ねぐら)” の例文
「そのこもの下には小判で二千兩あるんだ、大した寢床だぜ。灯は禁物だが、暫らくの我慢だ。ねぐらへ歸れば、存分に可愛がつてやるぜ」
本船へ帰ると、私たちは初めて自分たちのねぐらに戻ったような気安さを感じた。何かさびしい、あっけないような国境の印象であった。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
沢庵はいいすてて元のねぐらへはいりかけた。きのう伊織と樹の上で闘っていた時、遠く聞えた尺八の音を城太郎は耳に呼び返していた。
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
文学は、小市民的な身辺小説の歴史的なねぐらから、よしや今宵の枝のありかを知らないでも、既に飛び立たざるを得なくなって来ている。
その空隙すきまの多い、中実の少ない行李を引っかついだ彼らは、あたかも移住民の一列のように続いて彼らのねぐらからサロンへとおもむいた。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
われは梯を踏みてその群に近づき、引かるゝまゝに共に舞ひしが、心樂しく身輕きに、曲二つまで附き合ひて、夜更けたる後ねぐらに歸りぬ。
林の中が静まったので、子を育ててでもいるらしい、母鳥の優しく啼く声が、小高いこずえねぐらの中から、歌うように聞こえて来た。
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
と入る。たもとすがって、にえの鳥の乱れ姿や、羽掻はがいいためた袖を悩んで、ねぐらのような戸をくぐると、跣足はだしで下りて、小使、カタリと後を
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
余は一個の浮浪ふろう書生しょせい、筆一本あれば、住居は天幕てんまくでもむ自由の身である。それでさえねぐらはなれた小鳥の悲哀かなしみは、其時ヒシと身にみた。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
メリーはもはや自分のねぐらにいるが、そこから離れの明りが見える方が、メリーのためにも私のためにもいいような気が私にはするのである。
犬の生活 (新字新仮名) / 小山清(著)
半九郎を初めてここへ誘って来たのは市之助であったが、ねぐらを一つ場所に決めていない彼はいつも半九郎の連れではなかった。
鳥辺山心中 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
その故に彼は外に出でてうさはらすにいそがはしきにあらずや。されども彼の忘れずねぐらに帰りきたるは、又この妻の美き顔を見んが為のみ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
どんな男ともつれあっているのか、そんなことはどうでもいい、とにかく、ここのねぐらも今夜はふさがっているというわけだ。
赤い手帖 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
宵闇よいやみの中を歩きながら、ねぐらに騒ぐ鳥の声を聞いて、この季節に著しく感じる澄んだ寂しさが腹の底までみるのを知った。
果樹 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
ねぐらにつかせてやるのが、また通人の情け、無邪気というものも程度を知ることが、また通人の通人たる所以ゆえんでなければならないという面をして
大菩薩峠:40 山科の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ユウツケ鳥は三説あり、『松屋まつのや筆記』七に鶏はさるの時(午後四時)に夕を告げてねぐらこもるが故に、夕告鳥というにや云々。
高いところに鶏のねぐらも作り付けてあつたが、其は空巣も同然で、鳥らしいものが飼はれて居るとは見えなかつたのである。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
街道は森閑しんと茂った森にそうていて、人っ子一人通らない。鳥はみなねぐらにかえってしまった。向うの村は大きなどす黒い汚点しみのように見えている。
乞食 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
遠く南洋の島々へ落武者となって悠久のねぐらを定め、彼地の土人が即興の舞踊をつぶさに写したらんか、すなわちこれと思わるるほど、哀しくおかしい。
寄席行灯 (新字新仮名) / 正岡容(著)
そしてねぐらに急ぐらしい数羽のからすが夕焼けのした空を飛んで行った後には、森の奥の方で何も知らぬ鳥がキキキヽヽヽヽヽとけたたましくいていた。
逗子物語 (新字新仮名) / 橘外男(著)
樹々きぎこずえが水底のに見え、「水面」を仰ぐとねぐらへ帰る烏の群が魚に見え、ゼーロンにも私にもえらがあるらしかった。
ゼーロン (新字新仮名) / 牧野信一(著)
ねぐらを追われて、充血した目の茅潜かやくぐりの小母が、くやしがって、「教育なんて怪しいものだね」と、俺に訴えたことだ。
ある偃松の独白 (新字新仮名) / 中村清太郎(著)
かすかに聞える伝通院でんずういん暮鐘ぼしょうに誘われて、ねぐらへ急ぐ夕鴉ゆうがらすの声が、彼処此処あちこちに聞えてやかましい。既にして日はパッタリ暮れる、四辺あたりはほの暗くなる。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
すると須世理姫と葦原醜男とが、まるでねぐらを荒らされた、二羽のむつまじい小鳥のやうに、倉皇さうくわう菅畳すがだたみから身を起した。
老いたる素戔嗚尊 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
彼等の其の道に就くや、鳥のねぐらに歸るが如かりしのみ。其の心事や渾然たり、豈其の間に目的と手段とあらむや。
美的生活を論ず (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
