蒔絵まきえ)” の例文
旧字:蒔繪
かの女は、良人にもだれにもおかさせない塗籠ぬりごめの一室をもち、起きれば、蒔絵まきえ櫛笥くしげや鏡台をひらき、暮れれば、湯殿ゆどのではだをみがく。
蒔絵まきえの所々禿げた朱塗りの衣桁いこうに寄りかかって、今しがた婆やに爪をってもらった指の先きを紅の落ちない様にそっと唇に当て乍ら
かやの生立 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
十三絃じゅうさんげんを南部の菖蒲形しょうぶがたに張って、象牙ぞうげに置いた蒔絵まきえした気高けだかしと思う数奇すきたぬ。宗近君はただ漫然といているばかりである。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
男の外国人は側に居る善どんに指さしして、蒔絵まきえのある硯蓋すずりぶたを幾枚となく棚から卸させて見た。しまいに捨吉に向って値段を聞いた。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
朱塗の蒔絵まきえ三組みつぐみは、浪に夕日の影を重ねて、蓬莱ほうらいの島の松の葉越に、いかにせし、鶴は狩衣の袖をすくめて、その盞を取ろうとせぬ。
南地心中 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
家のものがいって見ると、黒ぬり蒔絵まきえの重箱が、残ったお萩のはいったまま土中にあったので、かえって本当だったのにあきれた。
むらの物を借りたのであろう、地味な鼠色小紋の着物に、黒っぽい帯をしめ、頭には蒔絵まきえくしと、平打ちの銀のかんざしをさしていた。
その木戸を通って (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
以上を簡単に形容すれば、濃緑こみどりの立ち木に取り巻かれて、黒塗りの朱総しゅぶさ金銀蒔絵まきえの駕籠が、ゆらめき出たということができよう。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
およそ当今美術とか称えまする書画彫刻蒔絵まきえなどに上手というは昔から随分沢山ありますが、名人という者はまことにまれなものでございます。
名人長二 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
彼はづ画家五人をげ、次に蒔絵まきえ鋳金ちゅうきん、彫刻、象牙細工ぞうげざいく、銅器、刺繍ししゅう、陶器各種の制作者中おのおの一人いちにんを選び、その代表的制作品を研究し
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
と小声で云いながら居ずまいを直して、場をふさいでいる蒔絵まきえの提げ重を、一つ一つ丁寧に積み重ねて自分の膝の前に寄せた。
蓼喰う虫 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
牡丹形の蒔絵まきえの櫛に金足の珊瑚たまさしもの、貞之進は我伏糸わがふしいとが見られるようで、羽織の襟をそっとひっぱって居たもおかしかった。
油地獄 (新字新仮名) / 斎藤緑雨(著)
あのエッジウードとか木米もくべいとかの作は個性の出た個人的作を代表し、あの蒔絵まきえとかお庭焼にわやきの如きは官僚の貴族的作品である。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
二人はしばらくことばが途切れた。秋草を画いた几帳きちょうが昼の風に軽くゆれて、縁さきに置いてある美しい蒔絵まきえの虫籠できりぎりすがひと声鳴いた。
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
見ると目の前に、見事な金蒔絵まきえをした桐の丸胴の火鉢があったので、頭山先生その丸胴のふちくだんのサナダ虫を横たえた。
近世快人伝 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
唐来とおぼしき金具造りの短檠たんけいにはあかあかとあかりがとぼされ、座にはきんらんのおしとねが二枚、蒔絵まきえ模様のけっこうやかなおタバコ盆には
今日私はうるし細工の驚く可き性質——漆の種類の多さ、製出された効果、黄金、真珠等の蒔絵まきえ、選んだ主題に現われる繊美な趣味に特に気がついた。
これが恐ろしく小笠原流おがさわらりゅうで——それで何をするのかと思うと、枕頭まくらもと蒔絵まきえ煙草盆たばこぼんを置きに来たに過ぎなかった。
