へだた)” の例文
この東嶺寺と云うのは松平家まつだいらけ菩提所ぼだいしょで、庚申山こうしんやまふもとにあって、私の宿とは一丁くらいしかへだたっていない、すこぶる幽邃ゆうすい梵刹ぼんせつです。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
この地はちょうど私が前に一年ばかり住んで居ったヒマラヤ山のロー州のツァーランという所から二十五里真北にへだたって居る所である。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
お江野には五つになる京之助といふ子がありますが、お江野と吉彌の間は、世にふ繼しい仲であり乍ら何のへだたりもありません。
一体誰でも昔の事は、遠くへだたったように思うのですから、事柄と一所いっしょに路までもはるかに考えるのかも知れません。そうして先ずみんな夢ですよ。
薬草取 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
晩方になると、彼女は小野田と一緒に、そこから五六丁へだたった原っぱの方へ、近所で月賦払いで買入れた女乗の自転車を引出して行った。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
技師は、海水を堰塞えんそくしている船渠ドック門の扉船とせんから五六けんへだたった位置にやって来ると、コンクリートの渠底きょていの一部を指差しながら私達を振り返った。
カンカン虫殺人事件 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
しかもエレデイアの夢幻境たる、もしその所在を地図の上に按じ得べきものとせんか、恐らく仏蘭西フランスには近けれども、日本にははるかへだたりたるべし。
いろいろ経済的救済法あるいは社会改良法など区々まちまちに行われているが、なお最後の解決よりははるかにへだたっておることは誰しも感ずることである。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
ひとしくへだたり等しくいざなふ二の食物くひものの間にては、自由の人、その一をも齒に觸れざるさきにゑて死すべし 一—三
神曲:03 天堂 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
彼の新居は池袋の駅から半里はんみちへだたった淋しい場所に、ポッツリと建っている陰気な木造洋館で、別棟の実験室がついていた。鉄の垣根がそれを囲んでいた。
孤島の鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
「つやなし結城ゆうきの五ほんてじま、花色裏のふきさへも、たんとはださぬ」粋者すいしゃの意中とには著しいへだたりがある。
「いき」の構造 (新字新仮名) / 九鬼周造(著)
紳士は、青年を自分の部屋に導くと、彼に椅子いすを勧めて、自分も青年と二尺とへだたらずに相対して腰を降した。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
古典の時代と現代とは遥かにへだたっていて、その間には長い歴史があり、民族生活の状態が全く違っている。
日本精神について (新字新仮名) / 津田左右吉(著)
聞てまゆひそめ信州と此熊本とは道程みちのり四五百里もへだたりぬらんに伊勢いせ參宮より何ゆゑ當國迄たうごくまでは參りしやと不審ふしん
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
登山者の草鞋わらじの当る所だけがすれて、少しへだたって見るとかすかに白く一筋の道のようにはなっているが、近くその上へ行って見ると何処ともはっきりとは判らない
木曽御嶽の両面 (新字新仮名) / 吉江喬松(著)
生ける空間、いいかえれば、自分自身へのへだたりの寂しさ、隔りの愛憐の中に、影なる空間を写しとるはたらきが、画布の情趣であり、画布に触るる浸み透る心境である。
絵画の不安 (新字新仮名) / 中井正一(著)
重吉の樽屋としての腕は近郷に知られ、海をへだたった四国の方から弟子入りをしてくる者さえあった。重吉の結ったたらいでも桶でも輪が切れん限り何年経っても水がらない。
(新字新仮名) / 壺井栄(著)
御房の迷いと、拙者の迷いとは、だいぶへだたりがある。——われらごとき武辺者ぶへんしゃは、まだまだ迷いなどというのも烏滸おこがましい。ただあまりに血に飽いてすさんだ心のやすみ場を
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかし沖縄の舞楽は、かかるへだたりを破って吾々に近づきます。足利時代の人が能楽を見た時の感じは、沖縄で受ける私たちの感激と、甚だ近い性質のものであったと思います。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
霧が少しくはげて来たので、北方の大渓谷をへだたって、はるか向いの三角点が見えて来た。
穂高岳槍ヶ岳縦走記 (新字新仮名) / 鵜殿正雄(著)
そばにいたものぐに院長いんちょうにこの人間にんげん紹介しょうかいした、やはりドクトルで、なんだとかとうポーランドのにく、このまちから三十ヴェルスタばかりへだたっている、育馬所いくばしょにいるもの
六号室 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
鎌倉時代はおおよそ一百五十年の久しきにわたりており藤原時代と足利時代とは時間においてそれだけのへだたりがある以上、仮りに武家政治というものが開設せられなかったにもせよ
上三句の景より言へば山は杉林よりへだたりたる者の如く相見え、さまで近きとは覚えぬに、滝の音とあるを見れば極めて近き山ならざるべからず、ここにおいて前後の撞著を来し申候。
人々に答ふ (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
北国に育った私は東北地方や津軽海峡を渡るのをさして億劫おっくうに思わぬが、まだみぬ南の古都は、はるかにとおく雲にへだたった異郷のように感ぜられ、また早い青年時代の自分にとっては
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
と澄んだ笑声がして、白手拭を被つた小娘の顔が、二三間へだたつた粟の上に現れた。
赤痢 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
同番地先をへだたる約半丁ほどの大川竜太郎氏方とおぼしき方向より、突如二発の銃声を聞いたので、ただちに同家に向って急行すると、やがて同家より「泥棒、泥棒」と連呼する声をきき
黄昏の告白 (新字新仮名) / 浜尾四郎(著)
