ひとみ)” の例文
男は入口にうずくまるフランシスに眼をつけると、きっとクララの方に鋭いひとみを向けたが、フランシスの襟元えりもとつかんで引きおこした。
クララの出家 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
老人のひとみは回顧をなつかしんでいた。前北宋の画院にいた帝室技芸員の一員と聞いて、蕭照も何だかむかし話もしたくなったらしく
人間山水図巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
梓さんは、チラとひとみをあげ、大きな深い眼でキャラコさんの顔を眺めると、おずおずと茶碗のほうへ手を伸ばしてそれをとりあげた。
闇討やみうちを仕掛けた者も無言、秀之進も声を出さなかった。——誰だろう、暗い道のうえをすかし見ながら秀之進はじっとひとみを凝らした。
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
思想の風窓であるひとみは、そのために焼かれてしまう。眼鏡めがねもそれを隠すことはできない。地獄にガラスをかぶせたようなものである。
じいっとひとみらすと、大きな蜘蛛くもが、脚をいっぱいに伸して、奇怪な文身いれずみか何かのように、兄の頬にへばりついてるではないか。
青草 (新字新仮名) / 十一谷義三郎(著)
恐らく貴族か、でなければ名門の子弟なのだろう。品のよい鼻と、黒く澄み渡ったひとみとが、争われない生れのけ高さを示していた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
シャヷンヌの筆によつて描き出された清げに美しい婦人のひとみは、さながら救ひを望むもののやうに遠い輕氣球の方角にそゝがれてゐる。
桃の雫 (旧字旧仮名) / 島崎藤村(著)
「ええ、あれだけでも速く疎開させておきたいの」と康子はとりすがるように兄のひとみつめた。と、兄の視線はちらとわきらされた。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
「森の女」の前へ出た時、原口さんは「どうです」と二人ふたりを見た。夫は「結構です」と言って、眼鏡めがねの奥からじっとひとみを凝らした。
三四郎 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
四十二 いずれの望遠鏡にも、必ず一人はすがり付く勇者がある。いよいよ衝突の時はどの様になるだろうと、その人々は皆ひとみらした。
暗黒星 (新字新仮名) / シモン・ニューコム(著)
自分はやおら水を汲み上げながら、如何に生命の盛なる活躍が今行われつつあるかを想うて、ひとみを上流の山々に向けずにはいられなかった。
釜沢行 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
陵の祖父李広りこうの射における入神にゅうしんの技などを語るとき、蕃族ばんぞくの青年はひとみをかがやかせて熱心に聞入るのである。よく二人して狩猟に出かけた。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
彼女は物静かな、気だてのやさしい、情けぶかい娘さんで、柔和なおだやかなひとみをして、はちきれんばかりに健康だった。
可愛い女 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
和作はベンチの背にあてた片腕に首を載せ、前のまゝの動かぬひとみで少年を見据ゑてゐた。彼は我知らず動揺してゐたのだ。
朧夜 (新字旧仮名) / 犬養健(著)
断崖の上で超短波の通信装置の組立に従っていた水戸宗一は、ドレゴの方に思いやりのあるひとみを送って、彼を元気づけた。
地球発狂事件 (新字新仮名) / 海野十三丘丘十郎(著)
険しい眼——輝くひとみ——物凄い顔——是等これらの過去のイメージが全く心の目から取れないのにかかる柔和な、穏かな顔を見ようとは思わなかった。
(新字新仮名) / 小川未明(著)
わけても花が彼のひとみをひいて、それをもっとも長くながめた。また立派な馬車だの、騎馬の紳士や貴婦人などに出会った。
恋人の美くしいひとみは忽ち賤しい波羅門の腕環にはめられて一生を浅ましい脂汗あぶらあせと怪しい畜類の匂に汚されて了うであらう。
桐の花 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
阿闍梨あざりは、身を稍後ややあとへすべらせながらひとみらして、じっとその翁を見た。翁は経机きょうづくえの向うに白の水干すいかんの袖を掻き合せて、仔細しさいらしく坐っている。
道祖問答 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
ある者は涼しげなひとみ羞恥しゅうちを含んで、ある者は美しい怒りを額に現して、またある者は今にもにいっと微笑まんばかりに愛らしい口許をほころばせて
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
けれどそう尋ねて、池内操縦士は一寸ひとみを瞠った。何気なく眺めた壁鏡の中の相手の顔は、ひどく血の気の引いた、昂奮し切ったものだったからだ。
旅客機事件 (新字新仮名) / 大庭武年(著)
私は、この踊りに見とれている時ほど、こよなき人のひとみの中をでもじっと見つめているような、うれしくかなしくいたましい思いをすることはない。
随筆 寄席風俗 (新字新仮名) / 正岡容(著)
つつましやかな態度で云って、悧巧りこうそうな、小さく円く、パッチリとしたひとみを伏せて、こころもち胸を引くようにして挨拶あいさつする、その身のこなしには
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
あかしかけをきた人形にんぎやうは、しろ手拭てぬぐひのしたにくろひとみをみひらいて、とほくきたたびをおもひやるやうにかほをふりあげました。
桜さく島:見知らぬ世界 (新字旧仮名) / 竹久夢二(著)
ひとみが却っていつもより綺麗だ。のぞいて視ると、庭の木の芽が本当の木の芽よりずっと光ってえと映っている。と言っても京子は納得し切らない。
春:――二つの連作―― (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
