せき)” の例文
彼女は眼をうるませてその言葉を繰り返した。弱い苦しそうな声で、そして力のないせきをした。貞吉も同意見らしく何も言わなかった。
汽笛 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
源氏は内心に喜びながら宮のお居間を辞して出ようとすると、また一人の老人らしいせきをしながら御簾みすぎわに寄って来る人があった。
源氏物語:20 朝顔 (新字新仮名) / 紫式部(著)
まむかうのくろべいもさくらがかぶさつて眞白まつしろだ。さつとかぜしたけれども、しめたあとまたこもつてせつぽい。濱野はまのさんもせきしてた。
火の用心の事 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
そこへせきばらいの声がして、ドアが開いて、黒川先生が入って来られた。君も知っている様に、先生の風采ふうさいは少しも学者らしくない。
悪霊 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
と——二人がことばもなく、寂然じゃくねんと、坐り合って、花世の帰るのを待っていると、二間ほど隔てた奥のへやで、人のせきばらいが聞えた。
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ゆき子はせきがとまらないのか、顔を真赤にして咳きこんでゐる、ゆき子は、咳止めの薬を飲み、暗い部屋のなかに、眼を開けてゐた。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
よく慈善の目的で素人しろうと芝居を催して、自身は老将軍の役を買って出るのだったが、その際のせきのしっぷりがすこぶるもって滑稽だった。
イオーヌィチ (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
十時を過ぎたので、今日はもうあきらめようかと思ったとき、急におえいがせきばらいをし、乾いた声で、殆んど嘲笑ちょうしょうするように云った。
そして私と清ちゃんが年も背丈も誰よりも小さかった。柳屋の姉弟きょうだいにはおっかさんがなく病身のおとっさんが、いつでも奥でせきをしていた。
山の手の子 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
「わたくしとても何気ない朝のうるわしさには、こころからうれしくぞんじています。貞時さまのおせきのこえまで覚えましてございます。」
津の国人 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
そう云った時、少年の咽喉のどから、かすれた、老人のせきのような、子供らしくない笑いごえが出て、それが異様に屋根うらへ響いた。
が、一口吸うや否やたちまちゴホンゴホン! と烈しいせきをして、まったく初めて煙草というものを経験したらしい様子であった。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
せきが彼女の息をつまらせた。しかし、おどかしは効を奏した。見うけたところ、みんなカチェリーナをいささか恐れているらしかった。
そして平素からの軽いかわいたせきが増してきた。彼女は時々隣のマルグリットに言った。「さわってごらんなさい、私の手の熱いこと。」
「ウンと借りができて、もう行けねえんだ。」と言いさま、せきをして苦しい息を内に引くや、思わずホッと疲れ果てたため息をもらした。
窮死 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
お父様がさうおつしやると、耕一君が立上つて、「エヘン」と一つせき払ひをして、ニコ/\笑ひながら、次のやうにひました。
母の日 (新字旧仮名) / 槙本楠郎(著)
高岡軍曹たかをかぐんそうしばらくみんなのかほてゐたが、やがて何時いつものやうにむねつて、上官じやうくわんらしい威嚴いげんせるやうに一聲ひとこゑたかせきをした。
一兵卒と銃 (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
山内謙三は、チョコナンと人形の樣に坐つて、時々死んだ樣に力のないせきをし乍ら、ずるさうな眼を輝かしておとなしく聞いてゐる。
鳥影 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
持病のせきで引きこもりがちな金兵衛まで上の伏見屋からわざわざ見に出かけて来て、いつのまにか本陣の門前には多勢の人だかりがした。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
四畳半と覚しきの中央に床をのべて糸のように痩せ細った身体を横たえて時々せきが出ると枕上の白木の箱の蓋を取っては吐き込んでいる。
根岸庵を訪う記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
女はそこの入口の雨戸をそうと開け、それから格子戸こうしどを開けて入った。哲郎も続いて入ったが、下の人に知れないようにとせきもしなかった。
青い紐 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
眠る前に、彼は掛布団かけぶとんをかぶって、こんこんせきをする。のどを掃除するためである。しかし、鼾をかくのは、ことによると、鼻かもしれない。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
主人はほんとうになつかしいように、うむうむとうなずきながら胡弓に耳を傾けていたが、時々苦しそうなせきが続いて、胡弓の声の邪魔をした。
最後の胡弓弾き (新字新仮名) / 新美南吉(著)
そのうち大阪に咳逆がいぎゃくが流行して、木賃宿もせきをする人だらけになった。三月の初に宇平と文吉とが感染して、熱を出して寝た。
護持院原の敵討 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
血を連想した時高柳君はわきの下から何か冷たいものが襯衣シャツに伝わるような気分がした。ごほんと取り締りのないせきを一つする。
