なげう)” の例文
と、同時に、そのために「一個の私情」たる恋愛をなげうつたといふ潔さは、彼義一にとつては、当然すぎるほど当然なことに思はれた。
花問答 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
孝孺おおいに数字を批して、筆を地になげうって、又大哭たいこくし、かつののしり且こくして曰く、死せんにはすなわち死せんのみ、しょうは断じて草す可からずと。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
あの学問のある尼さんのためには男も捨て僧職もなげうったというアベラアルの名はどれ程若かった日の彼の話頭に上ったか知れない。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
徳義を重んじ、主義を重んじ、なおその上に日本国のために身命をなげうって働くところの真の愛国者を養成したいというのであったらしい。
そして、一体妙だな、人生を快くなげうってしまおうと思ったのは、あれは、実は体の直った快さであったかと思っているのである。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
北欧の古雷神トールが巨鬼を平らぐるに用いた槌すなわち電はなげうつごとに持ち主の手に還った由で、人その形を模して守りとし
貧しい階級だけは業務をなげうって、毎晩のように見に来るでしょうけれど、毎晩見に来るのもよくなければ、ちっとも見に来ないのも困ります
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
幕に、それが消える時、風がなげうつがごとく、虚空から、——雨交りに、電光の青き中を、朱鷺色ときいろが八重に縫う乙女椿の花一輪。
陽炎座 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
好く文学者の成功の事を、大いなる coupクウ をしたと云うが、あれはさいなげうつので、つまり芸術を賭博とばくに比したのだね。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
そうしてその残骸が、最早もはやこの上には白骨になるよりほかに変化の仕様がないところまで腐ってしまったのを見ると、決然筆をなげうってった。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
それも苦しいのでその夜はそれをなげうってしもうたが、翌日になって見ると一枝の花を裏と表と両面から書いてあったのがちょっと面白かったので
病牀苦語 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
すべてのものをなげうって、肉体と魂と一切のものを——生命までもささげるようでなかったら、とても僕の高い愛に値しないというような意味なのよ。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
ところがこの李之楫氏はもうほとんど私のためには身命をなげうっても事をやろうという程私を信じてくれたお方です。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
一男子は笑ひつゝ、さらば我は骨牌かるたの爲めに帶び來れる此金殘らずを置かんと云ひて、その財嚢ざいなうなげうてり。われ。
狂気のごとく自己をなげうったごとく、我々の世界もいつか王者その冠を投出し、富豪その金庫を投出し、戦士その剣を投出し、智愚強弱一切の差別を忘れて
謀叛論(草稿) (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
それゆえに自分自身の利便をなげうって恐れず、時には自己の身命をも棄てて顧みない人の心において初めて、素直なもしくはナイーブで率直な心は成立する。
語られざる哲学 (新字新仮名) / 三木清(著)
三十一歳までの清浄身しょうじょうしんを、なげうって、現在の僧侶にいわせれば、汚濁おじょくの海、罪業の谷ともいうであろう、蓄妻ちくさい噉肉たんにくやからになろうという意志を固めているのだ。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
漫然と私自身を他の境界に移したら、即ち私の個性を本当に知ろうとの要求をなげうったならば、私は今あるよりもなお多くの不安に責められるに違いないのだ。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
彼はつひに心を許し肌身はだみを許せし初恋はつごひなげうちて、絶痛絶苦の悶々もんもんうちに一生最もたのしかるべき大礼を挙げをはんぬ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
さかさに銀河を崩すに似ている飛泉に、碧澗から白刃はくじんなげうつように溌溂はつらつとして躍り狂うのであるから、鱒魚の豊富な年ほどそれだけ一層の壮観であるそうである
平ヶ岳登攀記 (新字新仮名) / 高頭仁兵衛(著)
其信心は何時から始まったか知らぬが、其夫が激烈げきれつ脚気かっけにかゝって已に衝心しょうしんした時、彼女は身命しんめいなげうって祈ったれば、神のお告に九年余命よめいさずくるとあった。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
緒桛をがせの滝を見に行けば、崖の樹の梢にあまたをり、人を見れば逃げながら木の実などをなげうちて行くなり。
遠野物語 (新字旧仮名) / 柳田国男(著)
彼が政綱もまたしかり、彼は倹約を以て、唯一の政綱となし、これを実行するにおいては、殆んど幕府の全力を賭するをも、自個の生命をなげうつも敢て顧慮せざりき。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
オリヴィエは、自分自身に沈潜して自分の思想の完全な表現のみをしか口にしたくない欲求を感じていたので、ようやくにして得た教師の職をもなげうってしまった。
五年前の進は勉学の志をなげうたない真率しんそつな無名の文学者であったが、今日こんにちの進は何といってよいのやら。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
太祇は句三昧くざんまいとなえて一切他事をなげう蟄居ちっきょして句作にのみ苦心する事などがあったそうな。とにかく作句に苦心して熱心であった事は古今有数の一人とせねばなるまい。
俳句はかく解しかく味う (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
