くわ)” の例文
暮方近い夕靄ゆうもやの立ちこめる道の上を年老いた郵便配達夫のパイプをくわえながら歩いて行くのが、いかにも呑気に見られたものでした。
亜米利加の思出 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
お玉は嬉しくてたまらない、腰をかがめてムクの背中をさすってやろうとすると、ムクがその口に何か物をくわえていることを知りました。
大菩薩峠:06 間の山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
見た上でこれならよいと当りが付いたら、手拭をくわえて飛び込んで見よう。とここまで思案を定めた上でのそのそと洗湯へ出掛けた。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
日華洋行にっかようこうの主人陳彩ちんさいは、机に背広の両肘りょうひじもたせて、火の消えた葉巻はまきくわえたまま、今日もうずたかい商用書類に、繁忙な眼をさらしていた。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
唯ここに一つの疑問として残されているのは、池崎の中間どもが清水山に犬を入れてくわえ出させたという、かの怪しい箱の出所しゅっしょである。
半七捕物帳:43 柳原堤の女 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
手水鉢ちょうずばちで、おおいの下を、柄杓ひしゃくさぐりながら、しずくを払うと、さきへ手をきよめて、べにの口にくわえつつ待った、手巾ハンケチ真中まんなかをお絹が貸す……
白花の朝顔 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
すん近くもある鶏の脚の骨を、二、三度不器用に大きい口でくわえたり吐き出したりしているうちに、すっぽりと呑み込んでしまうのである。
由布院行 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
その縄を解いて電話機のそばまで転がって行って、受話器を口にくわえて床の上に下ろし、それからアンジアンの電話局へ救助を叫んだのだ。
水晶の栓 (新字新仮名) / モーリス・ルブラン(著)
何の事あねえ不動様の金縛りを喰った山狼やまいぬみてえな恰好で、みんな指をくわえて、唾液つばきを呑み呑みソンナ女たちを眺めているばかりでした。
人間腸詰 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
医師が出て行ったのにまったく呆気あっけに取られて、パイプを口から取り出したまま、それをまた口にくわえるのもすっかり忘れたほどだった。
それは稲をくわえた野狐を高肉彫たかにくぼりした梨地の印籠だが、覆蓋の合口によって烏森の蒔絵師梶川が作ったものだということがひと目で判るから
顎十郎捕物帳:02 稲荷の使 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
くわ煙管ぎせるで頑張り、岸から二、三段の桟橋、もやった船には客が二、三人、船頭はさおを突っ張って「さあ出ますよウ」と呶鳴どなる。
明治世相百話 (新字新仮名) / 山本笑月(著)
子供は満腹したらしく、乳首はくわえるだけで、いいきげんに鼻声をたてながら、しきりに手で両の乳房をいたずらしていた。
契りきぬ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
小夜子も不断着のまま、酒のかんをしたり物を運んだりしていたが、ふと玄関の方のふすまを開けて縕袍どてら姿で楊子ようじくわえながら入って来る男があった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
馬士まごや牛追いの中にはくわ煙管ぎせるなぞで宿村内を歩行する手合いもあると言って、心得違いのものは取りただすよしの触れ書が回って来たほどだ。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
老看護人の鳥山宇吉とりやまうきちは、いつものように六時に目を醒すと、楊枝ようじくわえながら病舎へ通ずる廊下を歩いて行ったのだが
三狂人 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
竪川の——その頃はよく澄んでいた水に、ポンとはりほうって、金煙管きんぎせる脂下やにさがりにくわえたことに何の変りもありません。
大きくはなるけれど、まだ一向に孩児ねんねえで、垣の根方ねがたに大きな穴を掘って見たり、下駄を片足門外もんそとくわえ出したり、其様そんな悪戯いたずらばかりして喜んでいる。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
と一杯すくい上げてこぼれない様に、たいらに柄杓のくわえて蔦蔓つたかづらすがり、松柏の根方を足掛りにして、揺れても澪れない様にして段々登って来る処を
真景累ヶ淵 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
が、獲物を奪われた悪魔が、そのまま指をくわえて引込んでしまう筈はなかった。やがてまた、倭文子の身辺に、何ともいえぬ変なことが起り始めた。
吸血鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
わきにすこし離れて、白いシャツを夜目に浮立たせ、パイプをくわえた男が立っていて、二人は別に喋るでもなく穏やかな親しさで河風にふかれている。
築地河岸 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
やがてM少佐が電話を終り、工兵の襟章をつけた太った少佐も、どこからか葉巻をくわえて現れると、報告が始った。
パイプをくわえた大きな顔を天井に向け、眼だけで塩野を見降すようにして云う由吉の様子を見て、矢代は、突然話を切り換えたその由吉の頭の鋭さを
旅愁 (新字新仮名) / 横光利一(著)
と、田毎たごと大尉は、くわえていた紙巻煙草をぽんと灰皿の中になげこむと、当惑とうわく顔で名刺の表をみつめた。前には当番兵が、渋面じゅうめんをつくって、起立している。
空中漂流一週間 (新字新仮名) / 海野十三(著)
彼はデッキチェアーにもたれて、沸々ふつふつとたぎるソーダ水のストローをくわえたまま、眼は華やかな海岸に奪われていた。
