ふところ)” の例文
旧字:
すると奥さんはふところからかがみを出して、それを千枝ちやんに渡しながら「この子はかうやつて置きさへすれば、決して退屈しないんです」
東京小品 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
盲目めくらのお婆さんは、座が定ると、ふところから手拭を出して、それを例のごとく三角にしてかぶつた。暢気のんきな鼻唄が唸うなるやうに聞え出した。
(新字旧仮名) / 田山花袋(著)
このとき、子供こどもは、ふところなかから角笛つのぶえしました。そして、きた野原のはらかって、プ、プー、プ、プー、とらしたのです。
角笛吹く子 (新字新仮名) / 小川未明(著)
道場も自然におのがふところへころげこもうというものですから、この土壇場へ来て、こうもにえきらないお蓮さまの態度を見せられては
丹下左膳:03 日光の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
そんな連中が、こんな品物に釣られる程度に東京慣れしない田舎者で、しかも、ふところ具合いは割り合いにいい事が推測されるであろう。
迎いに来られても褄目つまめ合うし、「そしたらあて、姉ちゃんとこい遊びに行く時ふところい綿でも詰めて、お腹大きして行かんならんわなあ」
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
けれども表向おもてむき兄の承諾を求めると、とうてい行われにくい用件が多いので、自分はつい機会おりを見ては母のふところに一人かれようとした。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
今夜は、どのような仕儀に臨んでも、こらえに怺え、ただ敵方のふところに喰い入り、のちのちの準備に備えようというのが、覚悟なのだ——
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
高山右近が固むるところの岩崎山のふところも、未だこれを知らぬかのように、白雲の帯はしゅうをとざして、山上山下をなおひそとしていた。
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
先輩の山岸外史氏の説にると、貨幣のどっさりはいっている財布を、ふところにいれて歩いていると、胃腸が冷えて病気になるそうである。
「晩年」と「女生徒」 (新字新仮名) / 太宰治(著)
これからすぐに私をたずねておいでなさい。森の奥の奥に大きなかしの木があります。それが私です。私のふところに夢の精が一ついます。
夢の卵 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
ただふところから縄を出してしごくような素振そぶりをしたり、またそこらにあったものを引き寄せるような仕事をしているうちに、寝ていた幸内が
大菩薩峠:14 お銀様の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
井生森又作はひどい奴で、人を殺して居る騒ぎの中で血だらけの側にありました、三千円の預り証文をちょろりとふところへ入れると云う。
は母のふところにあり、母の袖かしらおほひたればに雪をばふれざるゆゑにや凍死こゞえしなず、両親ふたおや死骸しがいの中にて又こゑをあげてなきけり。
私はある人が「あなたは善い人間だが、ただちに人のふところの内に飛び込んで中を見ようとするから、本能的に心の扉を閉じたくなる」
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
しかし笑い終えてから、ふところ勘定をしてみると、最後の謝礼としてもらった十二フランがあるきりだった。それでも彼はあわてなかった。
寒さも忘れて三十分ほども滝を眺めたあと、三人が老人にわかれを告げると、老人は、ふところからさっき書いたらしい手紙を出して
次郎物語:03 第三部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
「やれやれ、餓鬼がきどもを片づけて身が軽うなった」と言って、宮崎の三郎は受け取った銭をふところに入れた。そして波止場の酒店にはいった。
山椒大夫 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
小山は黙って描く、自分は黙って煙草をふかす、四囲は寂然せきぜんとして人声じんせいを聞かない。自分はふところから詩集を取り出して読みだした。
小春 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
彼が妻のふところ啜泣すすりなきしても足りないほどの遣瀬やるせないこころを持ち、ある時は蕩子たわれお戯女たわれめの痴情にも近い多くのあわれさを考えたのもそれは皆
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
平次はふところから小さい紙片を出しました。半紙を八つに切って、又二つに畳んだ、観世捻かんぜよりのような代物しろもの、開くとその中には、かなりの達筆で
今晩はしかたがないから明日あすの晩は夕飯ゆうはんわずに往って見ようと思って彼はふところの勘定をした。懐には十円近い小遣こづかいがあった。
牡蠣船 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
と、博士は壜の胴中どうなかについている蓋をひらいて、ふところから出した小さな紙袋から二匹のはえをポンポンと壜の中に追いやり、そして蓋を締めた。
見えざる敵 (新字新仮名) / 海野十三(著)
ふところへ抱きとって、美しい乳を飲ませると言って口へくくめなどして戯れているのは、外から見ても非常に美しい場面であった。
源氏物語:19 薄雲 (新字新仮名) / 紫式部(著)
わずかに五銭六厘をふところにせる奴は驚きかつ惜しみて、有意的こころありげに御者のおもてながめたり。好意を無にせられたる世話人は腹立ちて
義血侠血 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
彼女は、丁度嬰児あかんぼが母親のふところに抱かれる時の様な、又は、処女おとめが恋人の抱擁ほうように応じる時の様な、甘い優しさを以て私の椅子に身を沈めます。