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
はかまに編みあげの靴をはいている男の老教師を、まんまとだました。自分の席についてからも、少年はごほごほとにせせきばらいにむせかえった。
逆行 (新字新仮名) / 太宰治(著)
僕らのやりとりをしばらく横目でにらんでいましたが、頃あいを見はからって、ぐふんとわざとらしいせきをして、おもむろに
ボロ家の春秋 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
人々は両手をひざの上に突っ張り、ひどいせきの発作のときのように身体をゆするのだった。回廊の上にいる何人かさえ笑った。
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
しかし一口飲むとひどくせきが出たので、これからは自分が飲みたいと云っても、飲ませてくれては困ると、女に言い付けた。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
いやよ、厭よ、ヘレン!」私は胸が一杯になり、何も云へなくなつた。私が泣くまいと懸命になつてゐる間に、ヘレンにはせき發作ほつさが起つた。
小柄こがらぢいさんは突然いきなりたゝみくちをつけてすう/\と呼吸いきもつかずにさけすゝつてそれからつよせきをして、ざら/\につたくちほこり手拭てぬぐひでこすつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
大したきずではないが容体ようだいが思わしくないから、お浜が引続き郁太郎を介抱かいほうしている間に、竜之助は一室に閉籠とじこもったまませき一つしないでいるから
大菩薩峠:02 鈴鹿山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
なんだ、これは? 俺はこごみこんで、せき払いをした。すると俺の口から、がっと真赤なヤイン(血)があふれ出て来た。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
同じ刺撃性の食物でも唐辛子とうがらし山葵わさびの類をせきの出る病人に食べさせたらいよいよ気管を刺撃して咳を増さしめるけれども生姜しょうがは咳を鎮静ちんせいさせる。
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
時どき力のないせきの音がれて来る。昼間の知識から、私はそれが露路に住む魚屋の咳であることを聞きわける。この男はもう商売もつらいらしい。
交尾 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
尻に毛なくして尾短し、手足人のごとくにて能くって行く、その声嗝々かくかく(日本のキャッキャッ)としてせきするごとし。
人間というものは、たとえ岩の上に立っているにしても、やはり立つのは自分の両足ですからなあ。僕はこのとおり、どうもせきが出ていかんです。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
魚のはらわたが腐ったような異臭が、身のまわりにただよっているのだった。胸の中は、灼鉄やきがねを突込まれたように痛み、それでせき無暗むやみに出て、一層苦しかった。
空襲葬送曲 (新字新仮名) / 海野十三(著)
休暇になっても、安斉先生は相変わらずご精励せいれいだ。朝から学監室にめている。先生のせきばらいがきこえるきこえないでは若様がたの心得がちがう。
苦心の学友 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
それから彼女は、もう答弁を受けないので、まきのない火のように静まった。しばらくして、父はせき払いをして言った。
蓬々ぼうぼうと乱れた髪毛かみひげの中から、血走った両眼をギョロギョロとき出して、洗濯板みたいに並んだ肋骨あばらぼねを撫でまわしてゼイゼイゼイゼイとせきをした。
鉄鎚 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
そこに顔をそろえた総計五名のうち、ぼくのほかの男たちはいい合わせたようにかなり強度の胸部疾患者ばかしであり、陰気なせきばかりつづけていた。
煙突 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
「お身体からだでも悪くて被居るのですか。」とたえ子が尋ねた。二人共叔父が時々軽いせきをしているのに気附いていた。
恩人 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
蚊帳かやの外のランプに照らされた清三の顔は蒼白あおじろかった。せきがたえず出た。熱が少し出てきたと言って、まくらもとに持って来ておいた水で頓服剤とんぷくざいを飲んだ。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
小柄でせてしわだらけで、見る影もない上に、ぜんそくの持病があるらしく、引つきりなしにせきをしてをります。
ざしの手をとめて、たとえば、作りせきをするとか耳に立つものの音をたてるかして、自分ながらしらずしらず湊の注意を自分に振り向ける所作をした。
(新字新仮名) / 岡本かの子(著)
つい隣の隅の方の陰気くさい部屋にごろごろしている一人の青年の、力ないせきの声が、時々うっとりと東京のことなどを考えているお増の心をおびやかした。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
新島君は当時より既によほど健康を損じておられたものと見えて、顔色蒼白そうはく体躯たいく羸痩るいそうという風が見えた。屡々しばしばせきをしておられたのが今なお耳に残っている。
「エヘン。」と、おじいさんのせきばらいがしました。女中じょちゅうが、なにかおじいさんにはなしているこえがきこえます。
日の当たる門 (新字新仮名) / 小川未明(著)
夜ひどいせきの発作におそわれたり、衰弱は目に見えて著しかった。だが、彼の目には妻の「死」がどうしても、はっきりと目に見えて迫っては来なかった。
美しき死の岸に (新字新仮名) / 原民喜(著)