ふたたびねぐらを奪はれて、野良犬のやうに路へ追はれるかも知れない。不安であつたが怖ろしいとも思はなかつた。
安政二年の江戸大地震の十日ばかり前から、利根川附近の村で、鶏がねぐらに入らず梁の上に上がるので、飼主が困ったといわれる(赤松宗旦、利根川図誌)。
地震なまず (新字新仮名) / 武者金吉(著)
夕闇は川面にはらばい、霧が蘆そよぐ岸辺にほのぼのとたちのぼった。ねぐらにおくれたからすが三つ四つと帰りを急ぐ。
傾きやすき冬日の庭にねぐらを急ぐ小禽ことりの声を聞きつつ梔子の実をみ、寒夜孤燈の下にこごゆる手先をあぶりながら破れた土鍋どなべにこれを煮る時のいいがたき情趣は
十日の菊 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
一生隠れていられるねぐらを棄て、難渋な峠を幾つも越してきたのは、お前達と一緒に歩いていてえばっかりだ、それだのに、別れてくれとはすげねえ云い草だ。
中山七里 二幕五場 (新字新仮名) / 長谷川伸(著)
いつかねぐらに迷うた蝙蝠を追うて荒れ地のすみまで行ったが、ふと気がついて見るとあたりにはだれもいぬ。
花物語 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
さても気の長い男め迂濶うかつにもほどのあれと、煙草ばかりいたずらにかしいて、待つには短き日も随分長かりしに、それさえ暮れて群烏むらがらすねぐらに帰るころとなれば
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
「こはきことを聞き得たり」ト、数度あまたたび喜び聞え、なほ四方山よもやまの物語に、時刻を移しけるほどに、日も山端やまのはかたぶきて、ねぐらに騒ぐ群烏むらがらすの、声かしましく聞えしかば。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
「げに歌人、詩人といふは可笑おかしきものかな。蝶二つ飛ぶを見れば、必ず女夫めおとなりと思へり。ねぐらかえ夕烏ゆうがらすかつて曲亭馬琴に告げていわく、おれは用達ようたしに行くのだ」
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
巣鴨へ迎えに来た長男も次男も、留守に邸を使って居たことなぞ、ひと言もいわなかったが、これで見ると、住宅難で勝手な人間がここをねぐらにして居たに違いない。
(新字新仮名) / 富田常雄(著)
櫟社の大木は眠って行く空に怪奇な姿を黒々ときざみ出した。この木をねぐらにしている鳥が何百羽とも知れずその周囲に騒いで居た。鳴声が遠い汐鳴りのように聴えた。
荘子 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
階段きざはしの所に声のよい若い殿上人たちの集められたのが、器楽のあとを歌曲に受け、「青柳」の歌われたころはもうねぐらに帰っていたうぐいすも驚くほど派手はでなものになった。
源氏物語:34 若菜(上) (新字新仮名) / 紫式部(著)
御覧のようにあッしゃ少しばかり侠気おとこぎの看板のやくざ者で、神田の小出河岸こいでがしにちッちゃなねぐらを構え
まもなく夜明けの空に、ねぐらはなれる朝鳥のさえずりがすがすがしくひびきわたったので、最後にかさねて金剛経一巻を回向申しあげて、西行は山をおり、庵へ帰った。
なにがしという一人の家をかこみたるおり、にわとりねぐらにありしが、驚きて鳴きしに、主人すはきつねの来しよと、素肌すはだかにて起き、戸を出ずる処を、名乗掛なのりかけてただ一槍ひとやりに殺しぬ。
みちの記 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
すぐ上のねぐらでは一番鶏がく。ウトウトしながらも、二時三時と一つも聞き洩さずに一夜を過した。
白峰の麓 (新字新仮名) / 大下藤次郎(著)
私も今宵のねぐらを捜さねばならない。路傍の農家に一夜の宿を乞い、ここに落着くことになった。
彼はあたかも遠征を思い立ちし最初の日の夕のごとくはたけの人の帰るを測りて表の戸より立ち出でたり、彼が推測はあやまらず、圃の人は皆帰り尽し、鳥さえねぐらに還りてありし
空家 (新字新仮名) / 宮崎湖処子(著)
あさがへりの殿とのがた一じゆんすみて朝寢あさねまちかど箒目はゝきめ青海波せいがいはをゑがき、打水うちみづよきほどにみし表町おもてまちとほりを見渡みわたせば、るはるは、萬年町まんねんてう山伏町やまぶしてう新谷町しんたにまちあたりをねぐらにして
たけくらべ (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
のめずり込むというような訳になって……伊之助は大抵お若さんのとこをねぐらにしておりました。
太陽の傾くに連れて風の力も漸く衰え、垂れた雲は山膚を白く薄化粧したまま、ねぐらを恋うる鳥のように元の頂きに返って、入日の光に暫し金茶色に燃えたかと思う間もなく
山と村 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
やがて日が暮れると洞庭秋月皎々こうこうたるを賞しながら飄然ひょうぜんねぐらに帰り、互に羽をすり寄せて眠り、朝になると二羽そろって洞庭の湖水でぱちゃぱちゃとからだを洗い口をすす
竹青 (新字新仮名) / 太宰治(著)
尊ぶとこそ云へり今一錢二錢の袖乞そでごひしても心きよきがいさぎよし人間萬事塞翁が馬ぢやまたよきはるに花をながめる時節もあらん斷念あきらめよと夫婦互に力をあひうき物語ものがたりに時移りしにやがねぐら
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
明智のやつ、今頃はおそらく、あの鉄管の中でルンペンどものとりこになっていることだろうよ。なぜって、あすこには、鉄管をねぐらにして二、三十人も、ルンペンがいるんだからね。
人間豹 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
ねぐらに急ぐ時となり心細さの堪へ難ければ、ひとまづ家に帰らうと、ここまでは参りましたのなれど、思へばかくまでおそなはりし身の、何といひ訳したものと、心付いては足も進まず。
野路の菊 (新字旧仮名) / 清水紫琴(著)