを見る
仏教人生読本 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
のっけたたなごころ
運勢 (新字新仮名) / 波立一(著)
天竺てんじく南蛮の今昔こんじゃくを、たなごころにてもゆびさすように」したので、「シメオン伊留満いるまんはもとより、上人しょうにん御自身さえ舌を捲かれたそうでござる。」
さまよえる猶太人 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
信長から、於蘭おらん、ひとつ小舞こまいせい、といわれればすすんで舞い、つづみをせよと命じられれば、非常によい高音たかねをそのたなごころから出して聞かせた。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)