鱗粉 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
南日君が迎えに行く、くわ煙管ぎせるで帰って来た金作は「此処の魚は喰い付くことを知らんぞ」と言って皆を笑せた。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
ツマリ黄人の勝利は文明の大破壊であるから、このまま指をくわえて引込んでる事は世界の文明のために出来ない。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
煙管きせるくわえて、後手うしろで組んで、起きぬけに田の水を見るたつじいさんの眼に、露だらけの早稲わせが一夜に一寸も伸びて見える。昨日花を見た茄子なすが、明日はもうもげる。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
しかもこの渡世、買い手に廻るのは狭いようでも広い世間にたった一人か二人、その外の連中は欲しいには欲しいが、値が高いので指をくわえている外はないという。
奇術考案業 (新字新仮名) / 長谷川伸(著)
いま習慣しうくわんなんともないやうになつてしまう』とつて芋蟲いもむしは、くち煙管きせるくわへてふたゝはじめました。
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
殿下も待兼まちかねておはすればと促されて、まだ大尉たいいになりてほどもあらじと見ゆる小林といふ少年士官、口にくわへし巻烟草まきタバコ取りて火鉢ひばちの中へ灰振り落して語りは始めぬ。
文づかひ (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
忠公のお母さんの肩掛を着せたら、少しは象らしくなったが、牙がなくてはうも拙い。それで何かのやくに立つだろうと思って持って来た伯父さんの喇叭ラッパくわえさせた。
いたずら小僧日記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
一寸ちょとついわたいた受取うけとった/\一つでは乳首くわえて二つでは乳首はないて三つでは親の寝間を離れて四つにはよりよりいつつでは糸をとりそめ六つでころ機織はたおりそめて——
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
ラームグハリット言う、ニルカンス鳥は、女神シタージの使物として、インドに尊ばる帽蛇、蛙をくわえ、頭にこの鳥を載せて川を渡るを見る人は、翌年必ず国王となると。
それは、その晩の過程プロセスを忠実に反復するだけの労力でいいのです。女が売春を装ってキャジノから男をくわえ出す。そして町角で気絶を真似る。そこへ「23」が現われる。
踊る地平線:09 Mrs.7 and Mr.23 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
階段から下りて行った親父はくわ楊枝ようじで朝湯に出掛け、十分ばかりで帰って来て朝酒を飲み、遅い/\と云いつゝ朝飯を掻き込んで、そゝくさと逃げるように家を出て行く。
The Affair of Two Watches (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
謙作はその袋を口にくわえて、手早く洋服を着て外へ出たが、の女はもう姿も見せなかった。
港の妖婦 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
夫婦ふうふして仲睦なかむつまじくおちやをのんでゐると、そこへきじを一つくわえてきて、おいてきました。それは裏山うらやま神樣かみさまからでした。なにいてありました。みると
ちるちる・みちる (旧字旧仮名) / 山村暮鳥(著)
申し訳けほどの低いカラーを頸につけた、四斗樽どころの騒ぎじゃない、五斗か六斗樽って大男が、牧場の柵の上に乗っかって、日なたぼくりをしながらくわえ煙管で下ろして
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
しまいに、二つの膝がしらをそろえ、ぺたんこに坐ってしまって、よくある例の手帕ハンカチを口にくわえ、地獄から今かえってきたような顔付をして見せたときに、わたしは少し不愉快だった。
ヒッポドロム (新字新仮名) / 室生犀星(著)
かがんだままに、乱れた後れ毛を掻きあげてから、両手を腰へあてて、派手な裾着すそぎの下でくるっと胴体をひねると、彼女は矢車菊を一本くちくわえて、畦づたいにすたすた歩きだした。
麦畑 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
女は、黒い髪の毛を見ると、この鳥が、どこから、それをくわえて来たかと考えた。
森の暗き夜 (新字新仮名) / 小川未明(著)
お初がふりかえって、門倉平馬が、くわえぎせるでいるのに、皮肉な、苦い言葉——
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
他所よそながら指をくわえて見物している青年わかものも少くはなかった。
富岡先生 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
と、ゆらりと、葉巻をくわえて出て来た支那服の北原白秋
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
差し押さえ物件をくわえていたりぬ。
おのはねの抜けしをくわ羽抜鳥はぬけどり
五百五十句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
まさかお角が、旅にまでイカモノをくわえ込んで隠して置くはずはない。そこに道庵が不審を打ったのも、さすがに眼が高いものです。
大菩薩峠:38 農奴の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
反物たんもの片端かたはしを口にくわへて畳み居るものもあれば花瓶かへい菖蒲しょうぶをいけ小鳥に水を浴びするあり。彫刻したる銀煙管ぎんぎせるにて煙草たばこ呑むものあり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
むしろ、冷然として、煙管きせるくわえたり、鼻毛をぬいたりしながら、莫迦ばかにしたような眼で、舞台の上に周旋する鼠の役者を眺めている。
仙人 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)