いとま)” の例文
近き頃森田草平もりたそうへいが『煤煙ばいえん小粟風葉おぐりふうようが『耽溺たんでき』なぞ殊の外世に迎へられしよりこのていを取れる名篇佳什かじゅう漸く数ふるにいとまなからんとす。
矢はずぐさ (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
其他生理学上に於てつまびらかに詩家の性情を検察すれば、神経質なるところ、執着なるところ等、類同の個条蓋し数ふるにいとまあらざる可し。
厭世詩家と女性 (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
お糸も今はその身の危さに、前後を顧ふにいとまあらず、我を忘れて表の方に飛出したるを見て、庄太郎は我手づからくわんぬきを揷し
心の鬼 (新字旧仮名) / 清水紫琴(著)
少時しばらくしてからお父さんがまたお母さんを呼んだ。お母さんは実に忙しい。全く応接にいとまがない。然るにお父さんの方は至って楽だ。
ぐうたら道中記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
別後の情を細叙するにもいとまあらず、引かれて大臣に謁し、委托せられしは独逸語にて記せる文書の急を要するを飜訳せよとの事なり。
舞姫 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
なにしろあっし達は旅鴉たびがらすのことであり、そうそう同じ土地にいつまでゴロゴロして、出奔しゅっぽんした奴のことを考えているいとまがないのでネ。
三人の双生児 (新字新仮名) / 海野十三(著)
このほか造化の妙工を計れば枚挙にいとまあらず。人はただこの造化の妙工をり、わずかにその趣を変じてもってみずから利するなり。
学問のすすめ (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
一向ひたぶるしんを労し、思を費して、日夜これをのぶるにいとまあらぬ貫一は、肉痩にくやせ、骨立ち、色疲れて、宛然さながら死水しすいなどのやうに沈鬱しをはんぬ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
梵音海潮音ぼんおんかいちょうおんはかの世間の声にまされりという響が、耳もとに高鳴りして来たものですから、その余の声を聞いているいとまがありません。
大菩薩峠:23 他生の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「讀み書き算盤そろばんが得手で若い時から御藏方の役目を仰せ付けられ、武藝に勵むいとまもなかつたと、そればかりを苦にいたして居りました」
邦強く敵無くんば、まさに長策をふるうて四方を鞭撻べんたつせんとす、則ち人をしておのれに備うるにいとまあらざらしむ、何ぞ区々防禦のみを言わんや。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
その横顔へ、ぐさっと、一本の小柄こづかが突き立った。武蔵が、身を運んで救うにいとまがなく、投げたものであることはいうまでもない。
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一方から云へば、それは応接にいとまなき有様でしたが、また一方から云へば、世の新しがり屋に対する皮肉な警告ともなりました。
偉大なる近代劇場人 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
ほとんど一世紀以前、日本の片隅に於て活版術を実用化せしもの既にありといっても過言で無い。そのほか、勾当の逸事は枚挙にいとまなし。
盲人独笑 (新字新仮名) / 太宰治(著)
ある人(鳴雪めいせつ氏)曰く、和歌が古来より人を感動せしめたる例すくなしとの説は誤れり。和歌が人を感動せしめたる例枚挙にいとまあらず。
人々に答ふ (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
世俗吉良上野介につきて誤伝されあるもの枚挙にいとまあらず、これすべて芝居浪花節の題をもって史実なりと誤認するより起る。
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
その巧妙インジニアスな暗号により、只管ひたすらに読者の心を奪って他を顧みるいとまをあらしめず、最後に至ってまんまと背負しょい投を食わす所にある。
「二銭銅貨」を読む (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
自己の身命を賭して開いた山を護法の鎮守と崇め、かつは修法の天壇として神に法施を捧げ、護国饒民の勤行に他を顧るいとまがなかったと共に
山の今昔 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
幌の中に包まれた自分はほとんど往来のすさまじさを見るいとまがなかった。自分の頭はまだ経験した事のない海嘯つなみというものに絶えず支配された。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
道子が、取ったばかりの手拭を、引摺ひきずるように膝にかけて、ふりを繕ういとまもなく、押並んでひざまずいた時、早瀬は退すさって向き直って
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
当時、秋田藩の財政は極度に逼迫ひっぱくして、藩主の江戸参覲さんきんにもその費用の捻出ねんしゅつに窮するくらい、その他の事は一々記するいとまもないほどであった。
蕗問答 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
現在の事態のみを見てその歴史的由来などを考えるいとまがないためにその事態の真相を解しなかったり、するような欠陥のあることを免れない。
誤って法網ほうもうれしを、無情にも長く獄窓に坤吟しんぎんせしむる等、現政府の人民に対し、抑圧なる挙動は、実に枚挙まいきょいとまあらず。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
只此国の裁判官にはそんな複雑な感情を働かして居るいとまがない。目の前にあるものはみんな罪人である。早く監獄へいれてしまへば始末がつく。
公判 (新字旧仮名) / 平出修(著)
無論、学校を飛出してから何をするというあてはなかったが、この場合是非分別を考えるいとまもなくて、一図に血気に任して意地を貫いてしまった。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