然し妙に冷たいへだたりが二人の間にあった。
囚われ (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
誰か知道らん恩情永くへだた
愛卿伝 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
向うの方に若い女と四十恰好かっこうの女が差し向いに座を占めていた。吾輩の右に一間ばかりへだたって婆さんと娘がベチャベチャ話しをしている。
倫敦消息 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
仙台の殿様が伽羅きゃらの下駄をいたという時代、はるかへだたっては天保年間のお女郎は、下駄へ行火あんかを仕掛けたと言う時代です。
道は二町ばかり、間はへだたったが、かざせばやがててのひらへ、その黒髪が薫りそう。直ぐ眉の下に見えたから、何となく顔立ちの面長おもながらしいのも想像された。
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
十分程すると、私達の立っているところより少しく左にって、第二号船渠ドック扉船とせんから三メートルへだたった海上へ、おびただしい泡が真黒まっくろな泥水と一緒に浮び上って来た。
カンカン虫殺人事件 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
見晴台から別荘までは一町以上もへだたっているので、その男の顔などは到底見分けられないが、全体の姿が別荘の人でないことは一目で分った。むろん爺やでもない。
偉大なる夢 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
その故に他の作家、殊に本来密を喜ぶ作家が、みだりに菊池の小説作法を踏襲たふしふしたら、いきほひ雑俗のへいおちいらざるを得ぬ。自分なぞは気質の上では、可也かなり菊池とへだたつてゐる。
雑筆 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
この意味では今日の自己が昨日の自己であるのみならず、遥かへだたった前からの自己であり、遥か後までの自己なのである。そこで、第四としてこういうことが考えられる。
鉄騎二千はみな息をきらしたが、孔明の車とのへだたりは、依然すこしも変っていない。
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
信吾は、間隔をへだたつてゐる爲か、何も言はなかつた。笑ひもしなかつた。其心は眼前の智惠子を追うてゐた。そして、其後の清子の心は信吾を追うてゐた。其又後ろの靜子の心は清子を追うてゐた。
鳥影 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
されば地とへだたうつわはなく、人と離るるうつわはない。それも吾々に役立とうとてこの世に生れた品々である。それ故用途を離れては、器の生命は失せる。また用に堪え得ずば、その意味はないであろう。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
同道どうだうしたる男は疑ひもなき敵とねらふ吾助にて有れば忠八はおのれ吾助とひながらすツくとあがる間に早瀬はやせなれば船ははやたんばかりへだたりし故其の船返せ戻せと呼はれ共大勢おほぜい乘合のりあひなれば船頭は耳にも入ず其うちに船は此方のきしつきけれとも忠八立たりしまゝ船よりあがらず又もや元の向島むかうじまの方へと乘渡り群集ぐんじゆの中を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
平次の若々しい顏には感興インスピレーシヨンにも似たものがサツと匂つて、身分柄のへだたりも忘れたやうに、胸をトンと叩いて見せました。
父は常に我々とはかけへだたった奥の二間ふたま専領せんりょうしていた。簀垂すだれのかかったその縁側に、朝貌はいつでも並べられた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
薄情とは言われまいが、世帯の苦労に、朝夕は、細く刻んでも、日は遠い。年月が余りへだたると、目前めのまえの菊日和も、遠い花の霞になって、夢のおぼろが消えてく。
縷紅新草 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
誰かしらと怪しむ内に、車は遠くへだたって行った。美禰子さんは気附かなかったけれど、その車には伯爵令嬢になりすましたさっきの乞食が乗っていたのだ。行先は同じ首相官邸。
猟奇の果 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
Sは挙手の礼をしたのち、くるりと彼にうしろを向け、ハッチの方へ歩いて行こうとした。彼は微笑びしょうしないように努力しながら、Sの五六歩へだたったのちにわかにまた「おい待て」と声をかけた。
三つの窓 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
見れば年限ねんげんへだたりて黒染すみにじみの樣なれば人間の血のそみたるとは大にことなりしかば寶澤こそ天一坊に相違なしと三五郎は名主なぬし甚左衞門に向ひ山伏やまぶし感應院の死去せしは病氣びやうきなりしやとたづねけるに甚左衞門病氣は食滯しよくたいうけたまはり候と云然らば其時は醫師いしに見せ候やと聞にさん候當村に清兵衞と申す醫師有てそれに見せ候と答ふ然らば其醫師いし
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
與力と岡つ引では、身分に大變なへだたりがありますから、許されなければ、敷居の内へ入ることなどは思ひもよりません。
インヴァネスを着た小作りな男が、半纏はんてん角刈かくがりと入れ違に這入はいって来て、二人から少しへだたった所に席を取った。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「しかし一体、医王というほど、此処ここで薬草が採れるのに、何故なぜ世間とはへだたって、行通ゆきかよいがないのだろう。」
薬草取 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
僕がうしろの方にしようというのに、Rはなぜか、土間のかぶりつきの所へ席をとったので、僕達の目と舞台の役者の顔とは、近くなった時には、殆ど一間位しかへだたっていないのだ。
百面相役者 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
ガラツ八を脅かした樣子では、かなり荒つぽい人かと思ひましたが、會つてみると思ひの外練れた人間で、岡つ引風情に、何のへだたりもなく斯う話しかけます。