凝視みつ)” の例文
凝視みつめてゐると、涯の知れない遠さのなかにあるやうなその肉感が、ひどく身近くせまつてゐるので、妖しい思ひになるのであつた。
木々の精、谷の精 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
と正面よりお顔を凝視みつめて、我良苦多がらくた棚下たなおろし。貴婦人は恥じ且つ憤りて、こうべれて無念がれば、鼻の先へ指を出して、不作法千万。
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
勇がふかし甘薯いも頬張ほおばッて、右の頬をふくらませながら、モッケな顔をして文三を凝視みつめた。お勢もまた不思議そうに文三を凝視めた。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
医者はすぐ来た。クロスレイ夫人の案内で浴室へはいって行くと、ブラドンが浴槽内の妻の身体を凝視みつめて放心したように立っていた。
浴槽の花嫁 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
彼女はじつと其の姿を凝視みつめてゐたが、それは何うやら能く自分のところに通つてくる、千葉在だと云ふおやぢらしく思はれて来た。
或売笑婦の話 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
あゝ兄弟よ、今は汝の身の上を我にかくすことなかれ、見よ我のみかは、これらの者皆汝が日を覆ふところを凝視みつむ。 一一二—一一四
神曲:02 浄火 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
しかし卓子テエブルについてから、彼女はその大きな明るい茶色の眼でものゝ十分も私を凝視みつめてゐたが、不意に續けざまにお饒舌をはじめた。
私は正木博士の底光りする眼を凝視みつめたまま、乾燥した咽喉のどに唾液を押しやった。どうしてこれが気付かなかったろうと驚きつつ……。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
ボンボン時計を修繕なほす禿頭は硝子戸の中に俯向いたぎりチツクタツクと音をつまみ、本屋の主人あるじは蒼白い顔をして空をただ凝視みつめてゐる。
水郷柳河 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
寂蓮尼は顔一杯に凄愴な隈を作って、憎々し気に法水を凝視みつめていたが、やがて、襖を荒々しくたて切って、室を出てしまった。
夢殿殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
土を凝視みつめて歩いていると、しみじみと侘しくなってきて、病犬のようにふるえて来る。なにくそ! こんな事じゃあいけないね。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
飴色の平凡なつるの眼鏡であったが、私はそれを掛ける時の恰好や、少し目を細めて遠方を凝視みつめる顔にひどく愛着を抱いた。
灰色の記憶 (新字新仮名) / 久坂葉子(著)
弥吉は、唇をみしだきながらも、手向いをしなかった。そして正面から児太郎の顔をゆっくり凝視みつめ、冷えわたるような笑みをらした。
お小姓児太郎 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
彼の知らない涙が、あてどもなく凝視みつめているあのいい眼から、糸を引くようにこぼれ出て、疎らな髯のうちへ消えて行った。
禰宜様宮田 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
出羽は、すこし離れたところに立って、相変らず白の弥四郎頭巾の中から、おそらくは面白そうに、伴大次郎を凝視みつめている。
煩悩秘文書 (新字新仮名) / 林不忘(著)
彼は暫時の間、茫然として、部長の顔を凝視みつめて居た。やがて、彼の眼には陥穽かんせいちた野獣の恐怖と憤怒ふんどが燃えた。(完)
奥間巡査 (新字旧仮名) / 池宮城積宝(著)
一座の人々は、不安な空気に圧迫されて、いろいろな幻想を、急速に廻転させながら、伊賀の広い額をじっと凝視みつめていた。
大岡越前の独立 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
『エイブラム師』は隣の座席に立つたまゝ、思ひに沈みながら、入口越しに、道路と荒れ果てた昔の住居すまひとを凝視みつめてゐた。
水車のある教会 (旧字旧仮名) / オー・ヘンリー(著)
彼女は思はず戰慄を感じてあつと立てかけた聲を呑んで、ぢつとその薄氣味惡い畸形の足を凝視みつめてゐた、途端、その女は千登世を振り返つた。
崖の下 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
今少しここで見ていてやろう——ルパンはそう思って食堂のカアテンの影に身を潜めて、じっと書斎の方を凝視みつめていた。
水晶の栓 (新字新仮名) / モーリス・ルブラン(著)
その横顏を健は昵と凝視みつめてゐた。齡は三十四五であるが、頭の頂邊が大分圓く禿げてゐて、左眼ひだりめが潰れた眼の上に度の強い近眼鏡をかけてゐる。
足跡 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
先ほどの粗末そまつな下人の装束しょうぞくで、何やらおさがたい血気が身内にみなぎっている様子ようすである。舞台の右方に立ち、遠くから小野おのむらじをきっと凝視みつめる。
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
九郎兵衛は老人特有なきかない顔で、その方を凝視みつめた。両派の者が、はっきりした沈黙の陣を示して、白けわたった。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
私は晩御飯の用意を心配して、子供ごころに空腹を案じながら、そのうしろにじっと坐って母の背中を凝視みつめている。
作画について (新字新仮名) / 上村松園(著)
風が少しずつ静かになっていって薄明るい暁方あけがたの光が、泥壁の破れめからしこんできても、鷲尾は坐ったまま、まだあらぬところを凝視みつめていた。——
冬枯れ (新字新仮名) / 徳永直(著)
その、水の満ちた靴を窓からの白い光線のなかにじいっと凝視みつめていると、一種異様な莫迦げた、そしてグロテスクな恐怖が私に襲いかかるのを意識する。
