あご)” の例文
ゆるいかゆと、つぶした蔬菜そさいであるが、この頃ではあごがうまく動かないとみえ、口からこぼしたりするので、ずいぶん時間がかかる。
竹柏記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
その中でも、敵の珍しい紋所と、父が敵の右あごに与えてあるはずの無念の傷跡とが、目ぼしい証拠として、彼の念頭を離れなかった。
仇討三態 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
青扇は、うしろにひっそりたたずんでいたやや大柄な女のひとを、おおげさにあごでしゃくって見せた。僕たちは、お辞儀をかわした。
彼は昔の彼ならず (新字新仮名) / 太宰治(著)
署長はそう言って、駐在巡査にあごをしゃくった。そして、彼らは二人の人夫をそこに残して自動車の待っているほうへ歩いていった。
或る嬰児殺しの動機 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
今更胡麻ごまを摺つても追つ付かぬぞ、——其方の家來、そのあごのしやくれた野郎が、昨日拙者が何をして居たか、くどく訊き居つたぞ。
とにやにやしながらからかうと、おすめは、にたり、と笑って照れかくしに、あわてて冠った薄汚ない前掛の下からあごをしゃくって
かやの生立 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
マルメラードフはことばを休めて、にやりと笑おうとしたが、突然そのあごががくがくと震え始めた。でも、彼はじっと押しこらえた。
行燈あんどんの明りを、あごから逆にうけたのが怖ろしい容貌ようぼうにみえた。しばらく、黙然として、うたた寝の美しい寝顔を見下ろしている……。
鳴門秘帖:02 江戸の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
塗料の棒に見入るトラ十のからだに、わずかのすきを見出したのであった。帆村の鉄拳てっけんが、小気味よく、トラ十のあごをガーンと打った。
爆薬の花籠 (新字新仮名) / 海野十三(著)
中宮寺の思惟像はわずかにうつむいているが、「考える人」はほとんど倒れるばかりに面を伏せて、頑健な右腕があごをぐっと支えている。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
あごを床にくっつけて、丸くなって居眠していた奴が、私の入るのを見てずるそうにそっと目を開けて、のっそり起上ったからである。
平たい顔なのにあごがとがってみえ、ぎゅっと引きむすんだ口もとはしんの強さをみせ、Iとは逆に何か寄りつきがたさを感じさせた。
(新字新仮名) / 壺井栄(著)
……やがて男は、もう五六けんに近づいた。私はこの時怖る怖る顔を出して覗くと、頭には笠も被らず、口もあごも真黒に髭が延びている。
北の冬 (新字新仮名) / 小川未明(著)
其の離島へ行つたことのある某氏に聞くと、彼等は普通の耳をもつた人間を見るとわらふさうである。あごの無い人間でも見たかのやうに。
クリストフはくちびるをかみしめた。あごがふるえていた。かれきたかった。ゴットフリートは自分でもまごついてるようにいいはった。
ジャン・クリストフ (新字新仮名) / ロマン・ロラン(著)
と、あごがすぐに三重になる。それほど彼女はふとっていた。下を向くと、胴着の上に汚点しみがついている。なかなか言い返そうとしない。
ついでにおじいさんの人相書にんそうがきをもうすこしくわしく申上もうしあげますなら、年齢としころおおよそ八十くらい頭髪とうはつ真白まっしろ鼻下びかからあごにかけてのおひげ真白まっしろ
しいたけたぼの侍女数十人をあごで使い、剛腹老獪ごうふくろうかいな峰丹波をはじめ、多勢のあらくれた剣士を、びっしりおさえてきたお蓮様だったが。
丹下左膳:03 日光の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
と答えたら、赤んべんが、肉のない頬をへこまして、愚弄ぐろうの笑いをらしながら、三軒置いて隣りの坑夫をちょいとあごでしゃくった。
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それがちょうど二人の座席から二列前の椅子いすで、ちょうどこっちからその頸筋くびすじと、耳と片頬かたほおあごはすかいに見えるような位置にあった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
一寸やってはあごの下に入れて暖めているのを見るに見兼ねて、「えくそッ!」という気になり、ストーヴをたきつけてやったと云っている。
母たち (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
あごはいつもきれいに剃ってあるし、髪にはキチンと櫛目くしめがはいっている。散歩に出ると、野の花をえりしたりして帰ってくる。
キャラコさん:03 蘆と木笛 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
僕は相手の気勢をくじくつもりで、その言出すのを待たず、「お金のはなしじゃないかね。」というと、お民は「ええ。」とあご頷付うなずいて
申訳 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
彼のまえにはあご骨のふとい、大きな男がぬうっと立っているのだ。五十ばかりでほとんど表情がない。それが却って、すくめるような凄味。
人外魔境:10 地軸二万哩 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
さらに近寄ってよく観ると、眼のたまは飛び出して、口からは舌を吐いて、あごからは泡をふいて、犬はもう死んでいるのであった。
「きっとテノール歌手なんだろう」と、Kは二人の重々しい二重あごをながめて思った。彼らの顔の清潔さが、Kをむかつかせた。
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
棟梁送りはどうなるんだ、と、わかりきったことをとがめていたのだ。しばらくにらめていた松岡は、うん——と、くびれたあごをしゃくった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
見よ、熊の喉のあたり、するどいきばに引き裂かれた表皮は虎のあごの後退につれて、メリメリとめくれ上がって行ったではないか。
人間豹 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
頬からあごにかけて、毛細血管がちりちりと浮いている。暑いのに、かなりくたびれたレインコートを着ている。五郎は訊ねた。
幻化 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
母は銚子を持ったまま何か話している主人の顔を見続けていた。そして時々あごを動かした。しかし何時いつまでたっても子の方を向かなかった。
(新字新仮名) / 横光利一(著)
病人びやうにんはK夫人ふじんかほしたで、小兒こどものやうにあごうなづいてせた。うへはう一束ひとたばにしたかみが、彼女かのぢよを一そう少女せうぢよらしく痛々いた/\しくせた。
彼女こゝに眠る (旧字旧仮名) / 若杉鳥子(著)
……そうじゃなくて? ね? それに、そのあごひげだって生やすなら生やすで、も少しなんとかしなくちゃねえ。……(笑う)可笑おかしな人!