しかれども年長ずるにしたがひ他に男子無きの故を以て妻帯を強ひらるゝ事一次ならず、学業未到の故を以て固辞すといえどもかん葛藤を避くるにいとまあらず。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
我はそのやさしき假面の背後に、人におごる貴人の色あるを見て、友の無情なるを恨むのみにて、かの猶太廓の戀のなりゆきを問ふにいとまあらざりき。
家を飛び出した時の笹村は、そこの退屈さを考えているいとまもないほど混乱しきっていた。それに適当な場所へ行くような用意ももとよりなかった。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
どうにもならない事を、どうにかする爲には、手段しゆだんを選んでゐるいとまはない。選んでゐれば、築土ついぢの下か、道ばたの土の上で、饑死うゑじにをするばかりである。
羅生門 (旧字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
仙台堀と油堀とを連ぬる小渠は一条のみならず、また木場附近の大和橋及び鶴歩橋の架れる一渠その他の小渠は、一〻記するにいとまあらざるを以て省く。
水の東京 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
いずれ宛擦あてこすりぐらいは有ろうとは思ッていたが、こうまでとは思い掛けなかッた。晴天の霹靂へきれき、思いの外なのに度肝どぎもを抜かれて、腹を立てるいとまも無い。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
南清なんしんで植民会社を創立したり、その当時の不遇政客のてつを踏んで南船北馬なんせんほくば席暖まるいとまなしと云う有様であったが、そのうちにばったり消息が無くなって
雨夜続志 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
その目的もくてきおよそ三つにわかつことが出來できる。一はうらみはうずるためで一ばんこわい。二は恩愛おんあいためむしろいぢらしい。三は述懷的じゆつくわいてきである。一のれいかぞふるにいとまがない。
妖怪研究 (旧字旧仮名) / 伊東忠太(著)
こゝにぬぐひ扶桑ふさう第一の富士をいだせり、そのさま雪の一握ひとにぎりをおくが如し。人々手をうち、奇なりとび妙なりと称讃しようさんす。千しようけい応接おうせふするにいとまあらず。
思想単純の時代というといえども、一は安危の繋がるところ小異を顧みるにいとまあらざるがゆえにあらずや。
近時政論考 (新字新仮名) / 陸羯南(著)
(中略)而も電鉄の労働者割引の便は、三十万の労働者をして亦路傍の露店に旧伴侶を訪ふのいとまなからしむ
大正東京錦絵 (新字旧仮名) / 正岡容(著)
自分は日々朝草鞋わらじをはいて立ち、夜まで脱ぐいとまがない。避難五日目にようやく牛の為に雨掩いができた。
水害雑録 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
家捜やさがしまでして何も見出さぬから最う吾々の役目はすんだじゃ無いか、好い加減においとま仕様しよう、さア君、さア
血の文字 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
私もいとまさえあったら、その見聞した明治女風俗を、何かの折々には描いて置きたいと思っております。
女の話・花の話 (新字新仮名) / 上村松園(著)
身の振り方を考えるいとまもないうちに身の置き場をうしなっていた。悲憤や怨嗟えんさをととのえる余地も置かせない処分であった。そこで思いはこの蝦夷地に走ったのだ。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
恥をも名をも思ふいとまなく、樣を變へ身を殺す迄の哀れの深さを思へば、我れこそ中々に罪深かりけれ。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
いとまのない客との応接、心を散漫に疲れさせるそれらの条件を健全でない事情と見て、反対の解毒剤として、所謂落着いた古来の仕舞は健全と思われているのであろう。
今日の生活と文化の問題 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
かと思うとまた、賑かな街路や、繁昌した旅館などが行手にあらわれて、応接にいとまないくらいだった。日足のみじかい冬のたそがれが、いつの間にか襲って来ていた。
土耳其トルコ人に聞けば伊太利イタリイが結局はまけると云ひ、伊太利イタリイ人に聞けば其れと反対な事を云つて居る。カイロまでいとまの無い旅客りよかくの為に埃及エヂプト土産を売る商店が幾軒もある。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
書肆はかたはら立派な果物罐詰類の店を出してゐる、進歩思想の商人である。此二人がプラトンに種々いろ/\の葡萄酒や焼酎を勧めて、プラトンは応接にいとまあらずと云ふ工合である。
板ばさみ (新字旧仮名) / オイゲン・チリコフ(著)
夏は日が長くても暑さに苦しむ所から「日永かな」などと呑気のんきに趣味を味わっているいとまがない。
俳句はかく解しかく味う (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
その他「完全なる剛体」とか「摩擦なき面」とか「一定の温度」とか一々枚挙にいとまはないが
物理学実験の教授について (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
祖禰そでいより、づから甲冑を擐し、山川を跋渉してやすんじ居るにいとまあらず、東、毛人を征する五十五国、西、衆夷を服する六十六国、渡りて海北を平ぐる九十五国、王道融泰
鉄舟徳済というような禅門書画家の輩出数うるにいとまなきほどの社会的雰囲気の中に育ち、わけて天才世阿弥のような実技者のきびしい幽玄思想に導かれた事によるのである。
美の日本的源泉 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
卯平うへいかすかな呼吸いき段々だん/\恢復くわいふくしてる。勘次かんじはどん/\と落葉おちば麁朶そだいた。かれときゆきはやし燃料ねんれうさがすことの困難こんなんなことを顧慮こりよするいとまさへたなかつたのである。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)