丹那山の怪 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
障子を破いて料理のかよい口をこしらえるやら、見事な蒔絵まきえの化粧箱を、飯櫃めしびつに使うやら、到らざるなき乱暴狼藉。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
第一、莨盆たばこぼん蒔絵まきえなどが、黒地にきん唐草からくさわせていると、その細いつるや葉がどうも気になって仕方がない。
忠義 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
つて光悦作と伝えらるる船橋蒔絵まきえ硯筥すずりばこをみたときも、私はそれを指で押してみたい誘惑を禁じえなかった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
そのとき、しずかに、小間使が、蒔絵まきえの膳に、酒肴しゅこうをのせて運んで来て、また、音もなく立ち去るのだった。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
鼻緒にも、蒔絵まきえにも、八重梅が散らしてある。当人も自慢、朋輩ほうばいも羨ましがっていたポックリを、半分持って行かれたから、口惜しがるのも無理はありません。
大菩薩峠:22 白骨の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
美奈子が、小切手帳を持って来ると、荘田は、かたわらの小さいデスクの上にあった金蒔絵まきえ硯箱すずりばこを取寄せて不器用な手付で墨をりながら、左の手で小切手帳を繰ひろげた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
友達は長煙管ながぎせる煙草たばこをつめながら、静かな綺麗きれいな二階の書斎で、温かそうな大ぶりな厚い蒲団ふとんのうえに坐って、何やら蒔絵まきえをしてある自分持ちの莨盆たばこぼんを引き寄せた。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
彼の烏帽子には縁もなく矢車のおいかけも着いてはいず、彼は粗末な布地退紅の狩衣にはなだ色の短いはかまをはき、ただ鮫皮を張った柄に毛抜の飾りのついた蒔絵まきえづくりの太刀
(新字新仮名) / 山川方夫(著)
ちいさな蒔絵まきえのしてある香箱こうばこのふたをけて、なかから、三のボタンをして、正雄まさおわたしました。
青いボタン (新字新仮名) / 小川未明(著)
が、同時に彼は、美しいつばをはめた刀や、蒔絵まきえの箱や、金襴きんらん表装ひょうそうした軸物などが、つぎつぎに長持の底から消えていくのを、淋しく思わないではいられなかった。
次郎物語:01 第一部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
塗りにも蒔絵まきえにも格別特色は見られなかった。それでも、昨年静岡の家が焼けるまでは、客間の床脇とこわき違棚ちがいだなに飾ってあって、毎朝布巾ふきんで、みずからほこりぬぐっていた。
幾度かいけあらいをしたという半襟はんえりをかけて。小前がみのあとのすこしはげたるを。松民しょうみん蒔絵まきえをした朱入りのくしで。毛をよせてぐっと丸わげの下へさし込んでいる。
藪の鶯 (新字新仮名) / 三宅花圃(著)
庄吉の狙った印籠は、小太郎の腰に、軽く揺れていたが、黒塗で、蒔絵まきえ一つさえない安物であった。
南国太平記 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
床の正面に蒔絵まきえの見台の紫半染の重々しい房を両端に飾ってあるやつが運出された、跡から師匠の老婆次に鳩羽はとば色か何かの肩衣つけた美人の太夫が出てきて席に就いた
竹乃里人 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
この文にて見ると光琳は茶を習ひしため蒔絵まきえが上手になりたる事と聞ゆ。『論語』を習ひに往たら数学が上手になつたといふ如き類にて、きつねを馬に載せたる奇論法なり。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
黒塗に蒔絵まきえのしてある衣桁いこうが縦に一間を為切しきって、その一方に床が取ってある。婆あさんは柔かに、しかも反抗の出来ないように、僕を横にならせてしまった。僕は白状する。