そしてその女の癖であざやかな色したくちを少しゆがめたようにしてまぶしそうにひとみをあげて微笑みかけながら黙っていた。
うつり香 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
またその堤防の草原くさはらに腰を下してひとみを放てば、上流からの水はわれに向って来り、下流の水はわれよりして出づるが如くに見えて、心持の好い眺めである。
蘆声 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
彼は彼女の睫毛まつげが触れるのを感じ、また、その嘲るようなひとみの片隅や、愛くるしい鼻つきや、もち上がったくちびるの細かい産毛うぶげなどを、自分のすぐそばに見た。
まことれ一の夢幻界なり。湾に沿へる拿破里ナポリまちは次第に暮色微茫びばうの中に没せり。ひとみを放ちて遠く望めば、雪をいただけるアルピイの山脈こほりもて削り成せるが如し
ヴエスヴイオ山 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
ひて言へば、不自然な快活さだ。何かの理由で今までかれてゐた快活の翼が急に眼醒めざめたやうな。……伊曾は鋭いひとみで少女を見すゑながらさう直感した。
青いポアン (新字旧仮名) / 神西清(著)
街に展いた窓の出張でっばりに置かれた洋紅色の花鉢を寝台の枕もとに持ってくると、夜の女はひとみの快楽のために
戦争のファンタジイ (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
眞に是れ一の夢幻界なり。いりえに沿へる拿破里のまちは次第に暮色微茫の中に沒せり。ひとみを放ちて遠く望めば、雪を戴けるアルピイの山脈氷もて削り成せるが如し。
女の子の髪の毛が、赤くちゞれてゐるのは、異人の子なんでせう。でもその顔つきは大そう可愛らしくて、長いまつげの下から星のやうなひとみがのぞいてゐました。
のぞき眼鏡 (新字旧仮名) / 土田耕平(著)
平次はこう説明して、一度辛く当ったお静へ、——勘弁しろよ——といった優しいひとみを送りました。お静はもう嬉し泣きに泣いて、それも気の付かない様子です。
皆々この勝負こそはと片唾かたずを呑んでながめをれば、二人は立ち上りエイと組みオオと引き左をさし右をはづしひとみらしてにらみ合ひたるその途端に如何いかがしたりけん
俳諧大要 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
母の潤んだひとみが、子供たちに向つてさう哀願してゐる。だが、長男は棒のやうに突張つゝぱつたきりだつた。
父の帰宅 (新字旧仮名) / 小寺菊子(著)
『では、貴君きくんは、しやおい日出雄少年ひでをせうねん安否あんぴを——。』とひかけて、いそ艦尾かんびなる濱島武文はまじまたけぶみ春枝夫人はるえふじんとにひとみうつすと、彼方かなた二人ふたりたちまわたくし姿すがた見付みつけた。
そして、白眼に絡まった蜘蛛の巣のような血脈、林立した火箸のような睫毛まつげ、又その真中には、何かしらトテツもない恐ろしい影を写している虚黒なひとみがあった……。
魔像 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
と、輪は足に随ってまわって、傾いて堕ちたような気がすると共に、体が涼しくなった。ひとみを開けてみると自分はもう嬰児あかんぼになっているうえに、しかも女になっていた。
続黄梁 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
食事終りて牢内を歩むに、ふと厚き板の間のすきより、床下ゆかしたの見ゆるに心付き、試みにひとみらせば、アア其処そこに我が同志の赤毛布あかげっとまといつつ、同じく散歩するが見えたり。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
その横町を通り抜ける者はだれしもその美しい花畑にひとみをみはらないものは無いくらいであった。
美しい村 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
人々ひとみを凝らして之を見れば、年齒としは十六七、精好せいがうの緋の袴ふみしだき、柳裏やなぎ五衣いつゝぎぬ打ち重ね、たけにも餘る緑の黒髮うしろにゆりかけたる樣は、舞子白拍子の媚態しなあるには似で
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
準頭じゅんとうに赤色が現われていた。赤脈せきみゃくひとみをつらぬいていた。争われない剣難の相であった」
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
それはそれとして正岡君のごときは孔子のいわゆる下聞かぶんを恥じず下学かがくして上達すてきの人でごく低い程度から始めて、徐々に高処にじ、ついにその絶頂に達し、ひとみを四顧に放ち
子規と和歌 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
かなたの山の曲り角に、もやに薄れて白帆が行く。目の迷いかとひとみらしたが、やっぱり帆である。しかし藤さんの船はぜひとも前からの白帆と定めたい。遠い分はよく見えぬ。
千鳥 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
何の音で有ったか更に当りが附かぬけれど、やみの中にひとみを定めて見ると、影の様な者が壁に添うて徐々動いて居る様だ、ア、之が此の塔の幽霊か知らんと一時は聊か肝を冷した。
幽霊塔 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
此の春上野の慈善音楽会でピアノをいた佳人がつたらう、左様さうサ、質素な風をして、眼鏡を掛けて、雪の如きかほに、花の如をくちびるに、星の如きひとみの、——彼女かれすなはち山木梅子嬢サ
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
その度ごとに、私は曇ったガラスをいて、瞬時でも見逃がすまいとひとみらした。
白峰の麓 (新字新仮名) / 大下藤次郎(著)
この機会にやらなければいつになってもやれないに違いない、あたりを一わたり眺めて見たが、人の気配はなかった。彼はひとみを鋭く光らせると、にやりと笑って、よし今だと呟いた。
いのちの初夜 (新字新仮名) / 北条民雄(著)