にら)” の例文
母親はきつい眼でにらんだが、唇には微笑がうかんでいた。黙って居間へゆき、ひき返して来ると、紙に包んだ物を渡しながら云った。
落ち梅記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
朽ちかけた梯子はしごをあがろうとして、眼の前の小部屋の障子が開いていた。なかには蒲団が敷いてあり、人の眼がこちらをにらんでいた。
ある心の風景 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
成瀬九十郎の変名に相違ないとにらみましたが、さすがの平次も、この忍術の師匠を縛るだけの証拠は一つも手に入らなかったのです。
けれどもそのうちにフイッと何か思出おもいだしたように私の顔を押し離すと、私の眼をキットにらまえながら、今までと丸で違った低い声で
支那米の袋 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
どっと笑いはやす観衆をちょっとにらんで黙らせ、腹が痛い、とてれ隠しのつまらぬうそをついて家へ帰って来たが、くやしくてたまらぬ。
新釈諸国噺 (新字新仮名) / 太宰治(著)
その信仰や極めて確乎かっこたるものにてありしなり。海野は熱し詰めてこぶしを握りつ。容易たやすくはものも得いはで唯、唯、かれにらまへ詰めぬ。
海城発電 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
「お江戸から、その殿様のお妾を盗んで来て、なんでも、たしかにこの府中のうちに泊ったにちがいないとにらまれたんだそうでがす」
大菩薩峠:21 無明の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「こいついよいよ関所だわえ。安宅あたかの関なら富樫とがしだが鼓ヶ洞だから多四郎か。いやにらみのかねえ事は。……あいあいそれがし一人にて候」
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
この三本の松の下に、この灯籠をにらめて、この草のいで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
そして城中にとらわれている黒田官兵衛の身と、この城下へ潜入せんにゅうしている黒田家の決死救出組の諸士の行動とをひそかににらみあわせて
黒田如水 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
花子は額にて君子をにらめ、白くなよやかなる手にて、軽く君子を打つ真似はしたれど、どこやらに嬉しさうなる素振りも見ゆるに
当世二人娘 (新字旧仮名) / 清水紫琴(著)
かゞみにらくらをしてあごをなでる唐琴屋からことやよ、惣て世間一切の善男子、若し遊んで暮すが御執心ならば、直ちにお宗旨を変へて文学者となれ。
為文学者経 (新字旧仮名) / 内田魯庵三文字屋金平(著)
しかし権兵衛さんは、頬髯ほおひげうずまった青白い顔に、陰性のすごい眼を光らせてにらみつけるばかりで、微笑を浮かべた事さえなかった。
大人の眼と子供の眼 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
そうしたら部屋のむこうに日なたぼっこしながら衣物きものを縫っていたばあやが、眼鏡めがねをかけた顔をこちらに向けて、上眼うわめにらみつけながら
碁石を呑んだ八っちゃん (新字新仮名) / 有島武郎(著)
ひそかに原庭先生に化けて教壇の上から敬二たちをにらんでいるように思えて、急に身体がガタガタふるえてきたことを覚えている。
○○獣 (新字新仮名) / 海野十三(著)
僕は心の中ではこの詩に感服していながら、ちょっとここのところがこざかしいと云えば云える腹立たしさで、彼女をジロリとにらんだ。
魚の序文 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
運転手ににらまれ、もじもじ恥にふるえながら目的地のアルジに車代をはらってもらう、人生至るところただもう卑屈ならざるを得ない。
オモチャ箱 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
鷹揚おうように腰を下した、出札の河合は上衣のそでを通しながら入って来たが、横眼で悪々にくにくしそうに大槻をにらまえながら、奥へ行ってしまった。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
ひとをからかいやがってと、俺が女をにらんだとき、奥の部屋の障子が開いて、ワンピースの若い女が出てきた。ひと眼見て、俺は
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
そして、その男とすれ違う時、ぎらぎらする二つの眼が丹治の方をにらむように光った。丹治はと見返すことができなかった。
怪人の眼 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
プロマイドにサイン組でないことは初手からにらんではいたが、それにしても乙にモナ・リザを気取っていやがる。ちと小癪こしゃくにさわるて。
メフィスト (新字新仮名) / 小山清(著)
娘は口元で笑いながら額越しににらむ真似をした,自分はわがまま子と言われるのよりは、何とかほかの名を附けてもらいたかッた。
初恋 (新字新仮名) / 矢崎嵯峨の舎(著)
そして腕組みをして昂然こうぜんとした態度を作つた。それには不自然なところがあつた。兄はありたけの勇をふるつて弟の瞳ににらみ合つた。
過去世 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
ようやく楽屋を出て来た小柳は、そこの暗いかげにも二人の手先が立っているのを見て、くやしそうに半七の方をじろりとにらんだ。
半七捕物帳:02 石灯籠 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
幾度悲鳴を上げられたり、つねられたり、にらまれたりしても、一向感じないし、感じても次の時には忘れてしまうのかも知れない。
狼疾記 (新字新仮名) / 中島敦(著)
