まぶた)” の例文
いつぞや銀座あたりの喫茶店で、何気なく卓上の砂糖をなめていたら、もう五十年も前に遊んだ故郷の野辺が、ふとまぶたに浮んできた。
甘い野辺 (新字新仮名) / 浜本浩(著)
田部はきんの本当の年齢を知らなかった。アパート住いの田部は、二十五歳になったばかりの細君のそそけた疲れた姿をまぶたに浮べる。
晩菊 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
けれども、そのまぶたが再び、ショボショボと開かれた時には、前よりも一層深い微笑が、左の頬から唇へかけて現われたようであった。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
旦那様は、安楽椅子に寄懸って、もう居睡いねむりをしてござった。だがそれは狸寝入たぬきねいりらしく、ときどきまぶたがぴくぴくとふるえて、薄眼があく。
什器破壊業事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
と、息切れのするまぶたさっと、気を込めた手に力が入つて、鸚鵡の胸をしたと思ふ、くちばしもがいてけて、カツキとんだ小指の一節ひとふし
印度更紗 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
故郷楼桑村ろうそうそん茅屋あばらやに、むしろを織って、老母と共に、貧しい日をしのいでいた一家の姿が、ふと熱いまぶたのうちに憶い出されたのであろう。
三国志:05 臣道の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いよいよ湧起わきおこる妄想の遣瀬やるせなさに、君江は軽くまぶたを閉じ、われとわが胸を腕の力かぎり抱きしめながら深い息をついて身もだえした。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
おしの強い事ばかり云つて。ひとの気も知らないで」と梅子は誠吾の方を見た。誠吾はあかまぶたをして、ぽかんと葉巻はまきけむいてゐた。
それから (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
そのなぞめいた、甘いような苦いような口元や、その夢の重みを持っているまぶたかざりやが、己に人生というものをどれだけ教えてくれたか。
ただ一度だけ見た小柄で色白なあの娘の、驚愕とも恐怖ともつかぬ開けっぴろげな表情をまぶたにうかべながら、その沈黙に対抗する。
軍国歌謡集 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
由良は、ぷっくりふくれたまぶたの間から、坂田の顔色をうかがっていたが、相手がおとなしくしているので、いきなり高飛車に出た。
あなたも私も (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
とらえどころのない故に一層根強いものであった。ごつんごつんと頭をたたかれたような先年来の労苦が、半夜のまぶたを濡らすのであろう。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
庭樹のしげりに隠れ行く篠田の後影うしろかげながめりたる渡辺老女のまぶたには、ポロリ一滴の露ぞコボれぬ「きツと、お暇乞いとまごひ御積おつもりなんでせう」
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
僕は眼をつぶって、こいしく、こがれて狂うような気持ちになり、まぶたの裏から涙があふれ出て、毛布を頭から引かぶってしまいました。
斜陽 (新字新仮名) / 太宰治(著)
いたずらに、もてあそんでいた三味線みせんの、いとがぽつんとれたように、おせんは身内みうちつもさびしさをおぼえて、おもわずまぶたあつくなった。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
いつの間にか、又、まぶたが合わさると、一年中開けっぱなしの窓から森を、あの深い森を、ずーっと分けて行くような匂いがした。
少いときでも、ぐったり首垂れた鳩や山鳥がまぶたを白くつむっていた。父が猟に出かける日の前夜は、きまって母は父に小言をいった。
洋灯 (新字新仮名) / 横光利一(著)
薄い下り眉毛まゆげ、今はもとの眉毛をったあとに墨で美しく曳いた眉毛の下のすこしはれぽったいまぶたのなかにうるみを見せて似合って居ても
鶴は病みき (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
お品はいつの間にやら、畳の上へ、水仕事で少し荒れているが、娘らしく光沢つやのある、美しい手を落して、そっと袖口をまぶたに当てました。
「駄目だよ。」と落着き払った声でKはいって女の腰でも抱える時のようにやさしくBの腰に手を廻した。そしてすばやくBのまぶたを撫でた。
(新字新仮名) / 小川未明(著)
両掌りょうてをそろえて、顔をおおった。まぶたがしきりとかゆかった。坊津での傷は、ほとんどなおっていて、その跡がしわになっているらしかった。
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
燁代さんは、檣の櫓に登って、だんだん遠ざかる碧海湾の波をながめながら、なんだか胸がせまって、まぶたがあつくなるのだった。
昭和遊撃隊 (新字新仮名) / 平田晋策(著)
見たばかりで、その病人がもう死にかかっていることはわかった。だが登は規則どおりに脈をさぐり、呼吸を聞き、まぶたをあげて瞳孔どうこうをみた。
睫毛まつげの長い一重まぶたが夢見るように細くなって、片頬かたほおに愛らしいえくぼができて、花弁のような唇から、ニッと白い歯がのぞいた。
暗黒星 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