人間椅子 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
彼女の故郷は? そうした母親のふところ! 彼女が故郷への初興行は、たしかズウデルマンの「故郷」のマグダであったかと思う。
松井須磨子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
相手のあざやかな応酬に、新子はポッと赤くなりながら、さっきから返しそびれてキレイに畳んでふところにしまっていたハンカチーフを返した。
貞操問答 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
均平がこの町中の一区劃くかくにある遊び場所に足を踏み入れた時は、彼の会社における地位も危なくなり、ふところも寂しくなっていた。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
松王様はゆきなりお文を一くるみに荒々しく押しまれて、そのままふところふかく押し込まれると、つとこちらを振り向かれて
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
手入は植木屋にやらせればいいのだし、費用だって先生のふところを脅かすほどの事はないし、又必要なら何百金でも平気で投出される人だったのだ。
解説 趣味を通じての先生 (新字新仮名) / 額田六福(著)
熊本籠城の兵卒が、九死一生の重囲を出でて初めて青天白日を見たるそのうれしさにもまさるべく、いと重げなる黄金の包みのそのふところに満々たるは
空家 (新字新仮名) / 宮崎湖処子(著)
ふところより横笛を取り出して、親しい「曲」を奏し始める。澄んだ笛の妙音、風に伝わって、余韻嫋々よいんじょうじょう………舞台、しばらくは横笛を奏する文麻呂。
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
不孝者奴とののしりつつ、もうないぞよと意見しつつ、なおもわが子をば、慈愛のふところに抱いてくれる親の情けは、否定しつつ、肯定しているのです。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
丁度あつらえたように十五夜のまん丸な月が其上に出て居た。然し其時はあわたゞしい旅、山に上るもはたさなかった。今はじめて其ふところ辿たどるのである。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
和服のふところへ無精らしく入れて居た手を出して荷物を包み出すと、又一人が、こんな日に火事でも始まっちゃたまらない、と巫山戯ふざけたように言い出す。
手を切りそうな五円札を一重ねに折りかえして銅貨と一緒に財布へ押しこんだのをふところに入れて、神保町じんぼうちょうから小川町おがわまちをしばらくあちこち歩いていた。
まじょりか皿 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
そして、しばらく思案したのちに、ようやく決心がついたように、ふところからひものついた懐中をとりだす。それから銅銭をつまみ出して穴のなかへ入れる。
南方郵信 (新字新仮名) / 中村地平(著)
ただわずかに女からよこす手紙をいつもふところにして寝ながら逢いたい見たい心の万分の一をまぎらしていたのではないか。
霜凍る宵 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
その成金の一人に、神戸に上西うへにし亀之助氏がゐる。ふところ加減がいだけに金のかゝるものならどんな物でも好きだが、たつた一つ自動車だけは好かない。
天空の虹は抛物線パラボリック、露滴の虹は双曲線ハイパーボリック、しかしそれが楕円形イリプティックでない限り、伸子は自分のふところに飛び込んでは来ない——と。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
私の手許てもとを覗き込むので、私はそれに答えるのが面倒なので、見られないようにふところの中で、時を探ることを練習した。
触覚について (新字新仮名) / 宮城道雄(著)
勘三はふところから色々な原稿の束を出すと、一枚を引き破ってばりッと鼻をかんだ。啓吉は小さくなってそれを見ていた。
泣虫小僧 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
しかし、私がだんだん母のふところを離れられるようになって来てからも、母はどうしても私を手放す気にはなれなかった。
花を持てる女 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
みんながすっかりきょうに入ったころを見はからって、そっとふところからつるぎをお取り出しになったと思いますと、いきなり片手で兄のたけるのえり首をつかんで
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
この篇の稿るや、先生一本を写し、これをふところにして翁を本所ほんじょの宅におとないしに、翁は老病の、視力もおとろえ物をるにすこぶる困難の様子なりしかば
瘠我慢の説:01 序 (新字新仮名) / 石河幹明(著)
両手をふところに入れて身を縮めた。寒い。ほんとうはそんなに寒くなかったのかもしれないが、防寒の備えのないことが神経的に寒さを呼んだのであろう。
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
それで、京子の肩を抱くようにして自分の隣に京子の椅子を押しつけ、京子の首を自分のふところに掻き込むようにした。
春:――二つの連作―― (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
◯神の造り給いし万物に囲繞いじょうされて我らは今既に神のふところにある。我らは今神にまもられ、養われ、育てられつつある。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
三年父母のふところをまぬかれず、ゆえに三年のをつとむるなどは、勘定ずくの差引にて、あまり薄情にはあらずや。
中津留別の書 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)