私は遊び始めてから、しばらく周囲の友だちと会はなかつたので、何となく涙ぐましいやうななつかしさを以て、その端書にしるされた彼の伸びやかな字体を凝視みつめた。
良友悪友 (新字旧仮名) / 久米正雄(著)
が、冷澄な空気の底にえとした一塊のいろどりは、何故かいつもじっと凝視みつめずにはいられなかった。
冬の日 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
老僧は、クヮッと眼を見ひらくと、まじろぎもせずに阿古十郎の顔を凝視みつめていたが、呟くような声で
顎十郎捕物帳:01 捨公方 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
瞬間に浪人は、編笠をね退け、蒼黒い、痩せた、頬骨の高い、五十を過ごした、兇暴の顔を現わし、落ち窪んで、眼隈めくまの出来ている眼で、五郎蔵を凝視みつめたが
血曼陀羅紙帳武士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
さすが心の表情は何処どこかに読まれるもので——大きな、ぱつちりとした眼のうちには、何となく不安の色もあらはれて、じつと物を凝視みつめるやうな沈んだところも有つた。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
と、しまいに怪しんで問うまで、長い間、黙って凝視みつめていた。それ故文句も、一字一句覚えている。
別れたる妻に送る手紙 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
勘次かんじはそれを凝視みつめてくとなんだか頭腦あたまがぐら/\するやうにかんぜられた。かれ昨夜ゆふべねむらなかつた。かれ自分じぶんひとりころしてねばならぬ忌々敷いま/\しさが頭腦あたま刺戟しげきした。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
彼等父娘おやこはちらちらと崩れかかる榾火ほだびを取り巻いて、食後のいこいを息ずいていたのであったが、菊枝は野を吹く微風になぶられて、ゆれる絹糸のもつれのような煙を凝視みつめて
緑の芽 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
しまが、わたくしのことを言うと、日頃、わたくしに無関心な父が、じーっとわたくしの顔を凝視みつめましたが、たった一言、「お蝶は妙なものが好きだな」と言いました。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
十歩に足らぬ庭先の小園ながら、小径こみちには秋草が生え茂り、まがきに近く隅々すみずみには、白い蓼の花がわびしく咲いてる。貧しい生活の中にいて、静かにじっと凝視みつめている心の影。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
細川繁は黙って何にも言わなかった、ただ水面を凝視みつめている。富岡老人も黙ってしまった。
富岡先生 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
暫しは恍然うつとりとして氣を失へる如く、いづこともなくきつ凝視みつめ居しが、星の如き眼のうちにはあふるゝばかりの涙をたゝへ、珠の如き頬にはら/\と振りかゝるをば拭はんともせず
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
内端うちは女心をんなごゝろくにもかれずこほつてしまつたのきしづくは、日光につくわう宿やどしたまゝにちひさな氷柱つらゝとなつて、あたゝかな言葉ことばさへかけられたらいまにもこぼれちさうに、かけひなか凝視みつめてゐる。
日の光を浴びて (旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
「それが苦しい運命だったのですか」と、ジョヴァンニは彼女を凝視みつめながら訊いた。
苦力頭は仕方がないとでも云うような顔で、自分の腰掛に腰を据えて薄暗いランプの灯で、ブリキの杯で酒をめはじめた。他の苦力達が、俺を不思議そうに寝床の中から凝視みつめた。
苦力頭の表情 (新字新仮名) / 里村欣三(著)
すると精が「居る居る——要太郎があんなに走り出したらきっと鴫が居る」と云う。なるほど要太郎は一心に田の中の一点を凝視みつめてその点のまわりを小股に走りながらまわっている。
鴫つき (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
すると今まで私の執拗な質問に、先程から何故か妙に落着のない不安気な様子を見せていた深谷夫人は、どうしたことか急に眼の前の空間を凝視みつめたまま、声も出さずに小さく顫えだした。
死の快走船 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
……何だってそう薄気味悪るく俺を凝視みつめるのだ。なあにお前達のようなものに幾ら睨まれたって俺の値打は決して変らないのだからね。何で変ったりなんぞするものか。……しかし厭だ。
田舎医師の子 (新字新仮名) / 相馬泰三(著)
彼は又かう云ひ乍ら、裕佐の身なりをわざとらしくじろ/\と凝視みつめて附け足した。「どうしたね。えらう伊達だてななりをしてござるぢやないか。わしの処へ見える時とはまるで別人のなりぢや。」
その帆の破れ目から、梶座かじざにいる娘の顔を、ただ一心に凝視みつめていた。
悪因縁の怨 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
『よし、さらば、詰問きつもんせん』王樣わうさま冱々さえ/″\しからぬ御容子ごようすにて、うでみ、まゆひそめ、兩眼りようがんほとんど茫乎ぼうツとなるまで料理人クツク凝視みつめてられましたが、やがてふとこゑで、『栗饅頭くりまんぢうなにからつくられるか?』
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
寮長は顎髯あごひげを上に向け、南画のなかの人物のやうに背中を丸くして、一心に凝視みつめてゐた。強度の近眼でよく見ようとする努力のために、今年の芽を可愛かはいいてゐる花床を知らず/\踏んでゐた。
朧夜 (新字旧仮名) / 犬養健(著)
今夜こんやあらたまつて、すこしおはなもうことがある。』とわたくしかほ凝視みつめた。
ひたぶるに凝視みつめてあれば卒然そつぜんとして距離の觀念くなりにけり
和歌でない歌 (旧字旧仮名) / 中島敦(著)