崖の崩れ、埋れた池——何といふびしさかな。本堂の仏殿の前に立つて、礼拝らいはいをしたが、腹の底からまぶたの熱くなる気がした。
椎の若葉 (新字旧仮名) / 葛西善蔵(著)
明子は幼児の幻影を払ひ退けようとして幾度も手のひらをまぶたに斜めの空間に振つた。しかし彼女の手は空しく冷え冷えした秋の風を切つた。
青いポアン (新字旧仮名) / 神西清(著)
お浦の首級は、頼母の叫び声を聞くと、眼を開けようとして、まぶたを痙攣させたが、開く間もなく、一方へ廻り、窓から遠退き、闇へ消えた。
血曼陀羅紙帳武士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「おやおや、兄弟! 冗談でなしにまぶたが重くなつたと見えるな。もうそろそろ我が家へ帰つて煖炉ペチカの上へ這ひあがりたくなつたのぢやらう!」
眉ニまゆずみまぶたニアイ・シャドウヲ着ケ、フォールス・アイラッシュデ附ケ睫ヲ着ケ、ソレデモ足リナイデマスカラーデ睫ヲ長ク見セヨウトスル。
瘋癲老人日記 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
汗がようよう収まると、入れ代って両のまぶたがうるんで来た。彼女は自分の未来の果敢はかない姿を、もう眼の前に見せられたように悲しくなった。
番町皿屋敷 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
肉の眼で恐ろしい夢でも見るように、産婦はかっとまぶたを開いて、あてどもなく一所ひとところにらみながら、苦しげというより、恐ろしげに顔をゆがめた。
小さき者へ (新字新仮名) / 有島武郎(著)
男が煙草を喫いながら言うと、女は何か言おうとしながら口をつぐんだ。表情はすぐまぶたの顫えたのをきっかけに、一層いっそうの冷たさと蒼白さを加えた。
香爐を盗む (新字新仮名) / 室生犀星(著)
彼が他人の顔を良く見ようとする時は、顔を心持仰向けた上、人差指と親指とでたるんだまぶたをつまみ上げ、目の前を塞ぐ壁を取除かねばならぬ。
南島譚:03 雞 (新字新仮名) / 中島敦(著)
得たり賢し——多年、冷遇され、閑却され、虐待され、無視されていた角行燈子かくあんどんしは、時を得たりとばかり、パッとあらん限りのまぶたを開きました。
大菩薩峠:27 鈴慕の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
頭が熱し、まぶたが焼けて、じぶんは地獄にちてもマヌエラを天に送ろうと、座間は目をつぶり絶叫に似た叫びをあげていた。
人外魔境:01 有尾人 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
また、せめてそれがまぶたの下にぶらさがるように、彼女は、眼をすっかりつぶるのである。彼女は眠っているように見える。
暫し、彼が顏をそむけたとき、私は一滴ひとしづくの涙が閉ぢたまぶたから流れて、男らしい頬に轉び落ちるのを見た。私の胸は迫つた。
その夜は、いくら飲んでも、いがまわらず、むなしい興奮と、練習づかれからでしょう、頭はうつろ、ひとみはかすみ、まぶたはおもく時々痙攣けいれんしていました。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
そのために幾度いくたびまぶたぢ/\した。なみだおもむろにあふれでゝもう直視ちよくししようとはしない眼瞼まぶたひかり宿やどしてまつてゐた。
日の光を浴びて (旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
気の毒なことにはその上に両方のまぶたがもう逆転しかけていて、瞼の内側の赤い肉の色が半ば外から覗かれるのであった。
(新字新仮名) / 島木健作(著)
いつの間にか涙が眼にいっぱいに溢れた。そうしてまぶたを合せると、自分が歌津子と肩を組みながら、兄が馬に喰われているのを眺めている夢を見た。
青草 (新字新仮名) / 十一谷義三郎(著)
目たたきしてもまぶたが熱っぽいほどのぼせた頭を、ミネは農婦のように手拭で包み、日かげをよってうつむいて歩いた。
妻の座 (新字新仮名) / 壺井栄(著)
王様は鉄槌てつついのやうに重いまぶたをこすりこすり、やつとこさで寝床から起きた。亭主は手ばやく上布シイツを置きかへて往つた。
打まもり又も玉なす涙のあめ聲さへ出ずすがより私も一所に死にたしと身をふるはして歎くさま道理ことわりせめて哀れなり九助もまぶた
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
まぶたを潤おす涙も見えた。併も女は泣く事に依て一層勇気付けられ、一層雄弁に成るのであった。「口惜くやしいッ」独語ひとりごとの様にこう云って置いて又続けた。
偽刑事 (新字新仮名) / 川田功(著)
伊豆の地平線は、お乳の先にふれるくらいのところと書かれてあったけれど、ここでみる地平線は私のまぶたのあたり。
少年せうねんまぶたをこすりつゝ、悄然しようぜんていなか見廻みまわした。たれでも左樣さうだが非常ひじやう變動へんどうあと暫時しばしゆめちて、ふたゝめざめたときほど心淋こゝろさびしいものはないのである。
たとえば肖像のあごの先端をそろそろ塗っていると思うとまるで電光のように不意に筆がまぶたに飛んで行ったりした。
自画像 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
『あわれな郵便集配人よ。』とそれ等を読む度にまぶたが熱くなるのを覚える。その集配人だとて人である。雪の深い山路などは行き度くないにきまっている。
丸の内 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
すべてこんな蜥蜴が退化してほとんどまたは全く四脚を失うたものと真の蛇を見分けるには、無脚蜥蜴のまぶたは動くが蛇のは(少数の例外を除いて)動かぬ。