ヰタ・セクスアリス (新字新仮名) / 森鴎外(著)
この会が段々と育って行くにつけて次第に会員も多くなり、絵画、彫刻はもとより、蒔絵まきえ、金工等の諸家をも勧誘して入会させることにし回を重ねるごとに発展して行ったのであった。
七、八寸のいもをたてに切って丁寧に皮をむき、一本並べにゴマをふって焼いたきびきびした代物。ここも例の蒔絵まきえの重箱へきちんと詰め、ノシをいれてお遣い物といった客が多かった。
明治世相百話 (新字新仮名) / 山本笑月(著)
そのほか、宝石の部屋、織物の部屋、蒔絵まきえの部屋など、よくもこれだけ盗みあつめたものだと、びっくりするほどでした。魔人が「美術館」だといっていばっているのも、もっともです。
青銅の魔人 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
何やら蒔絵まきえの紋があったようで、要心深くきれを巻いて隠してありましたが、何かのはずみで見えたのは、抱き茗荷みょうがのような、うろこのような、二つ菊のような、——遠目でよくは判りませんが
挿頭かざしの台はじんの木の飾りあしの物で、蒔絵まきえの金の鳥が銀の枝にとまっていた。これは東宮の桐壺の方が受け持ったので、明石夫人の手から調製させたものであるからきわめて高雅であった。
源氏物語:34 若菜(上) (新字新仮名) / 紫式部(著)
どれも大きなまげに結って、綺麗なかんざしをさし、緋の長襦袢ながじゅばんに広くない帯、緋繻子の広いえりを附けたかけという姿です。すっかり順に並びますと、その前へ蒔絵まきえの煙草盆と長い煙管キセルとを置きます。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
なら画で何派の誰を中心にしたところとか、陶器なら陶器で何窯なにがま何時いつ頃とか、書なら書で儒者の誰〻とか、蒔絵まきえなら蒔絵でごく古いところとか近いところとか、というように心を寄せ手を掛ける。
骨董 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
卓子掛テーブルかけのない大きな食卓の列の上には、きん蒔絵まきえのある色塗りの木鉢きばちがそれぞれ幾つかずつ置かれて、その中に水っぽい黍粥きびがゆが盛ってあった。患者達は長い腰掛に坐った。黒パンが一片ずつ配られた。
彼女の護国寺まいりには、日傘行列ひがさぎょうれつと、蒔絵まきえのおかごが江戸を縫い、警固の人馬と、迎賓げいひんの山門は、すべて人力ずくめ、金ずくめである。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
浦づたいなる掃いたような白い道は、両側に軒を並べた、家居いえいの中を、あの注連しめを張った岩に続く……、松の蒔絵まきえの貝の一筋道。
浮舟 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
紙片をほぐすと女文字、一通り見ると打ち案じたが、やがて蒔絵まきえ硯箱すずりばこを引き寄せ、何かサラサラと料紙へ書きたたんで鸚鵡の首へ巻いた。
剣侠受難 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
と中田千股という人が取次ぎますと、結構な蒔絵まきえのお台の上へ、錦手にしきでの結構な蓋物ふたものへ水飴を入れたのを、すうっと持って参り
菊模様皿山奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
女は蒔絵まきえ文筥ふばこを持っていた。その文筥はかなり古びたもので、結んだしでひもも太く、その紫の色もすっかり褪色たいしょくしていた。
葦は見ていた (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
鎖の先に燃える柘榴石ガーネットは、蒔絵まきえ蘆雁ろがんを高く置いた手文庫の底から、怪しき光りを放って藤尾を招く。藤尾はすうと立った。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
彼女はお寺の墓地で、竹の棒をもって男童おとこわらべたちと遊びくらした。お彼岸の蒔絵まきえの重箱の中にはお寺さんへもってゆくお萩餅はぎが沢山はいっている。
要は蒔絵まきえの組重などと云う物を時代おくれの贅沢品だと思っていたのに、ここへ来て見て始めてそれが盛んに実際に用いられているのを知った。
蓼喰う虫 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)