もし怪しい奴とにらまれて、町奉行の手にでも引渡されたら……そして、どうしても密事を吐かねばならぬような嵌目はめおちいったら……
四十八人目 (新字新仮名) / 森田草平(著)
それが眼に入るか入らぬにきっかしらげた源三は、白い横長い雲がかかっている雁坂の山をにらんで、つかつかと山手の方へ上りかけた。
雁坂越 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
他の一人は絶頂に足を止めると、昂然と頭をあげて断崖の彼方を一にらみし、さてその上で口を結ぶと、黙って平原のほうに帰って来た。
二十歳のエチュード (新字新仮名) / 原口統三(著)
やゝ老いた顔の肉はいたく落ちて、鋭い眼の光の中に無限の悲しい影を宿しながら、じつと今打ちにかゝらうとした若者の顔をにらんだ形状かたち
重右衛門の最後 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
あゝ、海賊船かいぞくせんか、海賊船かいぞくせんか、しもあのふね世界せかい名高なだか印度洋インドやう海賊船かいぞくせんならば、そのふねにらまれたるわが弦月丸げんげつまる運命うんめい最早もはや是迄これまでである。
ドクトルは其後そのあとにらめてゐたが、匆卒ゆきなりブローミウム加里カリびんるよりはやく、發矢はつしばか其處そこなげつける、びん微塵みぢん粉碎ふんさいしてしまふ。
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
瞬間私は怒りのためにワナワナと全身を顫わせながら、眼も眩みそうな気持で、横たわった妻の姿態を、にらみ付けてくれたのであった。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
声する方を松本はにらみつ「証人の名を言ふに及ばぬ、し諸君が僕を信用するならば、あへて証人の姓名を問ふに及ばぬではないか」
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
私はその折ひとに貸す程の金を持合せてゐなかつたし、それに折角質屋の通帳かよひがあるとにらむで来た小説家にもそれでは済まなかつた。
しかしながらかつて論じたのは東山時代を主としてにらんだ足利時代の総論で、本篇は足利時代を東山時代に総括しての論である。
髪をこってりと櫛目だてて分け、安物だがズボンの折目はきっちり立った荒い縞背広を着たその男は、黒い四角い顔で私をにら
刻々 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
マツイがこの小型フォードを操縦する手並を想像してスマ子女史は愉快になっていた。猫舌のアメリカ人がスープをにらんでいる。
職業婦人気質 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
全世界を愚物の充満と見たクロイゲルの眼光がこの巴里を一望のうちに見降ろす丘の中腹に注がれたのは、いかにも革命児のにらみである。
厨房日記 (新字新仮名) / 横光利一(著)
成程然ういえば、何か気に入らぬ事が有って祖母が白眼しろめでジロリとにらむと、子供心にも何だか無気味だったようなおぼえがまだ有る。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
と、どこから登って来たか、爛々らんらんと眼を光らせたとらが一匹、忽然こつぜんと岩の上におどり上って、杜子春の姿をにらみながら、一声高くたけりました。
杜子春 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
過半数のものはあきらめていたが、それでも銘々、うぬぼれは持っていた。壺皿を見詰めるような目付で、喜蔵の手許てもとにらんでいた。
入れ札 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
薄い寝具の中にもぐり込んだまま、死んだようになっていた父親が出し抜けにもくりと蒲団ふとんに起き上って、血走った目で宙をにら
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
校長さんはかいってあきれてしまわれたのんか、ただ恐い眼エしてじっとにらんでおられるだけで、もう何ともいいなされしません。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
しかしてその妖巫の眼力が邪視だ。本邦にも、飛騨ひだ牛蒡ごぼう種てふ家筋あり、その男女が悪意もてにらむと、人は申すに及ばず菜大根すらしぼむ。
なるほど、青味がかった汚点しみのようなものが目につく。しかし、彼は、それが凍傷しもやけの始まりだといい張った。どうせ、にらまれているんだ。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
棟梁送りはどうなるんだ、と、わかりきったことをとがめていたのだ。しばらくにらめていた松岡は、うん——と、くびれたあごをしゃくった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
そして虚空から、「天王寺の妖霊星ようれぼしを見ずや」と歌います。その声が聞えると、高時は正気に返って立上り、小長刀なぎなた片手に空をにらみます。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
その少し藪にらみな白い大きな目が赤い紙で包んだ電灯のもとで光るのは不気味だが、その好い声を聴き、垂下たれさがつた胡麻塩髭の素直なのを見れば
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
そのときふと彼は、そういう彼自身の痛ましい後姿を、さっきから片目だけ開けたまんま、じっとにらみつけている別の彼自身に気がついた。
恢復期 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
婆さんはきつと豆小僧をにらみましたから、豆小僧はえりもとから水をかけられたやうに、ぞつとして何にも言はないで、お寺へ帰りました。
豆小僧の冒険 (新字旧仮名) / 宮原晃一郎(著)