桜の園 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
伸びた口髭くちひげをグイ/\引つ張り/\詩を考へてゐた狂詩人は、私が問ふと矢にはに跳ね起きあごを前方に突き出し唇をとがらせて
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
と、また一本の徳利を逆さに押立てて、したみまでも、しみったれに猪口ちょくの中へたらし込みながらあごでそう言いましたから、女中も心得て
大菩薩峠:38 農奴の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
入違いに二人の男、どかどかと上込あがりこみ、いきなり一人が匍匐はらばいになれば、一人はあごを膝に載せてすねを抱え、「ねえ、おい素敵に草臥くたびれたな。」
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
その頃お兄様は絵をお書きになったので、その笠には墨で蘭が画いてありました。赤い切で縫った太いひもが附いていて、あごで結ぶのでした。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
私もウイスキーがまわったせいか、何となくだるいような、睡たいような気持ちになりつつ、机の上に両肱を立ててあごを載せた。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
顔面は、眼、鼻、口、ほおあごまゆひたい、耳など、一通り道具がそろっているが、中でも眼、鼻、口、特に眼が非常に重大な意味を担っている。
人物埴輪の眼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
あごから頬へかけての鬚髯ひげはありませんが、病気中は剃らなかったと見えて、一分いちぶに足らぬ黒い濃い毛が密生しておりました。
髭の謎 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
こけたほおよだれを流しているしまりのないあごのあたり、三年まえきたとき見掛けたよりは、グッと衰弱しているのがわかった。
冬枯れ (新字新仮名) / 徳永直(著)
大きな喧嘩師ブルウザアと敏捷なちびラントと、留索栓ビレイング・ピンの打撲傷と舵手甲板の長年月と、そしてそれに、荒天の名残の遠い港のにおい、強いあごきのこのような耳
丁度蛙のあごのようだ。で私はじっとその筋肉の運動を見ていたら、妙な擽ったいような戦慄が伝った。そして私の頬の筋肉がぶるぶると震えた。
蠱惑 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
ゆき子は、赤い絹のマフラを頭から被つて、あごの下にきつく結び、生々とした表情で、背の高い富岡の顔を見上げてゐる。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
御用商人は頬からあごにかけて、一面にひげを持っていた。そして、自分では高く止っているような四角ばった声を出した。
(新字新仮名) / 黒島伝治(著)
おおかみあごいのししきばが、石弓や戦斧せんぷのあいだにおそろしく歯をむきだし、巨大な一対の鹿しかの角が、その若い花婿の頭のすぐ上におおいかぶさっていた。
まばらひげの伸びたあごでながら、彼はしみじみと自分の顔が見たいと思った。ガラス戸にい寄って映して見たが光るばかりで見えなかった。
(新字新仮名) / 島木健作(著)
去年の秋の末にあごの外れるほど大きな口を開いて、夜露にうるほうたうまいやつをドツサリ喰べたあの御所柿も、今年は不作と見えて、花が尠かつた。
石川五右衛門の生立 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
彼の親友青沼白心は、突然投げつけるように言って、折り立てた膝の間へ自分のあごを挟んで、庭の隅の方をみつめていた。
あめんちあ (新字新仮名) / 富ノ沢麟太郎(著)
せ細つて、背はむしろ低い方、両ほおがこけて、ちよつとスプーンのやうな妙な恰好かっこうをしたあごひげを生やしてゐます。
死児変相 (新字旧仮名) / 神西清(著)
細い美しい眉も、さも温順すなほに見えたが、鼻は希臘型ギリシヤがたとでもいふのか、形好く通ツて、花びらのやうな唇は紅く、あごは赤子の其のやうにくびれてゐた。
解剖室 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)