身には片布をだに着くるをゆるさず馬上にして城下にさらす、きゆくこと数里、断崖の上よりなげうちて死にいたらしむ、臭骸腐爛するに及ぶも白骨を収むる人なかりきといふ。
都喜姫 (新字旧仮名) / 蒲原有明(著)
彼は何所へ行っても、すぐれた人格者として愛慕されたのであるが、たまたま咽喉を病み、演説や説教を医師から厳禁されたので、止むなく永久に教職をなげうつこととなった。
余の全心全力をなげうち余のいのちを捨てても彼を救わんとする誠心まごころをも省みず、無慙むざんにも無慈悲にも余の生命いのちより貴きものを余の手よりモギ取り去りし時始めて予察よさつするを得たり。
基督信徒のなぐさめ (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
国家のためには身命をなげうつ特志家が幾人も続出するが、かようなときでさえ、大多数の人々は、わが国が敗けては自分が困る、それゆえ是非ともわが国を勝たせねばならぬと
人間生活の矛盾 (新字新仮名) / 丘浅次郎(著)
僕のたましいの生み出した真珠のような未成品の感情を君はとっ手遊おもちゃにして空中になげうったのだ。
思わず知らず得意の棒をなげうってみたところで、鷲はあの通り、千尺の高みにいる、いくら米友さんが棒の名人だからといって、矢も鉄砲も届くはずのないあんな高いところまで
大菩薩峠:35 胆吹の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
自分はかう信じたからこそ、此市ここの名物の長沢屋の豆銀糖でお茶を飲み乍ら、稚ない時から好きであつた伯母さんと昔談をする楽みをさへなげうち去つて、明からぬ五分心の洋燈の前に
葬列 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
そこで其事が成就してしまふと、直ぐにそれをなげうつて、何か新しい方角に向つて進む。兎に角或る事件を企てる、それを成功して人を凌駕しようとする精神がこの男を支配してゐる。
ケートは窓から外面そとながめる。小児しょうにたまを投げて遊んでいる。彼等は高く球を空中になげうつ。球は上へ上へとのぼる。しばらくすると落ちて来る。彼等はまた球を高く擲つ。再び三度。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
その文にいわく(中略)貴嬢の朝鮮事件にくみして一死をなげうたんとせるの心意を察するに、葉石との交情旧の如くならず、他に婚を求むるも容貌ようぼう醜矮しゅうわい突額とつがく短鼻たんび一目いちもく鬼女きじょ怪物かいぶつことならねば
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
終生をなげうちたるの学者もありきと、もし彼女は、これら宝石の類にはあらざるか。
一青年異様の述懐 (新字旧仮名) / 清水紫琴(著)
彼女が三十三に於いて眞に死に得た時は、その三十三の生がどんなに華やかな力づよいものとなるであらう。その時の死は勝利の凱旋がいせんである。死を定めてすべてをなげうつたのでなかつた。
三十三の死 (旧字旧仮名) / 素木しづ(著)
ですから、娘達のかたきを取るためには、わしの全財産をなげうっても惜しくはありません。君に一切をお任せしますから、警視庁の中村君とも聯絡れんらくを取って、出来るかぎりの手段をつくして下さい
悪魔の紋章 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
勘次かんじつゞいてなげうつた。曲者くせものすでちたけれどかれ不意ふい襲撃しふげきあわてゝふしくれつたかきつまづいてたふれた。かれつきあしひきずらねばあるけぬほど足首あしくび關節くわんせつ疼痛とうつうかんじたのであつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
併し今の場合で金を動機だとするには、その下手人を非常なぐづだとしなくてはならない。馬鹿だとしなくてはならない。さうしなくては動機と金とを一しよになげうつたわけになるのだからね。
そこで僕もおおいによろこんで彼の帰国を送った。彼は二年間の貯蓄の三分の二を平気でなげうって、錦絵にしきえを買い、反物たんものを買い、母やおととや、親戚の女子供を喜ばすべく、欣々然きんきんぜんとして新橋を立出った。
非凡なる凡人 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
大地に身をなげうった市五郎は、身も浮くばかりに泣いて泣いて泣き入ります。
是を地になげうって弟の氏照に向い、一片の文書で天下の北条を恫喝どうかつするとは片腹痛い、兵力で来るなら平の維盛の二の舞で、秀吉など水鳥の羽音を聞いただけで潰走かいそうするだろうと豪語したと云う。
小田原陣 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
ここに田舎の富豪があって、最愛の娘のために最上の嫁入り支度を調達せんとして、数千円の金をなげうって、田舎ではとうてい東京の中等呉服店にあるほどの品物もなかなか得られないのである。
私の小売商道 (新字新仮名) / 相馬愛蔵(著)
あの日以来、彼はいつか身命をなげうつ日の来ることを待っていたのだ、其の日の他にはなんの役にも立たなくともよい、そう覚悟していたのだ。それで娶っても子を生むことを欲しなかったのだ。
松風の門 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
しかし天性弱きを助け強きをひしぐの資性に富み、善人と見れば身代しんだいは申すに及ばず、一命いちめいなげうってもこれを助け、また悪人と認むればいさゝか容赦なく飛蒐とびかゝって殴り殺すという七人力にんりき侠客きょうかくでございます。
後の業平文治 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
仕方なく右の出版事業をそのままなげうっておいて、匆々そうそう東京を出発する用意をし、間も無く再び東京へ出て来るから、今度出て来たが最後、大いに矢田部に対抗して奮闘すべく意気込んで国へ帰った。
そのずれなこと、二十五になれば立派な侍、そのように女子おなごに似た声とは声からして違うわ! 拙者わしは世評があまり高いに気にかかり、旅出の前のせわしさをなげうってわざわざ此事を訊ねに来たのじゃ。
艶容万年若衆 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
……京都の土地で職を求める事、郷里の母をやがて呼ぶ事、そしてまだ数年は××教授のそばで一心に研究する事——さういふすべての空想や計画をすつかりなげうつて、和作はこの正月東京に戻つて来た。
朧夜 (新字旧仮名) / 犬養健(著)